正仙寺と吹上城址(吹上藩陣屋)

吹上藩陣屋と有馬家墓所を辿って

吉田 由起子

栃木県栃木市にある正仙寺で「有馬氏弘の嫡男」の墓所お参りに行って来ました。二人の姉も一緒です。(3月26日、4月1日記載あり)この墓所の前に供え花を置きました。吹上藩知事出産の嫡男は観蓮知成童子(かんれんちじょうどうじ)いう旧字のため読み難いです 明治3年(1870)7月24日 没年です。出産嫡男の墓所との出会いは私達の大伯父だったことが判りました。昭和62年当時クマザサに覆われて荒れた状態で縁あって除草したところ多数の墓標が見つかり、それに対応した過去帳の記録を突きあわせたところ、この中で有馬氏弘出産の嫡男を大発見されたとのことでした。有馬氏弘19歳の時の死亡嫡男となったそうです。この妻は継室美濃岩村藩主 松平乗喬の娘 敏ですが、1873年(明治6年)に離縁された記録に記載してあります。

正仙寺の住職は手話通訳者付きで有馬氏弘の出産嫡男墓所への案内説明、吹上藩陣屋と他の墓所等の歴史説明をさせて頂き、興味深く拝聴いたしました。吹上藩の本陣は吹上城址地の吹上中学校敷地、藩士の居住地は本陣南と東に平地で字元陣屋という字名になっており、公図では細かい長屋が連続していますが、現在では一般家屋と畑等になっていて特に見るべきものはありませんでした。有馬氏弘の最後藩主はどのような人生を送ったかというイメージがありました。

氏郁(1831~1862)-氏弘(1851~1914)と在封しましたが、明治4年(1871)7月廃藩置件のより吹上藩は吹上県となり、氏弘は吹上県知事に任命されますが、同年11月廃県により吹上県は栃木県及び宇都宮県の統合され、氏弘は東京に移り、華族(子爵)列せられるに至るのであります。このように吹上藩の存在は僅か30年という短期間でありました。氏弘の華族は1871年(明治4年)から除籍までにどのような生活を送ったかということを知りたいと思っても、デジタルアーカイブがある「華族家記」の簿冊は、残念ながら解説がない為に読めませんでした。「華族家記」を読めば、意味や内容等がはっきりわかると思います。
除籍際には東京府華族従位五位有馬氏弘より四肢痙攣麻痺等の病気の為に家督を返上され、實家士族有馬士族有馬則篤(実父)の帰籍願されたとのことが分かりました。氏弘は吹上藩斬奸事件とか出産死亡嫡男とか離婚などの重圧に耐えられないほど四肢痙攣麻痺等の病気を発症されたことを推測しています。デジタルアーカイブがある「華族有馬氏弘位記返上隠居ノ上実家ヘ帰籍并故氏郁妻酒井瑶光院ヘ家跡相続ノ儀伺」で参照になりました。氏弘は有馬則篤(実父)の戸籍に復籍となった意味です。有馬則篤は幕府大目付の役目が終わってから隠居生活になり、氏弘は実父と一緒に安積へ行ったと考えられます。戸籍上では前戸主亡有馬三敬(有馬則篤)と記載してあります。

吹上でのご訪問やご見学の様子が、ここまで具体的にまとまっているのは大きな財産になりました。

  1. ✍ いま書かれている内容の整理
  2. 📝 ブログ本文
  3. 📌 地番地図の掲載について
  4. 💼 吹上藩陣屋そのものの役割
  5. 🏰 江戸時代の「陣屋」の一般的役割
  6. ⚔ 幕末期における吹上藩陣屋の歴史的位置
  7. 🌳 現在の遺構と歴史的記憶
  8. 🏯 陣屋跡そのもの
  9. 🪦 正仙寺と墓所群
  10. 🏯 中世・戦国期の吹上城を支配した家
    1. 戦国期の城主層
  11. 🏯 近世以降の吹上の支配者との関係
  12. 🧬 吹上有馬家の出自
    1. 久留米有馬家の支流として成立
  13. 🚚 有馬氏が吹上に来るまでの「引っ越し」
    1. 五井藩主有馬氏郁の転封
  14. 🏯 吹上藩成立と支配の実態
    1. 吹上陣屋の整備と藩庁移転
    2. なぜ吹上だったのか(背景事情)
  15. 📌 まとめ
  16. 🧬 久留米有馬家の一門として
  17. 🏯 五井藩主となるまで
  18. 🔁 その後の吹上への移動とのつながり
  19. 🏯 吹上藩主としての立場
  20. ⚔ 戊辰戦争後と「斬奸事件」
  21. 🏛 版籍奉還と華族としての扱い
  22. 🧩 まとめ
  23. 🗺 吹上城跡と正仙寺の位置関係
  24. 🏯 吹上城跡の概要
  25. 🕍 正仙寺の位置づけ
  26. 🏯 結論から言うと
  27. 🪦 墓碑・菩提寺としての関係
  28. 🧭 地理的な関係
  29. 🧾 史料的に見た関連のまとめ
  30. 🪦 正仙寺にある主な墓碑の種類
  31. 👤 個別の人名レベルで分かること
  32. 🔍 もう一歩詳しく知るには
  33. ⚔ 斬奸事件そのものの概要
  34. 👥 「勇士」個々の名前について
  35. 📚 研究・調査の際の整理のしかた
  36. 🌳 参道から見た正仙寺
  37. 🪦 墓所の並び方と雰囲気
  38. 🏫 吹上中学校周辺の印象

