曾祖父有馬氏弘墓碑に刻まれた「藩士」表記の理由と背景

2026年8月13日 特報記事

郡山市の鶴番共同墓地で見つかった曾祖父有馬氏弘の墓碑には、「藩主」ではなく「藩士」という肩書きが刻まれている。本稿では、ブログ試撃行のkiiさんから頂いたご教示と、これまでの資料調査をもとに、この「藩士」表記が選ばれた理由と、その背後にある氏弘の最晩年の姿をたどってみたい。

ブログ試撃行のkiiさんからの返信メール

 墓所判明の報告メールをお送りしてからしばらくして、ブログ試撃行のkiiさんから丁寧な返信をいただいた。出張中でメールが見られず返信が遅れたことへのお詫びに続けて、次のような言葉が綴られていた。

「なんと!見つかったのですね!
奇跡のような出来事です。吉田様の執念と情熱の賜物でしょう。おめでとうございます。
「曾祖父 有馬氏弘の足跡」楽しみにしてます。
僕もいつか手を合わせに行ってみたいと思います。」

 この数行だけでも、これまで氏弘の足跡を追い続けてきた歩みが、遠くからそっと支えられていたことを実感させられる。「奇跡のような出来事」「執念と情熱の賜物」という表現は、調査の過程で何度も行き詰まりを感じてきた自分自身の時間を、静かに肯定してくれる言葉でもあった。

 さらに、墓碑の写真をお送りしたところ、続けて次のような指摘と考察を寄せてくださった。

「お墓の写真を見て気付いた幾つかをお知らせします。判っているかもですが一応共有しておきます。

墓碑正面の文字ですが、
有弘道英清信士
實想院華上遊魂居士
覺譽妙念信女
・・・が正確な墓碑銘ですね(カッコ内は新字体)。
2.墓碑銘から察するに、
有弘道英清信士(有馬氏弘)
實想院華上遊魂居士(井上實(実:ミノル))
覺譽妙念信女(井上セイ)
・・・でしょうか。
最晩年は妹夫婦に引き取られたのでしょう。
井上實は氏弘没年の前年に28歳の若さで死去してますね。
また肩書が藩主ではなく「藩士」なのが気になります。

本人が「藩主だった」と伝えなかったか、それとも隠していたか、離籍しているので遠慮したのかもしれません。
本人であることは間違いないでしょうけど、あえて「藩士」としているのは理由がありそうですね。」

鶴番墓地で曾祖父有馬氏弘の墓碑を確認したことをお知らせすると、ブログ試撃行のkiiさんから丁寧な返信を頂いた。墓碑写真をご覧のうえ、戒名の正確な読みと、それぞれが有馬氏弘・井上實・井上セイに対応することを示してくださり、あわせて肩書が「藩主」ではなく「藩士」と刻まれている点についても重要な指摘を寄せられている。

👥 墓碑銘と俗名・続柄の整理

まず、ブログ試撃行のkiiさんの読み取りに従って、墓碑の三つの戒名と俗名・続柄を整理すると次のようになる。

戒名想定される俗名続柄の解釈
有弘道英清信士有馬氏弘本人
實想院華上遊魂居士井上實(ミノル)氏弘の妹の夫(義弟)
覺譽妙念信女井上セイ氏弘の妹(井上家の妻)

この三名が同じ墓碑に連ねられていることは、氏弘の最晩年が井上家、すなわち妹夫婦のもとで過ごされた可能性を強く示している。井上實が氏弘の没年の前年、二十八歳で先立っていることを踏まえると、妹セイとその一家にとって、氏弘の存在は「義父」あるいは「保護すべき年長の親族」としての意味合いを帯びていたのかもしれない。

 また、戒名の位号に注目すると、「清信士」「遊魂居士」「信女」といった区別が見て取れる。これらは一般的には、性別や在俗か出家か、信仰心や社会的地位を反映したものであり、三人がそれぞれ異なる人生の段階と役割を担っていたことを暗示している。ただし本稿では、位号の細かな序列を論じるよりも、三人が一つの墓碑に連名されているという事実に重心を置きたい。

🏷 「藩士」表記をめぐる一考察

 ブログ試撃行のkiiさんが特に注目しているのは、肩書が「藩主」ではなく「藩士」と刻まれている点である。墓碑の銘文は、故人や遺族が望んだ自己像と、周囲の人々が理解していた立場との折り合いの中で形づくられる。ここで「藩士」という語が選ばれていることには、いくつかの層が重なっていそうだ。

