有馬則篤と曾孫・氏弘 二つの墓所と家の行方

お盆の期間には、有馬氏弘の墓所発見に関する七つの特報記事を公開することができ、氏弘供養の一助ともなり得たのではないかと感じております。本記事は、2025年1月8日より試撃行ブログに掲載してきた既存記事を、あらためて本ブログにおいて遡って公開するものです。2026年4月には、試撃行ブログ用の記事を基礎として、歴史調査ブログ「曾祖父有馬氏弘の足跡」へと歩みを移しました。以来、市団連や郷土史家の方々との新たなご縁をいただき、東京都公文書館などにおける資料調査を踏まえた新たな記事も重ねております。今後は週一回ほどの更新を予定しておりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

  • 有馬則篤の系譜と本家の墓所
  • 氏弘の生まれと移住、もう一つの墓所
  • 氏弘が見ていた「家」と、現代から見える「家」
  • 二つの墓から考える、有馬家の行方

有馬家の墓所は、史料上少なくとも二か所に確認できる。一つは幕末の幕臣であった有馬則篤をはじめとする本家筋が眠る墓所であり、もう一つは曾孫にあたる有馬氏弘とその家族が手を合わせてきた墓所である。本稿では、この二つの墓所を手がかりに、則篤から氏弘へと続く系譜と「家」の行方を整理しておきたい。調査を進めるうち、私が「有馬家」と聞いて思い浮かべてきた像が、少しずつ揺らぎ始めている。

  • 「一 幕臣・有馬則篤と本家の墓所」
  • 「二 曾孫・氏弘が守った墓所」
  • 「三 二つの墓所から見える『家』の行方」

吉田 由起子

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

初めて曹渓寺からのFAX返信があった内容です。⇒(2025年7月21日記載アリ)
曹渓寺へ高祖父である有馬三敬(則篤)の墓所参りとか他の史跡墓地参拝に行きたいとのFAXを送信しました。最近、2回目送信しても返信が来ない状態で心配になりました。社会福祉協議会手話通訳者派遣事業に行って、曹渓寺への手話電話で照会しました。個人情報の為にFAXで答えることが出来ないとのことでした。何故ならば、有馬三敬(則篤)の墓所を守る家族がいるそうです。この家族に紹介して頂けないかと言ったら、個人情報保護で答えることが出来ないとのことでした。45分位に話し合っているうちに、結局は予約が無くても、自由に墓所参りに行ってもいいとのことです。
有馬三敬(則篤)の墓所を守る家族がいることを初めて聞いて驚愕しました。どなたかという方にお会いしたくなりました。福島県安積郡にある有馬氏弘の墓所を守る親族がいるかどうか分かりません。

ネットで徳川慶喜家が「墓じまい」を決断したことを読んで驚きました。これは江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜を祖とする徳川慶喜家の5代目当主が管理の難しさや経済的な負担などを理由に家系の歴史を閉じる「絶家」の一環として行うものです。
徳川慶喜は1867年に大政奉還を行い、明治時代に入ると公爵の爵位を授かり、徳川宗家から分かれて「徳川慶喜家」を創設しました。5代目当主は2017年に亡くなった4代目当主の遺言により、祭祀継承権を含む財産を引き継ぎ5代目当主となりました。
【墓じまいの主な理由】
管理の負担:5代目当主は 現在愛知県名古屋市に住んでおり、東京にある約300坪もの広大な墓所を管理することが現実的ではないと感じています。
経済的な負担: 墓所を囲む塀の一部が崩れるなど老朽化が進んでおり、修理には約3000万円もの費用がかかると見られています。樹木の剪定費用なども発生しているため、維持費が大きな負担となっています。
「負の遺産」としての側面: 5代目当主はお墓が「ある意味、負の遺産」だと感じており、子孫の責任から外れるためにしかるべき場所へ所有権を渡すことを考えています。
今後の管理については、徳川慶喜のお墓は東京都台東区の谷中霊園にあり徳川家の菩提寺の一つである寛永寺の所有地内にあります。現在は、徳川慶喜公の墓所を家族の手元から離し、資料についてはしかるべき組織に移管し、公に管理してもらう方針で進められています。墓地は現状維持できるよう、寛永寺や東京都などと相談を進めているようです。

