2026年8月13日 特報記事
試撃行ブログ「東京都渋谷区 祥雲寺/吹上藩有馬家墓所」と歴史調査ブログ「曾祖父有馬氏弘の足跡」を始めてから一年あまり、私は姉二人と一緒に曾祖父・有馬氏弘の最期の地と墓所を探してきた。きっかけは、令和七年三月に手にしたいくつかの公文書と郷土史資料だった。吹上藩主として江戸を動き、のちに安積開墾に加わった氏弘は、明治のどこかで郡山から姿を消す。その「どこで、どのように亡くなったのか」が、どうしても分からなかったのである。令和八年七月二十七日、郡山市の日和田にある西方寺から一通の手紙が届いた。「先月お尋ねの有馬氏弘様の件判明致しましたのでお知らせ致します。」という書き出しで始まるその手紙には、氏弘の命日、戒名、葬儀と七回忌法要の記録、そして現在の墓石が「井上隆」家墓地内にあることが、過去帳にもとづいて静かに記されていた。本稿では、この一通の手紙によって見えてきた曾祖父の墓所判明の経緯とともに、墓石を見つけてくださった庄司一幸さん・我妻幸光さんへの報告、そして来年の命日に向けて西方寺と井上家にお送りする二通の手紙を記録しておきたい。
有馬氏弘の墓所判明と、西方寺からの一通の手紙
令和七年三月、私は姉二人と一緒に暮らす家で、曾祖父・有馬氏弘の行方を示すわずかな手がかりを前に、どこから糸口をつければよいのか悩んでいた。安積開墾に参加したのち、郡山から姿を消した元吹上藩主の曾祖父が、どこで、どのように亡くなったのか。戸籍や郷土史、地図を追っても、その答えだけは長いあいだ空白のままだった。
それから一年あまり、郡山市内の寺院名簿や郷土史資料をたどり、少しずつ可能性のありそうな寺院に照会を送っていった。そのなかの一つが、郡山市日和田町日和田にある天台宗の古刹、西方寺だった。令和八年六月に問い合わせの手紙をお送りしたものの、過去帳を調べていただくには時間がかかるだろうと覚悟して、姉たちと静かに返事を待つことにした。
そして令和八年七月二十七日、西方寺から一通の封書が届いた。差出人の名と「西方寺」の三文字を見た瞬間、私は思わず姉二人を呼び、三人で居間のテーブルを囲んで封を開けた。中には、過去帳の記録にもとづく丁寧な文章が、次のように綴られていた。
「先月お尋ねの有馬氏弘様の件判明致しましたのでお知らせ致します。氏弘様は大正三年旧三月二十一日新暦四月十六日にお亡くなりになり井上興男様施主にて『有弘浮禅定』の戒名を授け当西方寺にて葬儀を済ませております。その後大正九年十月三十日に同じく興男施主によって『有弘道英清信士』と改組贈され大正十一年九月二十七日七回忌法要を修したと過去帳に記載してあります。現在石は『井上隆』家墓地内にあることが判っています。取り急ぎお知らせ致します。」
この一通の手紙によって、曾祖父・有馬氏弘の命日が大正三年旧三月二十一日、新暦では四月十六日であること、戒名が葬儀時の「有弘浮禅定」からのちに「有弘道英清信士」へと改められていること、西方寺で葬儀と七回忌法要が営まれていること、そして現在の墓石が「井上隆」家墓地内にあることが、具体的な年月日と人名を伴って一気に立ち現れた。
手紙を読み終えたあと、私と姉二人はしばらく言葉もなく紙面を見つめ続けた。百年以上前に郡山で葬られた曾祖父が、いまもどこか遠い場所ではなく、日和田の地で静かに眠っているという事実を、ようやく現実のこととして受け止めはじめた時間だった。
✉ 庄司一幸さんへのご報告メールと我妻幸光さんへのご報告FAX
西方寺からの書簡と井上家墓所判明のご報告
――庄司一幸さん・我妻幸光さんへ
曾祖父・有馬氏弘の最期の地と墓所を探し始めたのは、二〇二五年三月のことである。それから一年余り、郡山市内外の寺院や郷土史資料をたどり続けてきたが、二〇二六年七月二十七日、この探索に大きな区切りを与える一通の手紙が、西方寺から届いた。
