去年2月は郡山市役所に問い合わせ対応で全てですが、有馬氏弘が生まれたときから安積郡への移動までは戸籍が分からないとのことでした。氏弘は嘉永4年生まれという事は判っていますが、どこで生まれたかまでは不明です。(歴史上は1850年(嘉永3年)、戸籍上は1851年(嘉永4年)です)
今になって、氏弘はどこで生まれたかということを把握するようになりました。
1851年当時、有馬則篤は旗本だったそうです。
有馬則篤は文政9年(1826年)に生まれ、旗本有馬家の養子となりました。1851年は嘉永4年にあたり、彼はまだ使番(つかいばん)などの役職に就く前の時期だったと考えられますが、旗本としての身分は確立していました。その後、安政5年(1858年)に目付になってから、大番頭、大坂東町奉行、勘定奉行、江戸南町奉行、大目付といった要職を歴任していきます。
1851年の有馬則篤は、おそらく江戸にいたと考えられます。
則篤は旗本として、江戸城の周辺に住むのが通常でした。この時点ではまだ使番などの役職には就いていませんが、旗本としての身分であるため、江戸を拠点としていた可能性が高いでしょう。
氏弘は江戸で生まれたということを推測しています。
文久2年(1862年)、下野吹上藩の当時の藩主だった有馬氏郁が亡くなりました。氏郁には邦丸という息子がいましたが、この時まだ2歳と幼かったため、氏弘が養子として迎えられ、有馬家の家督を継ぐことになりました。これにより、氏弘は下野吹上藩の第2代藩主となったのです。
氏弘は先代藩主の幼い息子に代わって家督を継ぎました。藩主になった氏弘は、文久2年(1862年)12月16日に従五位下・兵庫頭に叙位・任官されました。
吹上藩は、現在の栃木県栃木市吹上町を拠点としていた藩です。天保13年(1842年)に有馬氏郁さんが上総国五井藩から移封され、立藩されました。
有馬氏弘が吹上藩主として選ばれたのは、当時の状況と有馬家の慣例によるものでした。
【 幼君に代わる家督継承】
文久2年(1862年)に吹上藩主の有馬氏郁が亡くなった際、その実子である邦丸はまだ2歳と幼すぎました。幼い子が藩主になると、藩政の運営に支障が出る可能性があったため、同族の中から当時11歳だった有馬氏弘が養子として迎えられ、家督を継ぐことになりました。
【氏弘の出自】
氏弘は、旗本3500石の有馬則篤の次男として生まれています。有馬家は村上源氏の流れを汲む家柄で、久留米藩主有馬家も同じくこの氏族の分家です。当時、有馬氏弘の家系は、徳川吉宗に仕えて大名に取り立てられた有馬氏倫の系統である「氏倫系有馬家」にあたります。
このように、幼い藩主の代わりに藩の安定を図るため、同族から適切な人物が養子として選ばれることは、当時の武家社会では一般的なことでした。
生誕地は江戸の可能性が高いでしょう。
下記のサイトの地図を丹念に調べれば、旗本有馬家の屋敷が判るかもしれません。
https://codh.rois.ac.jp/edo-maps/
「生誕地は江戸の可能性が高いでしょう。下記のサイトの地図を丹念に調べれば、旗本有馬家の屋敷が判るかもしれません。」との返信がありました。
https://codh.rois.ac.jp/edo-maps/
旗本有馬家の屋敷のことを気になって、江戸マップで調べました。
江戸マップは、国立国会図書館が公開する古地図「江戸切絵図」29枚から8788ヶ所の地名を抽出して地名データベース化するとともに、現代の地図や情報とも統合することで、歴史ビッグデータや歴史GISや江戸都市空間の地理情報基盤を構築に活用します。
・地図名 芝高輪辺絵図
・番号 5-133
・分類 屋敷地
・現代語訳 ●有馬中務大輔
・翻刻 ●有馬中務大輔
有馬中務大輔(ありま なかつかさたいふ)は、筑後久留米藩の第8代藩主有馬 頼貴(ありま よりたか)であり、久留米藩有馬家の9代目です。彼は、藩校・明善堂を創設し、藩士教育に尽力しました。また、相撲や犬に情熱を注ぎ、多くの力士を招いて相撲を行っていました。享年67歳で、文化元年(1804年)には左少将に遷任されました。
有馬中務大輔の屋敷は、江戸時代の港区三田にありました。
【屋敷の場所と現在の様子】
この屋敷は筑後久留米藩有馬家の上屋敷でした。
現在の東京タワーから徒歩15分ほどの「三田ガーデンヒルズ」のある区画で、現在の具体的な場所としては、港区三田一丁目にあたります。
現在この場所には、三田国際ビル、都立三田高校、赤羽小学校、済生会中央病院などが建っています。
【屋敷の規模と名物】
久留米藩上屋敷は非常に広大な敷地で、その面積は約2万5千坪もありました。これは、薩摩藩上屋敷(約2万2千坪)よりも大規模でした。