 第一に考えられるのは、本人が「自分は元藩主であった」と強調しなかった、あるいはあえて語らなかったという可能性である。安積開墾における氏弘は、華族としての特権を背景にした「藩主」ではなく、一人の入植者であり、他の士族・平民と同じ土地を開いて暮らした人間であった。そうした人生の後半を重んじるならば、墓碑に「旧吹上藩主」と刻むことは、本人の意にそぐわなかったかもしれない。

 第二に、離籍という事実への配慮も想定される。華族家から離籍した元藩主であるという経歴は、同時代の社会においても微妙な意味合いを帯びていたはずである。井上家や周囲の人々が、あえて「藩主」でなく「藩士」と表記することで、過去の肩書きを和らげつつ、武士としての出自だけは示そうとした可能性がある。

 第三に、安積開拓という事業自体が「旧士族授産」を前提として構想されたことも無視できない。開拓地での氏弘は、旧藩主というよりも「旧士族の一人」として行政に把握され、地域社会にも受け入れられていたと考えられる。その延長線上で、「藩士」という語が最も無難で、周囲にも理解されやすい表現だったのかもしれない。

 もちろん、現時点で手にしている史料だけでは、「なぜ『藩士』なのか」に決定的な答えを出すことはできない。ただ、「本人であることは間違いないでしょうけど、あえて『藩士』としているのは理由がありそうですね」というブログ試撃行のkiiさんの一文は、まさにこの曖昧さを正面から受け止めつつ、その背後にあるであろう人生の選択や感情を想像するための入口になっている。

 氏弘がどのような思いで、安積の地での暮らしと最期を迎えたのか。墓碑に刻まれた「藩士」という一語は、元吹上藩主としての過去と、開拓者として生きた後半生とを、静かに橋渡しすることばとして読むこともできるのではないだろうか。

🧭 有馬氏弘像

 鶴番共同墓地の一角に建つこの墓碑には、吹上有馬家の墓所に連なる華やかさも、元藩主としての肩書も見当たらない。そこにあるのは、「有弘道英清信士」という戒名と、「藩士」という控えめな自己紹介、そして若くして世を去った妹夫婦と三人並んで刻まれた名前だけである。安積の開拓地で、曾祖父は「殿様」ではなく、一人の親族として、老いた家族のひとりとして、静かに暮らしを閉じていったのかもしれない。

 氏弘が自らどこまでを語り、何を語らずにいたのかを、いま確かめることはできない。それでも、墓碑に残された「藩士」という一語と、妹夫婦との連名という事実は、元吹上藩主という過去と、安積の地で平民として生きた後半生とを、ひとつの石の上に重ねて見せてくれている。曾孫である私にとって、この控えめな墓所は、華族や元藩主という肩書の向こう側にいた「有馬氏弘」という一人の人間の姿を、ようやく手触りのあるかたちで思い描かせてくれる場所になりつつある。

 鶴番共同墓地の片隅にひっそりと建つこの墓碑は、吹上藩主としての華やかな履歴からは少し離れた、もう一つの「有馬氏弘像」を伝えてくれている。次回は、この墓所が置かれた鶴番墓地とその周辺の風景について、実際に歩いた印象も交えながら記してみたい。

墓碑に「藩主」ではなく「藩士」と刻まれていることは、試撃行さんが指摘するように、やはり気になる点である。元吹上藩主であったことを、氏弘自身があえて強調しなかったのかもしれないし、華族家から離籍した経歴への遠慮や、安積開拓における「旧士族の一人」「一開拓者」としての立場を重んじた結果だった可能性もある。いずれにせよ、この控えめな肩書は、かつての殿様を「一藩士」として言い換えることで、過去の権威よりも、鶴番墓地で妹夫婦と共に眠る「家族の一員」としての晩年を前面に出そうとする選択だったように思われる。

✉ ブログ試撃行のkiiさん宛へのメール

件名:鶴番墓地の墓碑銘について御礼とご報告

「ブログ試撃行のkii様

いつもお世話になっております。
「曾祖父 有馬氏弘の足跡」ブログを運営しております吉田由起子です。

このたびは、お忙しい中、出張先からも丁寧なご返信をいただき、改めて御礼申し上げます。
鶴番墓地の墓碑写真をご覧いただき、戒名の正確な読みや俗名との対応関係、さらには「藩主」ではなく「藩士」と刻まれている点まで詳しくご指摘くださいましたこと、心より感謝しております。

ブログ試撃行のkiiから頂戴した

・有弘道英清信士(有馬氏弘)
・實想院華上遊魂居士(井上實〈実・ミノル〉)
・覺譽妙念信女(井上セイ)