「先月お尋ねの有馬氏弘様の件判明致しましたのでお知らせ致します。氏弘様は大正三年旧三月二十一日新暦四月十六日にお亡くなりになり井上興男様施主にて『有弘浮禅定』の戒名を授け当西方寺にて葬儀を済ませております。その後大正九年十月三十日に同じく興男施主によって『有弘道英清信士』と改組贈され大正十一年九月二十七日七回忌法要を修したと過去帳に記載してあります。現在石は『井上隆』家墓地内にあることが判っています。取り急ぎお知らせ致します。」
この手紙によって、曾祖父・有馬氏弘の命日、大正三年旧三月二十一日(新暦四月十六日)であること、戒名が「有弘浮禅定」「有弘道英清信士」であること、西方寺で葬儀と七回忌法要が営まれたこと、そして現在の墓石が「井上隆」家墓地内にあることが、過去帳にもとづいてはっきりと示された。
庄司さん・我妻さんによる墓石発見と「井上家」
この西方寺からの回答に先立つ二〇二六年七月十八日、郡山地方史研究団体連絡協議会会長の庄司一幸さんと、安積町郷土史研究会会長の我妻幸光さんのお二人は、現地調査の末に有馬氏弘の墓石を発見されている。氏弘の墓のすぐ隣には、ひときわ大きな「井上家」の墓があり、その存在が強く印象に残ったという。
お二人は、氏弘の墓石がなぜ井上家墓地の中にあるのか、井上家と有馬家(あるいは対面原入植者たち)との関係はどのようなものだったのか、そしてこの墓地を管理している寺院はどこか、といった点について、さらに調査を進めておられる。
今回、西方寺からの手紙によって、施主として「井上興男」の名が明記され、現在の当主として「井上隆」氏のお名前とご住所も教えていただいた。私はこの情報をもとに、まずは郡山で現地踏査を続けてくださっている庄司さん、そして長年安積町郷土史を研究されてきた我妻さんに、報告しなければならないと考えた。
井上家とのつながりの仮説と、写真へのささやかな期待
西方寺から頂いたご住所を拠点として、今後は井上家との関係について、丁寧にお伺いしていくことになるだろう。私がいま抱いている仮説のひとつは、氏弘の妹セイさんが井上家へ嫁ぎ、そのご縁から、曾祖父の葬儀と墓所の管理を井上家が引き受けてくださったのではないか、というものである。
もしこの仮説が正しければ、井上家には、私たちの知らない有馬家の姿や、曾祖父氏弘の最晩年の様子が、何らかのかたちで伝わっている可能性がある。とりわけ、氏弘の写真が一枚でも残っていないかどうかは、これから井上家にお尋ねしたいことのひとつである。
同時に、井上家が一世紀以上にわたり、曾祖父・有馬氏弘の墓を自家の墓地内で守り続けてくださったことが、何よりの慰めでもある。法的・戸籍上は「有馬家が跡絶えた」と整理される一方で、現実には井上家が静かに墓を守ってくださっていた。そのことを知り、私は心から安堵した。
この場を借りて、氏弘の墓石を発見してくださった庄司一幸さんと我妻幸光さん、過去帳を丁寧に調べてくださった西方寺、そして長い年月にわたり墓を守ってこられた井上家の方々に、あらためて深く感謝をお伝えしたい。
「件名:有馬氏弘の墓所判明と西方寺からのご報告
〇〇〇〇様
いつも郡山地方の歴史研究に尽力してくださり、また、曾祖父・有馬氏弘の墓所探索にあたりましては、昨年来たいへんお世話になっております。
本日は、先月お尋ねしておりました件について、西方寺様から丁重な書面でご回答をいただきましたので、ご報告申し上げます。
一、過去帳に記載された事項について
西方寺様の過去帳によりますと、曾祖父・有馬氏弘は大正三年旧三月二十一日、新暦四月十六日に逝去し、西方寺において葬儀が営まれておりました。葬儀の際に授けられた戒名は「有弘浮禅定」と記されております。
その後、大正九年十月三十日付で、同じ施主により戒名が「有弘道英清信士」と改められ、大正十一年九月二十七日には七回忌法要が営まれていることも、過去帳に明記されているとのことでした。
二、施主および墓所について
葬儀ならびに改名、七回忌法要の施主はいずれも「井上興男」と記載されており、曾祖父の葬送と供養を井上家が担ってくださっていたことが分かりました。
また、現在の墓石については、「井上隆」家墓地内にあることが確認されており、西方寺様から現在の井上隆様のご住所も教えていただきました。
三、七月十八日の墓石発見とのつながりについて