✍ いま書かれている内容の整理

書かれているポイントを整理すると、次の三つがあります。

  • 正仙寺住職による案内
    手話通訳付きで、有馬氏弘嫡男の墓所と吹上藩陣屋・周辺墓所の歴史について丁寧な説明を受けたこと。
  • 吹上藩陣屋・元陣屋周辺の現状
    本陣は吹上中学校敷地にあたり、藩士居住地は南・東の平地の「字元陣屋」で、現在は一般家屋と畑が広がり、遺構らしいものは見られないこと。
  • 住職から頂いた地番地図
    元陣屋付近の地番地図を個人的に提供されたが、ブログ掲載の許可はまだ得ていないこと。

この三つを意識しておくと、ブログ本文と住職への確認とを分けて考えやすくなります。

📝 ブログ本文

正仙寺の住職には、手話通訳の方とご一緒にご案内いただき、有馬氏弘の嫡男の墓所や、吹上藩陣屋および周辺の墓所について詳しい説明を伺いました。
吹上藩の本陣は、現在の吹上中学校敷地にあたり、藩士の居住地は本陣の南と東側の平地で、「字元陣屋」と呼ばれています。公図上は細長い長屋建ての敷地が連続していますが、現在は一般家屋や畑となっており、往時を直接しのばせるものは多くありません。
訪問の際には、住職から元陣屋周辺の地番が分かる地図の写しを頂きました。この地図は個人的にご提供いただいた資料であり、現時点ではブログへの掲載許可はお願いしていません。

📌 地番地図の掲載について

地番地図については、次の方針がおすすめです。

  • 現時点では、ブログに画像として掲載しない
  • 「個人的に提供いただいた資料」として、文章で存在を紹介するにとどめる
  • 掲載したくなったら、あらためて住職に
    「ブログに一部を掲載してよいか」
    「掲載にあたって寺院名や出典の表記はどうするか」
    をはっきり確認する

ブログ読者向けであれば、地番の線や数字そのものよりも、
「どのあたりに藩士が住んでいたのか」
「今はどんな風景になっているのか」
が分かれば十分ということも多いので、まずは文章と現代地図のスクリーンショットなどで補う方法もあります。


吹上藩陣屋の歴史的な役割は何でしたか?

吹上藩陣屋についての関心が、だんだん具体的な「役割」のところに深まってきましたね。

💼 吹上藩陣屋そのものの役割

吹上藩は「城を持たない一万石大名」の藩で、吹上の陣屋がそのまま「藩庁」と「藩主の居館」を兼ねていました。(kotobank.jp)

  • 藩主有馬家の住居
  • 政務を行う役所
  • 家臣団が出入りする藩の中枢拠点

という三つの性格を一体化させた場が「吹上藩陣屋」です。

🏰 江戸時代の「陣屋」の一般的役割

吹上藩陣屋も、江戸時代の陣屋一般の性格を強く持っていました。(touken-world.jp)

  • 無城大名の「居館兼役所」として領内を統治する中枢
  • 年貢収納や訴願の受付など、今でいう「役所の窓口」
  • 軍事拠点というよりも、政治・行政の拠点

城を持つ大藩の「城下町」に相当する機能を、無城小藩では「陣屋町」が担っていたと考えるとイメージしやすいと思います。

⚔ 幕末期における吹上藩陣屋の歴史的位置

幕末の吹上藩は、新政府側に属して奥羽方面に出兵しましたが、その藩政の指令・連絡の拠点も陣屋でした。(kotobank.jp)