ネットで有馬則篤さんのご功績の背景には、彼の生い立ちと幕末という激動の時代が大きく影響していると考えれることを読みました。
有馬則篤の功績の背景
【 生まれと養子縁組】
有馬則篤さんは、信濃岩村田藩主の子として生まれましたが、旗本有馬家の養子となりました。この養子縁組により、彼は旗本として幕臣の道を歩むことになります。3500石という大身旗本の家柄は、彼が幕府内で出世していく土台となったでしょう。
【 幕府内での昇進】
則篤さんは、使番から目付へとキャリアをスタートさせ、その後、大番頭を務めました。さらに、文久3年(1863年)には大坂東町奉行、元治元年(1864年)には勘定奉行、江戸南町奉行、そして大目付という幕府の要職を歴任しています。このように短期間で次々と重要な役職に就いたことは、彼の能力の高さと、幕末という状況下で有能な人材が抜擢されたことを示しています。
【 激動の時代】
彼が活躍した時代は、まさに幕末の動乱期でした。開国を迫られ、国内では尊王攘夷運動が激化し、幕府の権威が揺らいでいました。このような困難な時期に、則篤さんは様々な要職を経験し、幕府の運営に深く関わりました。彼の功績は、この激動の時代の中で、幕府を支えようと尽力した結果と言えるでしょう。

使番、目付、大番頭といった役職を経て、文久3年(1863年)には大坂東町奉行に就任しました。さらに、元治元年(1864年)には勘定奉行、江戸南町奉行、そして最重要ポストの一つである大目付にまで昇りつめています。これほどの出世は、彼が単なる家柄だけでなく、卓越した実務能力と政治的判断力を持ち合わせていた証拠と言えるでしょう。特に、激動の幕末において、これだけの要職を短期間で歴任できたのは、幕府が彼の能力を非常に高く評価し、頼りにしていたからこそです。
【 幕府要職での評価】
彼が務めた役職は、いずれも幕府にとって重要な役割を担っていました。
大坂東町奉行:当時の経済の中心地である大坂の行政・司法を司る要職で、高い統治能力が求められました。
勘定奉行:幕府の財政を管理する重要な役職で、経済に関する深い知識と手腕が不可欠でした。
江戸南町奉行:江戸市中の治安維持や行政を担う、幕府の顔とも言える役職であり、リーダーシップと決断力が求められました。
大目付:幕府の最高監察機関の長であり、諸大名や幕臣の監視、幕政運営の重要な局面での意見具申など、幕府の屋台骨を支える役割でした。
これらの要職を歴任したことから、則篤さんは行政手腕、財政管理能力、危機管理能力、そして公正な判断力において高い評価を受けていたと考えられます。彼の能力が、幕末の混乱期における幕府の運営を支える上で不可欠だったと言えるでしょう。

幕末の動乱における関わりについては
【幕府要職としての対応】
有馬則篤さんが大坂東町奉行、勘定奉行、江戸南町奉行、そして大目付といった要職を歴任したこと自体が、彼が幕末の動乱に深く関わっていたことの証と言えます。
社会秩序の維持:大坂東町奉行や江戸南町奉行として、彼は市中の治安維持に努め、動乱の中で高まる庶民の不安や不満に対応する必要がありました。攘夷論者の過激な行動や、社会不安からくる犯罪の増加に対して、奉行として毅然とした態度で臨んだことでしょう。
幕府財政の立て直し:勘定奉行としては、開国によって加速する経済変化と、度重なる政情不安による幕府財政の悪化に直面し、その立て直しを迫られました。財政改革の立案や、新たな財源の確保など、困難な課題に取り組んだと考えられます。
朝廷・諸藩との交渉:大目付として、彼は諸大名への監察だけでなく、朝廷との関係調整においても重要な役割を担っていた可能性があります。尊王攘夷運動が激化する中で、朝廷の意向を探り、幕府の立場を調整することは極めて困難な任務でした。
【難しい局面での判断】
則篤さんが最も幕末の動乱に深く関わったのは、大目付の職に就いていた時期でしょう。大目付は老中に次ぐ要職であり、幕府の重要政策の審議に参画し、諸大名や旗本の動向を監視する立場でした。
幕府の進路決定:開国か攘夷か、公武合体か倒幕かといった、まさに幕府の存亡をかけた議論の渦中に身を置き、幕閣の一員としてその進路決定に深く関わりました。
外交問題への対応:外国との交渉や条約締結に際しても、大目付としてそのプロセスに関与し、国益を守るための意見具申などを行った可能性があります。
情報収集と分析:全国の情報を集め、情勢を分析し、老中をはじめとする幕閣に報告することも彼の重要な役割でした。特に激動期においては、正確な情報に基づく判断が幕府の命運を左右したため、彼の情報収集能力と分析力は重宝されたことでしょう。
このように、有馬則篤さんは、幕府の屋台骨を支える重要な役職を歴任することで、幕末の動乱における幕府の政策決定と実行に深く関与し、その混乱を収拾しようと尽力した人物と言えます。