本年七月十八日に、庄司様と安積町郷土史研究会会長の我妻幸光様のお二人によって、郡山市内の共同墓地で曾祖父の墓石を発見していただきました。その際、すぐ隣に大きな「井上家」の墓があることが印象的だったと伺っております。
今回の西方寺様からのご回答により、氏弘の葬儀と七回忌法要の施主が井上興男であること、現在も井上家墓地内で曾祖父の墓石が守られていることが明らかになり、七月十八日の現地でのご報告と、過去帳の記録とが、一つにつながったように感じております。
四、井上家との関係についての仮説と今後の方針
私としては、曾祖父の妹セイが井上家へ嫁いだ可能性を、一つの仮説として考えております。もしこの仮説が確かなものであれば、安積開墾士族の一人としての有馬氏弘と、安積郡内の家々とのつながりを考えるうえで、井上家は欠かせない存在になるのではないかと思っております。
今後は、西方寺様から教えていただいたご住所をもとに、井上家と有馬氏弘とのご関係、曾祖父の晩年の様子、さらには氏弘の写真などが残されていないかどうかを、失礼のないようお伺いしていきたいと考えております。
昨年三月から続けてまいりました曾祖父の墓所探索が、庄司様と我妻様のお力添えによって、ここまで具体的なかたちになりましたことに、あらためて深く感謝申し上げます。
姉二人とも相談を重ね、曾祖父の命日にあたる来年四月十六日には、三人で郡山を訪れ、氏弘の眠る墓所へお参りしようと決めました。百年以上所在の分からなかった曾祖父の墓前に、ようやく曾孫として立つことができるのだと思うと、今から胸が熱くなる思いです。その折には、西方寺様と井上家墓地へのご挨拶に加えて、対面原や安積開墾にゆかりのある場所も、出来る範囲で歩いてみたいと考えております。
本来であれば直接お目にかかってお礼を申し上げるべきところ、まずはメールにてご報告と御礼をお伝えいたしました。今後ともご教示を賜れましたら幸いです。
令和八年七月二十八日 吉田 由起子」
来年四月十六日の訪墓を三人で決める
昨年三月から続けてきた曾祖父・有馬氏弘の墓所探しは、西方寺からの一通の手紙によって、大きな一区切りを迎えたように思う。けれども同時に、それは「この先、どのように曾祖父の墓前に向き合っていくか」という新しい問いの始まりでもあった。姉二人と私は、居間のテーブルを囲みながら、その次の一歩を静かに話し合った。
西方寺からの手紙には、曾祖父・有馬氏弘の命日が「大正三年旧三月二十一日、新暦四月十六日」と記されていた。令和八年四月十六日は、その日からちょうど百十二年後の命日にあたる。私たちは、一世紀をこえる時間のあいだ所在の分からなかった曾祖父の墓前に、その同じ暦の日に立つことになる。カレンダーを見ながら、その事実をゆっくり確かめ合ったときの静かな驚きと、ようやく命日に「お参りに行きます」と言えることへの安堵は、ことばにしがたいものがあった。来年四月十六日に三人で郡山を訪れ、西方寺と井上家墓地にお参りすること。それが、長い探索の終わりであり、同時にこれからの小さな始まりでもあると感じている。
西方寺からの手紙を受け取った日の夜、私は姉二人と居間のテーブルを囲んで、ゆっくり何度も読み返した。大正三年四月十六日の命日から、百年以上たってようやく分かった曾祖父の最期のことを思うと、三人とも、しばらく筆談も進まなかった。
それでも、「だったら、来年の命日に三人でお参りに行こう」と決めるまでには、あまり時間はかからなかった。西方寺の御住職には、過去帳を調べてくださったお礼と、来年四月十六日の訪問についてのお願いを、便箋一枚の手紙にまとめてお届けすることにした。
西方寺へのお礼と日程相談の手紙
西方寺からの手紙を受け取った日の夜、私は姉二人と居間のテーブルを囲んで、ゆっくり何度も読み返した。大正三年四月十六日の命日から、百年以上たってようやく分かった曾祖父の最期のことを思うと、三人とも、しばらく筆談も進まなかった。
それでも、「だったら、来年の命日に三人でお参りに行こう」と決めるまでには、あまり時間はかからなかった。西方寺の御住職には、過去帳を調べてくださったお礼と、来年四月十六日の訪問についてのお願いを、便箋一枚の手紙にまとめてお届けすることにした。