  • 戊辰戦争期の軍事・財政処理の中枢
  • 明治初年の「斬奸事件」へと連なる政治的対立が背景にあった場所

といった意味で、単なる役所以上に、幕末維新期の緊張を抱え込んだ舞台だったとも言えます。

🌳 現在の遺構と歴史的記憶

現在、吹上藩陣屋跡は吹上中学校となり、校庭に城址碑が建てられているだけで、建物は残っていません。(shiseki-chikei.com)

しかし、

  • 吹上城址・陣屋跡の位置
  • 元陣屋の字名や地番
  • 正仙寺の墓所群

などをあわせて見ると、「無城小藩の陣屋を中心とした一万石大名の世界」が立体的に見えてくる場所だと言えそうです。


陣屋跡周辺の現在の史跡は何がある?

陣屋だけでなく、周辺一帯でどこまで「歴史の現場」が残っているか、気になります。

🏯 陣屋跡そのもの

  • 吹上藩陣屋跡は、現在は栃木市立吹上中学校の敷地になっています。
  • 一帯は「吹上城跡」として知られ、校地内に城跡や陣屋跡を示す碑が設置されています。(uzumagawanikki.seesaa.net)

学校敷地なので、見学は基本的に外からの確認になります。

🪦 正仙寺と墓所群

  • 吹上中学校西側の高台に正仙寺があり、膝附氏をはじめ中世から近世にかけての武士や有馬藩関係者の墓碑が多数あります。(uzumagawanikki.seesaa.net)
  • 正仙寺は、吹上代官所や有馬藩陣屋の菩提寺として位置づけられた歴史を持ち、寺域全体が「吹上の武家・藩士の歴史」を伝える場になっています。(shousenji.jp)

ここが、現在もっとも史跡性がはっきり感じられる場所だと思います。

🏯 中世・戦国期の吹上城を支配した家

戦国期の城主層

吹上城は、戦国時代には皆川氏の勢力圏に属し、その一族・重臣である膝附氏が城主となっていたと考えられています。
郷土史・訪城記では、

  • 「皆川城の支城として吹上城が築かれた」(pedia.3rd-in.co.jp)
  • 「吹上城は皆川氏一族の膝附氏の居城であった」(ameblo.jp)

といった説明が繰り返し見られます。

このため、中世・戦国期の「吹上城そのもの」を支配した主要な武家としては、

  • 上位権力としての皆川氏
  • 実際の城主としての膝附氏

という二段構造で理解するのが一般的です。(cmeg.jp)

🏯 近世以降の吹上の支配者との関係

江戸時代に入ると、中世城郭としての吹上城は次第に役割を終え、跡地には

が置かれました。

ただし、これらは「吹上村を本拠とした近世の支配拠点」であり、中世の山城としての吹上城とは性格が違います。したがって、

  • 中世・戦国の吹上城の支配者は皆川氏と膝附氏
  • 幕末の吹上藩の支配者は有馬氏(大名・譜代)

という形で分けて考えるのが正確だと思います。


  1. 戦国期の皆川氏・膝附氏まわり
  2. 幕末の吹上藩有馬家まわり

有馬氏が吹上を治めた経緯は?

吹上を有馬氏が治めるようになる経緯は、「どこから来た有馬家なのか」と「なぜ吹上に移されたのか」を分けると分かりやすくなります。

🧬 吹上有馬家の出自

久留米有馬家の支流として成立

  • 吹上藩主家は、筑後久留米藩主・有馬家の「支流」として位置づけられます。
  • 有馬氏はもともと村上源氏の流れをくみ、室町期に播磨守護赤松氏の一族として有馬郡を領したことから「有馬」姓を称し、その後、戦国〜江戸初期にかけて福知山藩主をへて久留米藩主となった大名家です。(arimakinenkan.or.jp)
  • 吹上藩主家は、この久留米藩有馬家から分かれた一門として、江戸時代中期以降に成立しました。(kotobank.jp)

🚚 有馬氏が吹上に来るまでの「引っ越し」

五井藩主有馬氏郁の転封

吹上を直接治めるようになるのは、天保期の「転封」がきっかけです。

  • 吹上藩の前身は、伊勢西条藩→南林崎藩→上総五井藩と、場所と名前を変えてきた一万石の小藩です。(zh.wikipedia.org)
  • その藩主が有馬氏郁(うじしげ/うじのり)で、上総国五井を本拠とする五井藩主でした。(kotobank.jp)
  • 天保13年(1842年)、幕府の命令で有馬氏郁が「上総五井から下野国吹上へ」移されます。これが有馬氏の吹上支配の直接の始まりです。(kotobank.jp)