という整理により、曾祖父が最晩年を妹夫婦とともに過ごし、鶴番墓地で三人並んで眠っている姿が、ようやく具体的な像として立ち上がってまいりました。

また、「肩書が藩主ではなく『藩士』なのが気になります」「本人であることは間違いないでしょうけど、あえて『藩士』としているのは理由がありそうですね」とのお言葉は、華族から離籍し、安積開墾の一員として生きた曾祖父の後半生を考えるうえで、大きな手掛かりになりました。元藩主という過去を前面に出すよりも、旧士族・一開拓者としての立場や、妹夫婦の家族の一員として晩年を過ごしたことを重んじた結果が、この控えめな「藩士」という一語に表れているのかもしれない、と感じております。

現在、鶴番墓地での墓所判明の経緯や、ブログ試撃行のkii様からのメールで教えていただいた内容をもとに、拙ブログの記事をまとめているところです。
もし差し支えなければ、いただいたメールの一部を引用する形で、墓碑銘の読みとご指摘を紹介させていただきたく存じます。お名前の出し方や表記についてご希望がございましたら、お知らせいただけますと幸いです。

このたびは、お忙しいなか、ご出張中にもかかわらず丁寧なメールをお送りくださり、本当にありがとうございました。
鶴番墓地の墓碑写真をご覧いただき、戒名の正確な読みや俗名との対応関係、さらに「藩主」ではなく「藩士」と刻まれている点まで詳しくご指摘くださいましたこと、心より感謝申し上げます。

また何かお気づきの点がございましたら、ぜひお知らせいただけますと幸いです。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

                             2026.8.1  吉田 由起子」

件名:Re: 鶴番墓地の墓碑銘について御礼とご報告

「吉田 様

お世話になっております。碑銘はしっかり読む事がクセになっていましたし、旧字等も昔は苦労していたので、一応お伝えしとこうと思った次第です。

僕については「ブログ試撃行のkii」でお願い致します。

別に名前を隠すつもりはないのですが、ブログに年頃の娘が登場する関係から、現状は特に苗字や住所を伏せています。庄司様については存じ上げません。日本各地には郷土史研究家がいらっしゃいますが、僕のように広く浅くではなく、深く郷土史を研究されている方なのでしょう。素晴らしい事です。

以上、宜しくお願い致します。

                       2026.8.3 ブログ試撃行のkii」

こうして「試撃行」のkiiさんから頂いた丁寧なご返信は、単なる読み間違いの訂正にとどまらず、墓碑銘に向き合う時の基本的な姿勢そのものを教えてくださるものだった。旧字も含めて一字一句を確かめるという当たり前の作業を、長年にわたって積み重ねてこられた方の言葉には、やはり重みがある。曾祖父・有馬氏弘の墓碑に刻まれた「藩士」という二文字についても、そのような視点からあらためて見直してみると、単なる肩書きではなく、氏弘が生きた時代と身分の移り変わりを映す手がかりとして立ち上がってくる。本稿では、この「藩士」表記がなぜ明治以降の墓碑に残り得たのか、その理由と背景を、氏弘の身分変化と安積開墾の時代状況を踏まえて考えてみたい。

明治初年において、「藩士」という語はすでに制度上は役目を終えつつある呼称だった。版籍奉還と廃藩置県によって諸藩は公的には姿を消し、旧藩主と家臣団は華族や士族という新しい枠組みに組み込まれていく。それでも、地方の共同体や旧藩ゆかりの人々のあいだでは、しばらくのあいだ旧来の呼び名が日常語として生き続け、「何々藩士」「旧藩士」といった言い回しが用いられていた。たとえば、ある城地の払い下げをめぐって旧領の保存を図った人びとが、自らを「旧藩士有志」と名乗って社団を結成した例が残るように、公式の族籍としてはすでに「士族」「平民」へと整理されながらも、旧藩との結びつきを示す呼称としての「藩士」はなお用いられていたのである。墓碑に刻まれた「藩士」という二文字も、そのような過渡期の感覚を色濃く映し出していると考えられる。

曾祖父・有馬氏弘の墓碑では、すでに戸籍上は「平民」であったはずの人物にあえて「藩士」と刻んでいるが、これは形式上の身分ではなく、久留米藩の家中として生きてきた経歴と、その誇りやアイデンティティを示す言葉として選ばれたのではないか、というのがここでの仮の見立てである。

由利本荘市の「報旧社碑」に見える「旧藩士有志」の用例を、「こうした例も見られる」とだけ触れる形なので、特定の藩名は出さずに一般的な史料例として扱っています。(city.yurihonjo.lg.jp)

版籍奉還直後の明治二年ごろにも、旧領を守ろうとした人びとが「旧藩士有志」として名乗り出た記録が各地に残っている。

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