「天台宗 廣澤山 西方寺
御住職 小笠原 様
先月は、曾祖父・有馬氏弘の件につきまして、過去帳をご調査のうえ、たいへん丁重なお手紙をお送りくださり、誠にありがとうございました。
お忙しい中、命日や戒名、葬儀や七回忌法要の年月日、施主のお名前、現在の墓所の所在に至るまで詳しくお知らせいただき、心より御礼申し上げます。
お手紙により、曾祖父・有馬氏弘が大正三年旧三月二十一日、新暦四月十六日に逝去し、「有弘浮禅定」の戒名を授けられたこと、その後、大正九年十月三十日付で「有弘道英清信士」と改められ、大正十一年九月二十七日には七回忌法要が営まれていることを知ることができました。
また、これら一連の葬儀や法要の施主として井上興男様のお名前が記されていること、現在は井上隆様のご一家の墓地内に、曾祖父の墓石が置かれていることもお教えいただきました。
昨年三月より、私は曾祖父の最期の地と墓所を探し続けてまいりましたが、今回、西方寺様の過去帳の記録によって、その足跡が一気に具体的なかたちを伴って立ち上がってきたように感じております。
これまで所在も分からず、ただ名前だけを頼りにたどってきた曾祖父が、郡山の地で弔われ、百年以上にわたりご回向を受けてきたことを知り、大きな安堵と感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。
姉二人とも相談いたしました結果、曾祖父の命日にあたる来年四月十六日に、三人で郡山を訪れ、墓所へお参りさせていただくことにいたしました。
当日はまず西方寺様にお参りし、御本尊様のもとで曾祖父の追善のご回向をお願いできればと願っております。そのうえで、井上家墓地内にある曾祖父の墓石にも、失礼のない形で手を合わせたいと考えております。
つきましては、来年四月十六日前後で、御住職にとってご都合のよろしいお時間帯や、あらかじめ相談しておいた方がよい点などがございましたら、お教えいただけますと幸いです。
ご多忙の折に重ねてお願いを差し上げることになり心苦しく存じますが、命日のお参りに向けて出来るかぎり失礼のないよう備えたく、ひと言ご相談申し上げた次第です。
改めまして、このたびは貴重な過去帳の記録をお調べくださり、丁重な書面でお知らせくださいましたことに、深く感謝いたしております。西方寺様の御仏と皆様のご健勝を、心よりお祈り申し上げます。
令和八年七月二十八日 吉田 由起子」
曾祖父の葬儀や七回忌法要の施主として「井上興男」の名が記されていること、そして今も「井上隆」家墓地の中に氏弘の墓石が守られていることを二人の姉に伝えました。
やがて、「それなら、井上さんのご家族にきちんとお礼を言わなければいけないね」という言葉が、ほとんど同時に口をついて出た。曾祖父の命日にお参りにうかがうこととあわせて、井上家には、まず一通の手紙でご挨拶を差し上げることにした。
「井上隆様ご家族御中
突然のお手紙にて失礼いたします。
私こと、かつて安積開墾に加わった元吹上藩主・有馬氏弘の曾孫にあたる者でございます。
このたび、郡山市西方寺様のご厚意により、貴家墓地内に曾祖父・有馬氏弘の墓石があること、そして大正期以来、井上家の皆様が曾祖父の葬儀や法要の施主をお務めくださり、今日まで墓所を守ってきてくださったことを知りました。
長い年月にわたり、血縁でもない私どもの先祖を大切に弔ってくださっていることに、心より御礼申し上げたく、筆をとりました。
西方寺様の過去帳によりますと、曾祖父・有馬氏弘は大正三年旧三月二十一日、新暦四月十六日に亡くなり、西方寺において葬儀が営まれました。その際の戒名は「有弘浮禅定」であり、その後大正九年十月三十日に「有弘道英清信士」と改められ、大正十一年九月二十七日には七回忌法要が営まれております。
これら一連の葬儀や法要の施主として、「井上興男」様のお名前が過去帳に記されているとのことでございました。また、現在の墓石は「井上隆」家墓地内にあると伺い、西方寺様より現在のご住所も教えていただきました。