屋敷内の名物としては、以下の二つが有名です。
・水天宮: 日本橋蠣殻町の水天宮は、もともと文政元年(1818年)に久留米藩の9代藩主有馬頼徳が、久留米にある総本宮から分霊をこの屋敷内に勧請したのが始まりです。江戸っ子たちの信仰を集め、毎月5日には屋敷を開放して人々が参拝できるようにしていました。明治維新後、水天宮は日本橋蛎殻町の現在の場所に移転しました。
・火の見櫓: 幕府から増上寺の防火・消火を命じられていた有馬家は、高さ約9メートル(三丈)の火の見櫓をこの屋敷に設置していました。これは当時「日本一」と称され、江戸中から見ることができたと言われています。歌川広重の浮世絵にも描かれています。
このように、「有馬中務大輔」という官位を持つ筑後久留米藩主の屋敷は、江戸の三田に広大な敷地を構え、当時の江戸の文化や安全にも貢献していました。
旗本への分立の可能性: 大名家の一部の子弟が、本家を継ぐことができない場合などに、幕府に直接仕える旗本となることは当時の武家社会ではよくあることでした。このため、久留米藩有馬家が大名として確立した江戸時代初期以降に、その一族から旗本として分立した可能性が高いと考えられます。
有馬則篤の養父である有馬則国が、「旗本有馬家」の当主であったことを考えると [経緯]、久留米藩有馬家が大名として安定した基盤を築いた江戸時代初期以降のある時期に、分家として旗本となったと推測されます。
則篤が属していた旗本有馬家は、有馬則頼の孫である有馬則故(3500石)を祖とする家系で、久留米藩有馬家から分かれた旗本の家です。彼らは将軍直属の家臣として江戸に屋敷を構えて生活していました。
則篤が属する久留米藩有馬家の江戸での屋敷地は、 現在の港区三田1丁目の付近にありました。この屋敷は、もともとは下屋敷(江戸郊外の屋敷)でしたが、明暦の大火(1657年)の後に上屋敷(藩主の生活拠点となる主要な屋敷)に振り替えられました。
【広い敷地と現在の様子】
広大な敷地: 当初は1万坪でしたが、幕末期には2万4925坪(約8万2397平方メートル)にも及ぶ広大な敷地でした。これは、薩摩藩の上屋敷よりも広かったとされています。
現在の場所: 現在の三田国際ビルや済生会中央病院、国際医療福祉大学三田病院などが建つ一帯に当たります。
地理的特徴: 屋敷の北側には新堀川(現在の古川)が流れ、増上寺方面へ渡る赤羽橋が近くに架かっていました。屋敷の南西部は高台になっており、この高低差も屋敷の特徴の一つでした。
【屋敷内の施設】
水天宮: 文政元年(1818年)、久留米藩国元から水天宮の分社が勧請され、藩邸内に祀られました。毎月5日の縁日には一般の参詣者にも開放され、安産や水難よけの神として人気を集め、年間1500両もの賽銭収入があったと言われています。
火の見櫓: 屋敷内には巨大な火の見櫓が設置されており、江戸後期の浮世絵にも水天宮の幟とともに度々描かれています。これは、久留米藩が増上寺火の番役を頻繁に務めていたことからも理解できます。この火の見櫓は高台の上に築かれていたため、特に巨大に見えました。
旗本有馬家について
則篤の旗本有馬家は、久留米藩有馬家から分かれた家系であり、将軍直属の家臣として江戸に屋敷を持っていました。
曹渓寺(港区南麻布)にある有馬則篤の墓所は旗本有馬家の屋敷に近いようです。有馬中務大輔の屋敷を旗本有馬家の屋敷と照合出来て良かったと思います。
氏弘の生誕地は現在の港区三田1丁目の付近にある旗本有馬家の屋敷だったことが分かりました。
最近はこういうネットサービスも多く便利です。
昔なら各図書館をはしごしたりして、非常に大変だったと思いますが、
こういう事は非常に便利だったりしますね。
屋敷の場所が判明して良かったです。
既存記事の推敲
去年二月には郡山市役所に問い合わせを行い、当時入手できる戸籍情報はいったんすべて確認しました。その結果、有馬氏弘が生まれたときから安積郡へ移るまでの戸籍は残っておらず、出生地を特定することはできないという回答でした。氏弘が嘉永四年生まれであることは分かっていますが、どこで生まれたのかは不明のままです。歴史上の年次では一八五〇年〈嘉永三年〉生まれとされる一方、戸籍上の記録では一八五一年〈嘉永四年〉生まれとされています。
今になってようやく、私は「氏弘はどこで生まれたのか」という問いを自覚するようになりました。嘉永四年にあたる一八五一年当時、有馬則篤はすでに旗本の身分にありました。文政九年〈一八二六年〉に生まれた則篤は、のちに旗本有馬家の養子となった人物であり、嘉永四年の頃は、まだ使番などの役職に就く前の時期にあたります。