1月19日(月)は有馬三敬(則篤)の墓所参りに行く予定です。

投稿作成者

あけましておめでとうございます。
氏弘実父の三敬(則篤)のお墓参りが出来るとのこと、大変良い事ですね。
個人情報保護の件は今の世では難しいところで、曹渓寺さんの対応も間違いはないと思います。
会いたい気持ちもあろうかとは思いますが、実際は相手がどういう人かは判りません。
※性格、年齢、性別、経済状況云々・・。
徳川慶喜家だってそうであるように、先祖を誇りに思っている方もいれば、
それを負担に感じる人もいます。
僕の会社に戦国武将の子孫がいるのですが、全く歴史にも先祖にも興味が無いらしく、
墓参りにすら行っていないらしいです。
仮にその彼に遠い親戚から連絡があっても、ウザイとしか思わないでしょう。
出来る事は[もし興味がお有りなら」の前提で、連絡先を教える程度ではないでしょうか?

吉田 由起子

今年1月19日に高祖父である有馬則篤のお墓に足を運んできたことで、私自身のルーツを肌で感じました。高祖父のお墓を訪れることは、単に故人を偲ぶだけでなく、私自身が今ここに生きていることへの感謝の気持ちを再認識させてくれる貴重な機会になりました。
高祖父が命をつないでくださったからこそ、今の私が存在しています。墓所の前で手を合わせることで、遠い過去から現在の自分へと続く、途切れない命のバトンを感じ、深い感謝の気持ちが湧き上がりました。特に激動の時代を生きた高祖父が、時には命懸けで命を繋いでくれたことに思いを馳せると、その感謝はひとしおです。日頃の忙しさから離れ、静かにご先祖様と向き合う時間は、心が落ち着き、まるで自分の心が浄化されたかのような清々しい気持ちになることがありました。高祖父の前で手を合わせることで、心が穏やかになったり、新たな活力が湧いてきたりする体験になりました。
【 歴史との対話】
有馬則篤が生きていた時代は、どのような社会だったでしょうか。高祖父が明治時代に生きていたとすれば、それは日本が大きく変わっていった激動の時代です。そのような時代をたくましく生き抜いてこられた高祖父の墓所を前にすると、歴史の重みを感じ、まるで高祖父と心の会話をしているかのような気持ちになって良かったです。
「有馬家」のお墓は2つありますので、遠い親戚がいることが分かりました。会えるかどうか分かりませんが、成り行きに任せます。氏弘の兄弟がいるかどうか分かりませんが、氏弘は「有馬家」が跡絶えてしまったことは分かっています。遺骨がある氏弘の墓所を守る方を探すことは困難です。

有馬則篤は幕末に幕府の要職を歴任した重要な旗本です。
有馬則篤は、文政9年(1826年)に信濃岩村田藩主の内藤正縄の次男として生まれました。その後、旗本有馬家の有馬則国の養子となり、家督を継ぎました。
【経歴と職歴】
則篤は、旗本として3500石の石高を持つ大身旗本でした。幕府の要職を数多く経験し、幕末の動乱期に重要な役割を果たしました。彼の主な役職は以下の通りです。
• 使番(しばん):情報を伝達する重要な役職です。
• 目付(めつけ):幕府の監察を行う役職です。安政5年(1858年)に就任しました。
• 大坂東町奉行(おおさかひがしまちぶぎょう):文久3年(1863年)に就任し、大坂の行政・司法を担いました。
• 勘定奉行(かんじょうぶぎょう):元治元年(1864年)に就任し、幕府の財政を担当しました。
• 江戸南町奉行(えどみなみまちぶぎょう):元治元年(1864年)に就任し、江戸市中の行政・司法を担いました。
• 大目付(おおめつけ):元治元年(1864年)に就任し、諸大名や旗本の監視、罪人の取り調べなどを行いました。これは幕府の中でも特に重要な役職の一つです。
これらの役職を見るだけでも、則篤が幕府内でいかに信頼され、重要な役割を担っていたかがわかります。