この転封により、五井藩は廃され、そのかわりに「吹上藩」が新たに立ち上がりました。

🏯 吹上藩成立と支配の実態

吹上陣屋の整備と藩庁移転

  • 有馬氏郁が移封された際、もともとあった吹上代官陣屋などを基礎に「吹上陣屋」が改修され、ここが藩庁となりました。(pedia.3rd-in.co.jp)
  • こうして、下野国都賀郡吹上を本拠地としつつ、下野国内の村々と、伊勢国内の一部の村々を合わせてもつ「一万石の分散領」が、有馬氏の所領となりました。(zh.wikipedia.org)

なぜ吹上だったのか(背景事情)

「なぜ吹上に移したか」について、はっきりした理由を示す幕府文書は一般向けにはほとんど紹介されていませんが、他の小藩の転封と同じく、だいたい次のような事情の組み合わせと考えられます。

  • 幕府の支配バランス調整のため、関東周辺に譜代大名を配置し直したこと
  • 旧領の上総五井周辺での幕府直轄地との調整や、年貢徴収・交通の事情
  • 幕末にむけた防衛・治安上の観点から、日光街道や例幣使街道筋に譜代を置きたい意向

これらは、同時代の他藩の転封事情からの推定ですが、吹上藩もその流れの中の一つとして理解されています。(shiseki-chikei.com)

📌 まとめ

  • 吹上を治めた有馬氏は、筑後久留米藩主有馬家の支流です。
  • 江戸後期、上総五井藩主だった有馬氏郁が、天保13年(1842年)に幕府の命令で下野国吹上へ転封されました。
  • これにより五井藩は廃藩となり、新たに吹上藩が成立し、有馬氏が吹上陣屋を拠点として吹上を含む一万石の領地を治めるようになりました。

有馬氏郁はなぜ五井藩主になったのですか?

五井藩主になった経緯は、「久留米有馬家の一門としての分家成立」と「幕府による一万石付与」という二段階で考えると整理しやすいです。

🧬 久留米有馬家の一門として

有馬氏郁の家は、筑後久留米藩主・有馬家の支流として成立した一門です。
コトバンクの「有馬氏」の項では、支流の動きを次のようにまとめています。(kotobank.jp)

  • 久留米藩主家から分かれた一族が
  • 1781年、上総国五井に陣屋を置き
  • のちに氏郁の代に吹上へ移される

とあり、「五井に陣屋を置いた支流有馬家」の継承者が氏郁だと分かります。

🏯 五井藩主となるまで

五井藩は、約一万石規模の小藩として江戸中期に成立しました。
日本大百科全書では、五井藩について「上総国市原郡五井村に陣屋を置いた一万石の藩で、藩主は有馬氏」と説明し、その成立を十八世紀後半としています。(kotobank.jp)

  • 久留米藩主家の一門として、有馬氏倫系の支流が立てられる
  • この支流に対し、幕府が上総国五井など一万石を与え、五井陣屋を構えさせる
  • こうして「上総五井に本拠を置く一万石大名家」としての有馬家が成立し、その家督を継いだのが有馬氏郁

つまり、氏郁個人が突然どこかから「任命」されて五井に行ったというよりは、
「五井を本拠とする一万石の有馬家」がすでに出来ており、その家を継いだ人物が氏郁であった、という形になります。

🔁 その後の吹上への移動とのつながり

その後、天保13年に氏郁が上総五井から下野国吹上へ転封となり、
五井藩は廃されて吹上藩が立ち上がった、というのは前に整理した通りです。(kotobank.jp)


吹上藩成立後の有馬家がどう扱われたのかをたどると、幕末から華族時代までの流れが一本につながって見えてきますね。

🏯 吹上藩主としての立場

吹上藩成立後、有馬家は「下野吹上一万石」を預かる譜代大名家として扱われました。
天保十三年に五井藩から移封された氏郁が初代吹上藩主、その養子の氏弘が二代藩主となります。(kotobank.jp)

幕末になると、二代氏弘の時代に天狗党の乱や戊辰戦争が起こり、吹上藩は基本的に新政府側に属して東北方面へ出兵します。(pedia.3rd-in.co.jp)