実は私は、昨年三月より、曾祖父・有馬氏弘の最期の地と墓所を探し続けてまいりました。本年七月十八日には、郡山地方史研究団体連絡協議会会長の庄司一幸さんと、安積町郷土史研究会会長の我妻幸光さんのお二人が、郡山市内の共同墓地で曾祖父の墓石を発見してくださいましたが、その際にも、すぐ隣に大きな「井上家」の墓があることが強く印象に残ったとお聞きしております。
その後の西方寺様からのご連絡により、井上家の皆様が曾祖父の葬儀と法要の一切を引き受けてくださり、現在に至るまで墓所を見守ってくださっていることを知り、大きな驚きと同時に、言葉に尽くせない感謝の念を抱いております。
私どもの家には、曾祖父の妹にあたる「セイ」という女性が、安積郡内のお宅へ嫁いだという話が伝わっております。確かな証拠があるわけではないのですが、もしかするとこのセイが井上家へ嫁ぎ、そのご縁から、曾祖父の葬儀や墓所の管理をお願いすることになったのではないかと考えております。
もし差し支えなければ、井上家のご先祖の中に、有馬姓の出身でセイという名前の女性がいらっしゃらなかったか、あるいは有馬家とのご縁について、何か伝わっていることがないかどうか、お教えいただけましたら幸いに存じます。
あわせて、これも大変図々しいお願いとは存じますが、曾祖父・有馬氏弘の写真や、安積開墾や対面原での暮らしに関わるお話、書き残されたものなどが、井上家に伝わっておりましたら、その有無だけでもお知らせいただけないでしょうか。
私は曾祖父の姿を一度も見たことがなく、せめてお顔を知りたいという気持ちで、これまで郷土史資料や親族の記憶をたどってまいりました。もし一枚でも写真が残されていたならば、井上家のお考えを第一に尊重しながら、拝見させていただける機会を頂戴できればと願っております。
なお、井上家墓地内にある曾祖父の墓石につきましては、これまで通り井上家のご意向を第一に考え、私どもから無理なお願いをするつもりはございません。むしろ、長い年月にわたり、家族を失った曾祖父の墓を静かに守ってくださってきたことに対し、深く頭を下げる思いでおります。
今後、郡山を訪れる機会を得ました際には、西方寺様にお参りするとともに、井上家墓地にも失礼のない形でご挨拶できればと考えておりますが、その際の作法やお気づきの点がございましたら、どうぞご遠慮なくお知らせいただければと存じます。
突然のお願いを重ねて申し上げ、大変心苦しく思っております。ご多忙のところ長文をお読みいただき、誠にありがとうございました。ご家族皆様のご健勝とご多幸を、心よりお祈り申し上げます。
令和八年七月二十八日 吉田 由起子」
庄司さんからの一通のメール
西方寺からの一通の手紙について、その後、歴史研究家の庄司さんから次のようなメールをいただいた。西方寺から吉田由起子宛てに届いた丁寧な書簡により、曾祖父・有馬氏弘の埋葬先と戒名、そして墓石が建てられた経緯が明らかになったという報せでした。墓石は、没後およそ六年を経て井上興男氏によって建立されたことが分かりました。
「吉田さんへ西方寺さんから丁寧なる書簡が送られてきたのは、樽川会長(日和田町郷土史会)が事前に動いてくれた御蔭であると、私と我妻さんは考えています。
後は、井上隆氏から、氏弘とどのような関係があり、戒名、墓石の件が、より詳しくわかることを期待しているところです。有馬ナヲさん、有馬セイさんのことが分かればと思っているところです。恐らく、氏弘氏が応援してくれるはずです。
ご連絡ありがとうございました。昨日は近々開催の対談の件があり新聞社を2社訪れ広報してきて、疲れたため、今メールを開いたところです。失礼しました。」
このメールから、西方寺の書簡の背後で、樽川会長や我妻さん、庄司さんが静かに力を尽くしてくださっていたことが伝わってくる。そして結びの「一番知りたいことは氏弘の妻有馬ナヲ、妹セイです」という言葉は、そのまま私自身の関心とも重なっている。

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