旗本有馬家がどこに住んでいたか、明確な情報は見つけることが出来ませんでした。
ただ、有馬則篤の養父である有馬則国は旗本であり、旗本は江戸幕府に仕える武士でした。そのため、彼らの居住地は江戸が主であったと考えられます。有馬則国が所属する旗本有馬家は、久留米藩有馬家の分家として、江戸幕府に仕える家柄でした。旗本は将軍直属の家臣であり、有馬則国もその一員として幕府の支配体制を支える役割を担っていました。
則篤が内藤正縄の次男であったことから、彼が学識や才能に富んでいた可能性も考えられます。則国は、則篤が旗本次第である有馬家の家運をさらに隆盛させ、幕府内でより高い地位に就くことを期待したのかもしれません。実際に則篤は、使番、目付、大坂東町奉行、勘定奉行、江戸南篤は内藤正縄の次男として生まれました。大名家の子息は幼い頃から学問や武術の教育を受けており、その才能は周囲に知られていた可能性が高いです。則国が則篤を養子に迎える際、内藤家と有馬家の間で、則篤の器量や学力に関する情報交換があったかもしれません。
【 家柄と人脈】
則篤の実家である内藤家は、信濃岩村田藩主を務める大名家でした。則国のような旗本が、大名家の子息を養子に迎えることは珍しいことではありませんでした。これは、単に才能だけでなく、内藤家という家柄が持つ「信頼性」や「将来性」といった総合的な評価が含まれていた可能性があります。当時の養子縁組は、家同士の信頼関係や人脈が重要でした。
【 将来性への期待】
則国は、跡継ぎを定めるにあたり、有馬家の将来を託せるかどうかを慎重に判断したことでしょう。
町奉行、大目付といった幕府の要職を歴任しており、則国の期待に応える活躍を見せたと言えるでしょう。

氏弘が養子になる前に、養父となる有馬氏郁と面識があったかどうかは、残念ながら定かではありません。
【養子縁組の背景】
当時の大名家や旗本家では、血筋を絶やさないため、また才能のある人物を後継者とするために、養子縁組はごく一般的なことでした。氏弘が養子となった背景には、吹上藩の跡継ぎ問題があったと考えられます。
【養子と面識】
一般的に、養子縁組は家と家との間で決められることが多く、当事者同士が事前に面識がなかったとしても不思議ではありません。特に氏弘は旗本の次男という立場でしたので、大名である氏郁と直接会う機会は少なかった可能性が高いです。
【記録の限界】
当時の個人の交流に関する詳細な記録はあまり残されていないことも多く、氏弘と氏郁の個人的な交流について正確な情報を得ることは難しいのが実情です。

投稿作成者

高祖父のお墓を訪れて手を合わせた事は、さぞ感慨深かったことでしょう。
そうやって我々は先祖に対して、感謝の念を抱く事が大切だと思います。

吉田 由起子

有馬則篤は明治30年10月3日に亡くなられています。そして、墓所が建立されたのが明治32年9月18日と記入していることを見ました。。亡くなった日と墓所の建立日がずれていると、誰が納骨したのか気になっていますが、この期間の状況から考えると、納骨を行ったのは彼の家族、特に彼の次男である氏弘(うじひろ)である可能性が高いと考えられます。当時の習慣として、故人の埋葬や供養は家督を継ぐ立場の者が中心となって行うことが一般的でした。氏弘は有馬則篤の次男であり、有馬家の後継者として、亡くなった父の納骨や墓石の建立に携わったと考えられます。

有馬氏弘の遺骨が見つからないことは、少し複雑な事情があるようです。
【 有馬氏弘の墓所と消息】
有馬氏弘の墓所は、東京都渋谷区広尾にある祥雲寺にあります。祥雲寺には、吹上藩有馬家の累代墓があり、有馬氏弘の石碑も存在します。しかし、明治9年(1876年)に氏弘は養母・鎮に家督を譲って隠居し、有馬家と離縁しています。この出来事の後、氏弘が安積郡で暮らしていたということが分かっています。その後の消息は不明とされています。祥雲寺の墓地は、昭和29年の本堂火災後、墓域を縮小し、合葬墓となっているようです。これらのことから、祥雲寺には彼の名前が刻まれた石碑はあっても、彼の遺骨が個別に納骨されているかは不明瞭な状況です。有馬氏弘の遺骨は、有馬家との離縁やその後の消息不明によって、別の場所に埋葬された可能性も考えられます。