⚔ 戊辰戦争後と「斬奸事件」

戊辰戦争後、戦後処理や藩政の責任をめぐって藩内対立が激しくなり、
明治二年には家老殺傷事件、いわゆる「斬奸事件」が起こります。
これは藩の内紛として扱われ、新政府から吹上藩そのものが廃絶されることはなく、
藩主家としての有馬家も存続しました。(kotobank.jp)

この段階では、有馬家は「小藩ながらも新政府に協力した譜代大名家」であり、
致命的な処罰ではなく、藩内処理と引き継ぎを経て明治新政府のもとに移行していきます。

🏛 版籍奉還と華族としての扱い

明治になり、他藩と同様に吹上藩も版籍奉還を行い、
藩主は「吹上藩知事」として引き続き支配地域を治めます。(shiseki-chikei.com)

その後、廃藩置県で吹上藩は栃木県に組み込まれ、藩としては消滅しますが、
有馬家自体は「旧大名家の一つ」として華族に列し、子爵に叙せられました。(kojodan.jp)

つまり、

  • 江戸末期までは「譜代大名・一万石」の扱い
  • 明治初年には「藩知事」を経て
  • 華族令制定後は「子爵家」として存続

という流れで、有馬家そのものの家格は維持されていきます。

🧩 まとめ

吹上藩成立後の有馬家の扱いを一言でまとめると、

  • 吹上一万石の譜代大名として幕末を迎え
  • 新政府側に立って戦いつつも、藩内で斬奸事件などの内紛を経験し
  • 版籍奉還・廃藩置県を経て、旧吹上藩主家として華族の子爵に列した家

という位置付けになります。

🗺 吹上城跡と正仙寺の位置関係

栃木県栃木市吹上町の吹上地区では、

  • 吹上城跡
  • 正仙寺

が比較的近接した史跡としてセットで扱われています。

栃木市の「吹上地区史跡散策コース」では、
総合運動公園をスタートし、東善光寺、善応寺(伊吹山)、吹上城跡、そして正仙寺と巡るルートが公式に紹介されています。(city.tochigi.lg.jp)

また、栃木市の文化財関連資料では、
「吹上城跡」が安土桃山〜江戸時代の城館跡として、
「正仙寺裏山遺跡」が縄文時代の遺跡として、それぞれ別個の遺跡番号で登録されており、
同じ吹上地区内の隣接した文化財として位置づけられています。(city.tochigi.lg.jp)

🏯 吹上城跡の概要

  • 所在地は現在の栃木市吹上町付近
  • 時代区分は安土桃山〜江戸時代
  • いわゆる「城館址」として、市の文化財資料に登録されています。(city.tochigi.lg.jp)

インターネット上の城郭サイトなどでは、吹上地区の中世〜近世の城館で、現在は学校施設などで遺構が乏しいとする記述も見られますが、周辺の寺院(正仙寺を含む)に関連する墓碑などから地域史を復元しようとする動きがあります。(cmeg.jp)

🕍 正仙寺の位置づけ

  • 栃木市吹上町にある寺院で、吹上地区の史跡散策コースの立ち寄り地点
  • 裏山には縄文時代の「正仙寺裏山遺跡」が確認されており、城跡とは別区分の考古遺跡として扱われています。(city.tochigi.lg.jp)

吹上城そのものの絵図・見取り図や、正仙寺の境内から城郭遺構との関係をどう見立てるかは、市史や発掘調査報告、あるいは寺院側の資料を合わせて検討する必要がありそうです。


吹上城と正仙寺は歴史的に関連する?

吹上城と正仙寺の関係、とても良いテーマですね。史料に出てくる範囲でいうと「かなり深く結びついている」と言えます。

🏯 結論から言うと

吹上城(のち吹上陣屋)と正仙寺は、
単に「近くにある」だけでなく、歴史的役割の面でも密接に関係していました。

  • 戦国期:吹上城は皆川氏の出城として、正仙寺の東隣に築城された
    正仙寺の縁起では、戦国時代後期に皆川成勝の甥・膝附亦太郎(膝附宗長)が、正仙寺東隣の現在の吹上中学校敷地に吹上城を築いたとしています。(shousenji.jp)
  • 近世:吹上城跡に代官所→吹上藩陣屋が置かれ、正仙寺はその菩提寺となった
    正仙寺縁起によると、江戸時代後期には吹上城跡に吹上代官所や有馬藩が置かれ、正仙寺は代官所役人や有馬藩士の菩提寺として位置づけられました。(shousenji.jp)