戸籍上は氏弘の妻は復縁に為に別れたし、子は養女になった後、1人暮らしになったのではと考えられます。死亡場所(安積郡日和田町高倉)は延命寺と保福寺に近いようですので、近いうちにFAXで照会することを考えています。

「有馬氏弘の華族家記」は、国立公文書館デジタルアーカイブに収蔵されている歴史資料です。具体的には、「華族家記・有馬氏弘、自慶応三年十月至明治元年十二月、一」という標題で登録されています。
これは、慶応3年(1867年)10月から明治元年(1868年)12月までの期間にわたる記録のようです。この時期は、日本の歴史における大きな転換点、つまり江戸幕府の終わりから明治新政府の成立にかけての激動の時代にあたります。残念ながら、この資料の具体的な内容や、有馬氏弘氏がどのような人物であったか、また華族としてどのような生活を送っていたかについての詳細な情報は、国立公文書館デジタルアーカイブの記載からは読み取れませんでした。
この「華族家記」は、当時の特定の華族に関する公文書や記録をまとめたものとして、当時の社会状況や華族制度に関する貴重な情報を含んでいる可能性があります。デジタルアーカイブを通じて、目録情報の検索やデジタル画像の閲覧が可能です。
この資料は「華族家記・有馬氏弘、自慶応三年十月至明治元年十二月、一」という標題で登録されており、慶応3年(1867年)10月から明治元年(1868年)12月までの期間の記録であることがわかります。
【「家記」とは何か】
「家記」とは、国立公文書館デジタルアーカイブにおいて「第七類 家記」として分類されている資料群の一部です。
・作成経緯: 明治6年(1873年)に皇城が炎上し、多くの記録が焼失しました。そのため、太政官から皇族や華族に対し、維新以降の家記、令達(お達し)、稟請(願い出)などの文書を謄写(書き写して提出)するように達しがありました。
・「有馬氏弘」の家記: この有馬氏弘氏の「華族家記」も、この時の太政官の達しを受けて提出されたものと考えられます。つまり、当時の有馬氏弘家が過去の記録をまとめて提出した歴史資料ということになります。
【 記録されている可能性のある内容】
標題の期間が慶応3年10月から明治元年12月であることから、当時の有馬氏弘が経験した具体的な出来事や、関わった事柄が記録されていると推測できます。この時期は、江戸幕府の終焉から明治新政府の誕生、戊辰戦争の勃発など、日本の歴史が大きく動いた激動の時代です。
【「華族家記」の目的】
有馬氏弘氏の著書「華族家記」は、主に明治時代に存在した「華族」という身分制度において、それぞれの家がどのような歴史を持ち、どのようにして華族に列せられたのかを記録し、後世に伝えることを目的としています。
【華族とは】
華族は、明治時代に日本の貴族として位置づけられた身分で、旧来の公家や大名家、また国家に功績のあった者などで構成されました。彼らは特別な地位と権利を持ち、日本の近代化において重要な役割を担っていました。
【記録の重要性】
「華族家記」には、単に系図を記すだけでなく、各家の来歴、功績、そして華族となるまでの経緯などが詳細に記されています。これは、当時の社会における華族の存在意義や、彼らが果たした役割を理解するための貴重な資料となります。