この二点から、吹上城(陣屋)と正仙寺は、地理的にも機能的にも強く結びついていたと考えられます。

🪦 墓碑・菩提寺としての関係

吹上城主・膝附氏や吹上藩士との関係は、墓碑群として現在もはっきり見えます。

  • 正仙寺参道わきの墓地には
  • 吹上城主膝附氏の墓碑
  • 幕末吹上藩士の墓碑
  • 吹上藩斬奸事件勇士の墓碑
    などがまとまって建ち、説明板も整備されています。(uzumagawanikki.seesaa.net)

これらは、正仙寺が吹上城主一族と吹上藩士の菩提を弔う場だったことを物証として示しています。

🧭 地理的な関係

  • 正仙寺は鴻巣山南麓
  • その東側高台(いまの吹上中学校)が吹上城跡

という配置で、寺と城は隣接する関係でした。(uzumagawanikki.seesaa.net)

城館と隣接寺院という典型的なセットで、城主一族や家臣団の墓所・祈願所・菩提寺を担っていたとみるのが自然だと思われます。

🧾 史料的に見た関連のまとめ

史料上確認できる主なポイントは次の通りです。

  • 正仙寺縁起が「吹上城は当山東隣に築城された」と明記している
  • 同じ縁起が「吹上城跡に代官所や有馬藩が置かれ、当山はその菩提寺とされた」と述べている
  • 現地墓碑群が、膝附氏・吹上藩士・斬奸事件関係者など城・藩ゆかりの人々の墓で構成されている

このため、「吹上城・吹上藩陣屋と正仙寺は、城主・藩士層の菩提寺として密接に結びついた寺と城跡」であったと整理できます。


正仙寺にある主要な墓碑は誰のものですか?

正仙寺の墓碑に注目されているのは、まさに吹上城・吹上藩の歴史の核心部分ですね。

🪦 正仙寺にある主な墓碑の種類

現地説明板などで「主要な墓碑群」としてまとめて扱われているのは、次の五つです。(uzumagawanikki.seesaa.net)

区分おおよその人物像
吹上城主膝附氏の墓碑戦国期吹上城主・膝附氏一族
幕末吹上藩士の墓碑幕末期の吹上藩士たち
吹上藩斬奸事件勇士の墓碑文久2年の斬奸事件関係藩士
明治初期自由民権運動勇士の墓碑吹上地方の自由民権運動関係者
戊辰戦争戦没者官修墳墓戊辰戦争で戦死した官軍兵士など

正仙寺参道左手の高台の墓地に、これらがまとまって配置され、それぞれに個別の説明板が立っています。(uzumagawanikki.seesaa.net)

👤 個別の人名レベルで分かること

公開されている一般向け解説では、「誰それの墓」と人名を一覧で詳しく挙げている資料は少なく、多くは次のようなレベルにとどまります。(kita36fudo.com)

  • 吹上城主膝附氏累代
  • 吹上藩士や斬奸事件関係者の一同墓
  • 有馬氏弘嫡男をはじめとする吹上藩士の無縁墓碑

特に「吹上藩士墓地」「吹上藩斬奸諸士の墓」などは、複数名を合葬・合祀した「諸士墓」「勇士墓」として建てられているケースが多く、個々人の名は墓碑銘文を直接読むか、現地の説明板・寺所蔵の過去帳を確認する必要があります。

🔍 もう一歩詳しく知るには

個人名ごとの一覧や、どの墓碑がどの年に建てられたかを突き詰めるには、

  • 正仙寺の過去帳・過去帳控え
  • 墓碑拓本や墓碑銘文の翻刻
  • 栃木市史や吹上地区の郷土史

に当たる必要があり、これは現地調査か、市史編纂室レベルの資料閲覧が必要になります。


吹上藩斬奸事件の勇士とは誰ですか?