有馬氏弘の家記作成の背景にある思想として、最も中心的だったのは中央集権国家の形成、歴史の継承と正当性の確立、そして身分制度の再編という三つの大きな流れです。
【中央集権国家の形成】
明治政府は、それまでの封建的な藩体制を解体し、天皇を中心とする強力な中央集権国家を築こうとしていました。その過程で、全国のあらゆる情報を把握し、管理することが不可欠でした。
・政府による情報の一元化: 諸藩がそれぞれ持っていた記録や情報の管理体制から、新政府が一元的に情報を掌握する体制への移行を目指していました。家記の提出要請は、かつての大名家や公家である華族が持つ情報を集約し、政府が管理下に置くための一環だったと言えます。
・富国強兵の基盤: 強固な国家を建設するためには、国内の資源や人材に関する正確な情報が必要でした。華族の家に関する情報は、社会構造を理解し、政策立案の基礎とする上で重要でした。
【 歴史の継承と正当性の確立】
明治維新という大転換期を経て、明治政府は自分たちの権力が正当であることを内外に示す必要がありました。そのためには、歴史を編纂し、その正当性を歴史の中に位置づけることが重要視されました。
・焼失した記録の復元: 明治6年(1873年)の皇城焼失は、政府にとって歴史的記録の喪失という痛手でした。この空白を埋め合わせるために、各家が持つ記録を再収集することは、失われた歴史を復元し、継承していくための緊急かつ重要な課題でした。
・維新の正統性確立: 華族の家記は、維新の過程で各家がどのように政府に協力し、あるいは恭順したかを記録するものでした。これにより、新政府は、自分たちの革命が旧体制の多くの支持を得て行われた合法的なものであるという歴史認識を確立しようとしたのです。これは、古代において国家の正統性を示すために『古事記』や『日本書紀』が編纂された思想と共通する部分があります。
【身分制度の再編と管理】
明治政府は、従来の士農工商という身分制度を廃止し、新たな身分制度として華族・士族・平民を設けました。この新しい身分制度を管理し、運用していく上でも、各家の詳細な情報が必要でした。
・華族としての位置付け: 華族は、新政府における特権的な上流階級として位置付けられました。家記の提出は、各家がこの新しい身分制度の中でどのような歴史を持ち、どのような実績を積んできたかを政府が確認し、華族としての地位を認定・管理するための基礎情報でもありました。
・身分維持の条件: 士族に学位記(卒業証書)が授与された際に、士族であるという族称が併記された例からもわかるように、明治初期には身分と個人の資格が密接に結びついていました。家記は、華族の家系維持や子孫の教育、さらには華族としての職務遂行能力といった側面を政府が評価するための情報となり得ました。これにより、華族という身分が単なる旧来の血筋だけでなく、政府への貢献や新しい時代への適応も求められるようになったと解釈できます。
このように、有馬氏弘の家記作成の背景には、単なる記録の収集にとどまらない、明治政府による国家運営の根幹に関わる思想があったと言えます。

投稿作成者

有馬則篤家の家督ですが、氏弘が継いでいるのでしょうか??
兄や弟、養子らは居なかったのでしょうか?

既存記事の推敲

高祖父・有馬則篤の墓所を求めて

2025年7月21日、私は高祖父にあたる有馬三敬(則篤)の墓所にお参りしたいと思い立ち、墓所がある曹渓寺にFAXを送りました。あわせて、曹渓寺に眠る他の史跡的な墓地も参拝したいという希望も記しました。

この最初のFAXには曹渓寺から返信があり、有馬家の墓所が同寺に存在することを改めて確認することができました。

その後、改めてお参りの日程などを相談しようと、最近になって2度目のFAXを送りました。しかし、この時はなかなか返事が届かず、しばらく不安な日々を過ごしました。

返事がない状況を心配し、私は社会福祉協議会の手話通訳者派遣事業を利用して、手話通訳を通じて曹渓寺へ電話で問い合わせを行いました。寺院側の説明によれば、個人情報の問題があるため、FAXでは詳しい回答ができないとのことでした。

やりとりの中で、なぜ詳しい回答が難しいのかをたずねると、理由は高祖父である有馬三敬(則篤)の墓所を現在も守っているご家族がいらっしゃるためだと説明を受けました。

そこで、そのご家族を紹介していただけないかとお願いしましたが、個人情報保護の観点から、連絡先やお名前などを寺院から第3者に伝えることはできないとのことでした。

手話通訳の方を通じて約45分ほど話し合った末に、結論としては次のように整理されました。墓所を守るご家族がいるため、詳しい個人情報については答えられないものの、私が有馬家の子孫として墓所をお参りすること自体は差し支えないので、予約がなくても自由に来てよい、ということでした。

有馬三敬(則篤)の墓所を守るご家族がいらっしゃることを初めて知り、私は大きな驚きを覚えました。同時に、その方がどのような方なのか、一度お会いしてお話をうかがってみたいという気持ちも湧き上がりました。

一方で、福島県安積郡にある曾祖父・有馬氏弘の墓所については、今のところ誰かが継続して守っているのかどうか分かっていません。この違いを思うと、同じ有馬家の先祖でありながら、墓所がたどってきた歴史と、それを取り巻く人々の事情はそれぞれに異なっているのだと、あらためて感じさせられました。

2026年1月19日、高祖父の墓前に立って

そして今年1月19日、私は実際に高祖父である有馬則篤の墓所に足を運びました。高祖父のお墓の前に立ったとき、私は自分自身のルーツを肌で感じていることに気づきました。

高祖父のお墓を訪れることは、単に故人を偲ぶだけではありませんでした。私自身が今ここに生きていること、その背景にある数えきれない命の積み重なりに思いをはせる、貴重な機会になりました。

高祖父が命をつないでくれたからこそ、今の私が存在しています。墓所の前で静かに手を合わせる中で、遠い過去から現在の自分へと受け渡されてきた、途切れることのない命のバトンを感じ、深い感謝の気持ちが胸の内から湧き上がってきました。

激動の時代をたくましく生き抜いた高祖父のことを思うと、その感謝はいっそう強くなります。日常の忙しさから離れ、静かにご先祖様と向き合う時間は、心を落ち着かせ、新たな活力を与えてくれる体験になりました。

それは、日本が大きく変わっていった激動の時代です。そのような時代をたくましく生き抜いてこられた高祖父の墓所を前にすると、歴史の重みを感じ、まるで高祖父と心の会話をしているかのような気持ちになって、胸がいっぱいになりました。

「有馬家」のお墓は2つありますので、どこかに遠い親戚がいることが分かりました。実際にお会いできるかどうかは分かりませんが、そのご縁は成り行きに任せるほかありません。

一方で、曾祖父・有馬氏弘の兄弟がいたのかどうか、まだはっきりとは分かっていません。氏弘の代で「有馬家」がいったん跡絶えてしまったことだけは、これまでの調査から見えてきています。遺骨のある氏弘の墓所を、今も誰かが守っているのかどうかを探し出すことは、現時点ではとても難しいと感じています。

歴史との対話

有馬則篤が生きていた明治の時代は、江戸時代の身分制度が壊れ、近代国家づくりが一気に進んだ激動の時代でした。藩がなくなり、軍隊や学校制度、鉄道などが急速に整えられていく一方で、旧士族をはじめ多くの人々が、将来への不安と向き合いながら暮らしていました。(nta.go.jp)

そのような時代のただ中で、有馬則篤もまた、自分の家族を守り、次の世代へ命と暮らしをつなぐために、迷いながらも選択を重ねていったはずです。私が高祖父の墓前に立つとき、こうした明治社会のうねりの中で生きた一人の人間としての則篤の姿を想像し、その選択の積み重ねの結果として今の自分がいることを、あらためて感じずにはいられません。

なぜ氏弘の遺骨が見つからないのか

有馬則篤は明治30年10月3日に亡くなり、墓所の建立日は明治32年9月18日と記されています。亡くなった日と墓所建立日とのあいだに約二年のずれがあることから、誰がいつ納骨を行ったのかという点は、大きな関心事になりました。

当時は、明治民法に基づく家督相続の制度のもとで、「家」を継ぐ者が戸主の地位と家産、そして墓地や祖先祭祀をまとめて引き継ぐ仕組みがとられていました。(souzoku.asahi.com)

この当時の状況から考えると、納骨と墓石建立を中心になって担ったのは、則篤の家族、特に次男であり有馬家の後継的立場にあった氏弘である可能性が高いと考えられます。こうした家督相続の仕組みの下では、家の財産とともに墓や祭祀を守る役目も、家督相続人に集中していました。(souzoku.asahi.com)

その一方で、有馬氏弘自身の遺骨が行方不明であるという事実は、単なる「記録の欠落」だけでは説明しきれない複雑さをはらんでいます。父・則篤の納骨と墓所建立に深く関わったと考えられる人物の遺骨が、自らの家の墓からは確認できないという点には、次のような可能性が考えられます。

ひとつは、明治から大正・昭和にかけての社会変動の中で、氏弘が別の地に移り住み、その地で埋葬されたという可能性です。もうひとつは、家制度の崩壊や戦災、改葬などによって、墓所と遺骨の関係が途切れてしまった可能性です。あるいは、氏弘が「有馬家」という家そのものを継ぐことを断念し、別の姓や家に自らを位置づけた結果として、遺骨が有馬家の墓に入らなかったのかもしれません。

どれも現時点では仮説の域を出ませんが、「父の墓を建てたはずの人の遺骨が、そこにいない」というねじれは、単なる偶然というよりも、近代の家制度や社会の変動が個人の人生に与えた影響を映し出しているように思えます。