吹上藩斬奸事件の「勇士」がどの人物を指すのかは、史料によって書きぶりが少し違いますが、現在一般に説明されている範囲でお答えします。

⚔ 斬奸事件そのものの概要

明治2年3月17日、吹上藩の「正義派」の藩士たちが、
戦死者の賞典金を横領したとされた藩老たちを江戸藩邸で討ち、自らも罪を負う覚悟で自訴した事件が「吹上藩斬奸事件」です。(access21-co.xsrv.jp)

  • 横領を行ったとされた藩老
  • 辻本宗之進
  • 西村武衛
  • 平沢源太
  • これに対して起ち上がった「正義派」藩士は9名とされています。(access21-co.xsrv.jp)

この9名が、正仙寺の説明板などで「吹上藩斬奸事件勇士」と総称されている人びとです。

👥 「勇士」個々の名前について

正仙寺境内の墓碑・説明板は、「吹上藩斬奸事件勇士の墓」として、事件関係者をまとめて顕彰しており、一般向け資料では「9名」という人数までは示されても、全員の実名を一覧で公開しているものは多くありません。(access21-co.xsrv.jp)

そのため、

  • 公開ウェブ情報だけでは、9名全員のフルネームを確定的に列挙することは難しい
  • 個々の氏名と事績を追うには、栃木市史・吹上地区郷土資料・正仙寺の過去帳や墓碑銘文の調査がほぼ必須

という状態です。

📚 研究・調査の際の整理のしかた

ブログや論考で書く場合は、現段階では次のように表現すると無難です。

  • 「吹上藩正義派の藩士九名が、横領を行った藩老三名を江戸藩邸で討ち、自訴した事件である」
  • 「正仙寺には、この九名の『吹上藩斬奸事件勇士』を顕彰する墓碑が建てられている」

既存記事の推敲

栃木県栃木市の正仙寺に、「有馬氏弘の嫡男」の墓所をお参りしてきました。3人きょうだいで、二人の姉も一緒でした。参拝日は2025年10月26日です。

墓前には、3人で供え花を手向けました。

吹上藩知事・有馬氏弘の出産嫡男の戒名は「観蓮知成童子(かんれんちじょうどうじ)」と記されています。旧字を用いているため、初めて見ると読み取りが難しく感じられます。没年は明治3年(1870)7月24日です。

この出産嫡男の墓所との出会いから、ここに眠る人物が、私たちにとっての大伯父であることがわかりました。

昭和62年当時、この一角はクマザサに覆われ、荒れた状態だったそうです。ご縁があって除草作業が行われたところ、多数の墓標が見つかりました。それらと、寺に残る過去帳の記録を一つひとつ照合した結果、その中から「有馬氏弘出産の嫡男」の墓碑が発見されたと伝えられています。

有馬氏弘は、19歳のときに嫡男を亡くしています。

この嫡男の母にあたる妻は、継室である美濃岩村藩主・松平乗喬の娘、敏です。敏については、明治6年(1873)に離縁されたことが記録に残っています。

正仙寺の住職には、手話通訳の方とご一緒にご案内いただき、有馬氏弘の嫡男の墓所や、吹上藩陣屋および周辺の墓所について、丁寧な説明を伺いました。

吹上藩の本陣は、現在の栃木市立吹上中学校の敷地にあたります。藩士の居住地は本陣の南側と東側の平地に広がり、「字元陣屋」と呼ばれています。公図上では、細長い長屋建ての敷地が連続して描かれていますが、現在は一般家屋や畑となっており、往時の姿を直接しのばせるものは多くありません。

訪問の際には、住職から元陣屋周辺の地番が分かる地図の写しを頂きました。この地図は、個人的な研究のためにご提供いただいた資料であり、現時点ではブログへの掲載許可をお願いしていません。そのため、この記事では地図そのものの画像は載せず、文字で概要のみを記すにとどめます。

🌳 参道から見た正仙寺

正仙寺の参道をのぼると、左右には静かな木立が続き、正面奥に本堂の屋根が見えてきます。山の中腹にあるため、途中で振り返ると、遠くまでひらけた景色が見えました。境内はとても静かで、自然と心が落ち着いていくのを感じました。

🪦 墓所の並び方と雰囲気

参道脇の高台には、吹上城主膝付氏の墓碑をはじめ、吹上藩士や戊辰戦争戦没者の墓碑が、秩序だって並んでいます。どの墓碑もきちんと手入れされ、説明板も整えられていて、史跡として大切に守られていることが伝わってきます。静かな空気の中で石碑一つひとつを見上げていると、歴史の重さに少し身が引き締まるような、緊張した気持ちになりました。(kenko-choju.tochigi.jp)