有馬氏弘の遺骨が見つからないことは、少し複雑な事情があるようです。

「有馬家が跡絶えた」と氏弘が理解していた可能性

有馬氏弘が「有馬家が跡絶えてしまった」と認識していたのではないか、という問いは、彼の人生の後半を考えるうえでとても重要な視点です。

明治期の家制度のもとでは、「家」は一人の戸主を頂点とし、その家督を誰が継ぐかが決定的な意味を持っていました。家督相続は原則として一人に集中し、その人物が系譜、祭具、墳墓を受け継いでいく仕組みでした。(souzoku.asahi.com)

もし氏弘に実子や家督を継ぐべき直系の男子がいなかったとすれば、ある時点で「自分の代で有馬家は終わる」という意識を持っていた可能性があります。また、たとえ血縁の親族が存在していたとしても、家督相続や養子縁組が成立しなければ、「家」の系譜としては断絶とみなされてしまうのが当時の家制度の考え方でした。(chester-tax.com)

そのような状況の中で、氏弘は次のような思いを抱いていたかもしれません。戸籍上・法制度上の「有馬家」は自分の代で終わる。しかし、父・則篤の墓所や祖先の供養は、どこかで誰かが続けてくれるかもしれない。自分の遺骨をどこに納めるかについても、「有馬家」という枠組みを超えた選択をせざるを得ない、そんな感覚です。

結果として、父・則篤の墓所は曹渓寺で「守る家族」がいると聞かされる一方で、氏弘自身の遺骨の所在ははっきりしないという、ねじれた状況が生まれているのかもしれません。ここには、近代の家制度がつくり出した「家の終わり」と、血縁そのものはどこかで続いていくという現実とのあいだのずれが、静かに横たわっているように感じられます。

私にとって、有馬則篤の墓所がきちんと残り、今も誰かが守っていること、そして一方で有馬氏弘の遺骨が見つからないことは、「墓所としてつながる家系」と「記録や実感としては見えにくくなった家系」との二重写しのように思えます。そのねじれの中に、「有馬家が跡絶えた」と氏弘が理解していたかもしれない感覚が、どこかで響いているように感じられてなりません。

麻布の高台に広がる曹渓寺の境内奥、古い石垣に囲まれた静かな一画に、いくつもの墓碑が身を寄せ合うように並んでいる。苔むした石塔と低くめぐらされた玉垣、そしてところどころに立つ石灯籠が、長い歳月のあいだこの場所を見守ってきたことを物語っている。吹上藩主家に連なる有馬家本家の墓所と伝えられるその一角の中央近くに、ひときわ大きな一基の墓が据えられており、正面には戒名とともに有馬の姓と名が刻まれている。その石面を読み取ると、そこに眠るのは幕臣・有馬則篤であり、のちに曾孫として生まれる氏弘が、自分の家の行く末を考えるとき、知らず知らずのうちに背負うことになった本家の記憶が、この墓所の形に静かに刻み込まれている。

氏弘自身がこの墓所を訪れたという確かな記録は見いだせないものの、江戸幕府で町奉行や作事奉行、勘定奉行などの要職を歴任した本家当主・有馬則篤の名を刻んだこの墓が、麻布の高台で静かに時を重ねてきたことは、のちに曾孫として生まれる氏弘が、自らの姓をどう名乗り、どのような家の行く末を思い描くかを考えるとき、その背後にある出自と本家の重みを、否応なく意識させる土台となっていたようにも思われる。(bakushindoko.jp)

氏弘が幼い日々を過ごした家について、間取りや庭の細かなようすを伝える同時代の記録は残されていない。それでも、麻布の高台に本家の墓所をもち、江戸幕臣として町奉行や作事奉行の系譜に連なる家であることを思えば、彼が最初の記憶を育んだのも、表に長屋門を構え、奥に母屋と座敷が続き、わずかな庭木と蔵をそなえた武家屋敷の一角であったと考えるのが自然だろう。朝に門前を行き交う駕籠や荷車のひびき、夕暮れには軒先まで差しこむ西日と土間に立ちのぼる煮炊きの湯気、雨の日には濡れた石畳から立ちのぼる土と藁の匂いといった、江戸の武家地に特有の空気の中で、氏弘の幼少期の暮らしも静かに営まれていたにちがいない。

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