🏫 吹上中学校周辺の印象

吹上藩本陣が置かれていた場所は、現在の栃木市立吹上中学校の敷地です。校舎やグラウンドが広がる、ごく日常的な学校の風景の中に、かつての吹上城・吹上陣屋の本丸が重なって見えるようでした。その南側と東側には、かつて「字元陣屋」と呼ばれた藩士の屋敷地が連なっていましたが、今は住宅や畑が並び、往時の姿を直接伝えるものは多くありません。それでも、公図や地図を思い浮かべながら歩いていると、このあたりに大伯父が生きた時代の暮らしがあったのだと感じられ、遠い親族にそっと再会したような、親しさが胸に広がりました。(shiseki-chikei.com)

正仙寺の住職には、手話通訳の方とご一緒にご案内いただきました。有馬氏弘の出産嫡男の墓所への案内と説明、さらに吹上藩陣屋や周辺の墓所などについて、歴史的な背景をまじえながら詳しくお話を伺い、興味深く拝聴しました。

吹上藩の本陣は、かつての吹上城址にあたり、現在の栃木市立吹上中学校の敷地となっています。藩士の居住地は本陣の南と東の平地に広がり、「字元陣屋」という地名で呼ばれていました。公図では、細長い長屋建ての敷地が連続して描かれていますが、現在は一般家屋や畑などとなっており、往時の姿を直接しのばせるような遺構は多くありません。(ameblo.jp)

有馬氏弘が最後の吹上藩主として、この地でどのような日々を送り、どのような人生を歩んだのか。陣屋跡の静かな風景を前にしながら、その姿を思い描いていました。

吹上藩は、有馬氏郁(1831〜1862)、氏弘(1851〜1914)と二代にわたって在封しましたが、明治4年(1871)の廃藩置県によって大きな転機を迎えます。7月の廃藩置県により吹上藩は吹上県となり、氏弘は吹上県知事に任命されました。しかし同年11月の廃県によって吹上県は廃止され、その所領は栃木県および宇都宮県に統合されます。有馬氏弘は東京に移り、のちに華族に列せられて子爵となりました。吹上藩の歴史は、こうしておよそ30年という短い期間で幕を閉じることになります。(pedia.3rd-in.co.jp)

除籍の際には、東京府華族・従五位有馬氏弘から、四肢痙攣麻痺などの病を理由として家督を返上し、実家である士族有馬家の当主、有馬則篤(実父)の戸籍への帰籍を願い出ていたことが分かりました。これは、国立公文書館デジタルアーカイブに収められている「華族有馬氏弘位記返上隠居ノ上実家ヘ帰籍并故氏郁妻酒井瑶光院ヘ家跡相続ノ儀伺」の文書によって確認できるものです。(mainecoonyuki.blog)

この史料からは、氏弘が病気を理由に家督を返上し、華族としての立場からいったん退いて実家へ戻る道を選んだことが読み取れます。すなわち、氏弘は実父・有馬則篤の戸籍に復籍したという意味になります。戸籍上では「前戸主亡有馬三敬(有馬則篤)」と記載されており、則篤がかつての当主であったことが示されています。(mainecoonyuki.blog)

私は、この四肢痙攣麻痺などの病の背景には、吹上藩斬奸事件、出産嫡男の早世、離縁といった出来事が重なり、氏弘の心身に大きな重圧としてのしかかっていた可能性があるのではないかと推測しています。もちろん、これらの出来事と病気との因果関係を直接示す史料は見つかっておらず、あくまで当時の状況を踏まえた私なりの想像にとどまります。(mainecoonyuki.blog)

有馬則篤は、幕府大目付としての役目を終えたのち隠居生活に入りました。氏弘が実家に帰籍したのちは、実父とともに安積の地で暮らしたのではないかと考えられます。安積行きの経緯や具体的な生活ぶりについては、今後さらに史料を探っていきたい課題です。(mainecoonyuki.blog)

華族となった有馬氏弘が、明治4年(1871)に東京へ移ってから、除籍に至るまでのあいだ、どのような生活を送っていたのか。私はこの点を、長く知りたいと思い続けてきました。国立公文書館デジタルアーカイブには「華族家記」の簿冊が公開されていますが、吹上藩有馬家に関する冊子は解説が付されておらず、現時点では私には十分に読みこなすことができていません。もしこの「華族家記」の内容をきちんと読み解くことができれば、東京在住期の氏弘の暮らしぶりや人間関係が、もっとはっきりと浮かび上がってくるのではないかと感じています。(shoryobu.kunaicho.go.jp)

その一方で、氏弘が晩年に華族としての地位を退き、実家へ戻る道を選んだことについては、別の公文書からある程度の姿を知ることができます。

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