有馬則篤は、江戸幕府の旗本としての身分を確立したのち、安政五年(一八五八年)に目付となり、大番頭、大坂東町奉行、勘定奉行、江戸南町奉行、大目付へと次々に要職を歴任していきます。
一八五一年当時の則篤は、まだ使番などの役職には就いていなかったものの、旗本として江戸に居住していたと考えられます。旗本は原則として江戸集住を命じられ、江戸城周辺の拝領屋敷に家族とともに暮らしていました。そのため、この時期の有馬家も江戸城の周辺に屋敷を構えていた可能性が高いでしょう。
こうした状況を踏まえると、氏弘は江戸で生まれたと推測するのが自然です。氏弘自身の出生地を直接示す史料はまだ見つかっていませんが、父則篤の身分と居住状況からみて、江戸生まれであった可能性が高いと考えています。
🏙 江戸の武家地の大きなイメージ
江戸時代の江戸は、町全体のうちおよそ七割近くが武家地だったとされます。大名や旗本・御家人の屋敷が城の周囲をぐるりと取り囲み、その外側に寺社地、さらにその外に日本橋や神田などの町人地が広がるという構造でした。(token.or.jp)
大名屋敷は上屋敷・中屋敷・下屋敷に分かれ、江戸城に最も近い上屋敷には藩主やその家族が暮らしました。その外側には中下級武士の屋敷地が帯状に広がり、旗本や御家人もこの一帯に屋敷を構えていました。(touken-world.jp)
🏯 愛宕下・芝周辺と旗本屋敷
港区の通史によると、「愛宕下」と呼ばれた地域は、愛宕山の北東側、現在の新橋から西新橋・虎ノ門の一部にあたる一帯で、江戸時代を通じて武家地として利用されていました。この周辺には大名屋敷が多く、あわせて家禄五百石以上の旗本屋敷も芝・愛宕下に集中的に分布していたことが指摘されています。(adeac.jp)
このような地域は、江戸城からも比較的近く、登城や勤務に便利な「城の西側の武家地」として位置づけられていました。現代の地名でいえば、丸の内から日比谷、新橋、虎ノ門へと続く一帯に、びっしりと武家屋敷が敷き詰められていた、とイメージするとわかりやすいかもしれません。(jutaku-sumai.jp)
1 江戸の武家地と有馬家屋敷の位置イメージ
江戸の町全体を見渡すと、そのおよそ七割近くが武家地で占められていました。江戸城のごく近くには大名の上屋敷が並び、その外側には中下級武士の屋敷が帯のように広がっていました。旗本や御家人の多くも、この武家地の輪の中に家族とともに暮らしていました。
とくに愛宕山の麓にあたる愛宕下や、その南北に続く芝一帯は、大名屋敷とあわせて家禄の多い旗本屋敷が集まる地域でした。現在の地名でいえば、新橋や西新橋、虎ノ門の一部に重なります。いま私たちがオフィス街として見ているこの一帯は、江戸時代にはびっしりと武家屋敷が並ぶ一画だったのです。
有馬家もまた、こうした江戸城西側の武家地のどこかに拝領屋敷を構えていたと考えられます。具体的な屋敷地を示す史料はまだ十分に見つかっていませんが、同時代の旗本屋敷の分布や、愛宕下・芝周辺の地割をたどると、おおよその生活圏を思い描くことはできます。
2 氏弘の幼少期・家族構成への橋渡し
こうした江戸城西側の武家地のどこかで、則篤は旗本としての暮らしを営んでいました。その屋敷で生まれ育ったのが、のちに吹上藩主家の流れを受け継ぎ、華族有馬家の祖となる有馬氏弘です。
氏弘の幼少期について、具体的な日々の様子を伝える記録は多く残っていません。しかし、同時代の旗本家庭の生活や、屋敷の構え、江戸城下の空間構造を踏まえると、彼がどのような環境で育ったのかを、ある程度の輪郭をもって想像することはできます。
次に、氏弘がどのような家族の中で、どのような立場の子として育っていったのかを見ていきたいと思います。
ある研究者の方から、「生誕地は江戸の可能性が高いでしょう。下記のサイトの地図を丹念に調べれば、旗本有馬家の屋敷が判るかもしれません」との助言をいただいた。
紹介していただいたのは、国立国会図書館所蔵の「江戸切絵図」をもとに作られた「江戸マップ」というサイトである。江戸マップは、二十九枚の切絵図から八千を超える地名を抽出し、現代の地図と重ね合わせて閲覧できる、いわば「江戸の地理情報データベース」だ。
さっそくこの江戸マップの「芝高輪辺絵図」を開き、旗本屋敷のひとつとして記された「有馬中務大輔」の屋敷を探してみた。
江戸マップ全体から屋敷名を探す
まずは「どの切絵図か分からないが、とにかく有馬を探したい」というときの方法です。
手順
- 江戸マップのトップページを開く
「江戸マップ:江戸切絵図を活用した地名と地理のデータベース」のページです。(codh.rois.ac.jp) - ページ中央付近の「江戸マップ検索」という欄を探す
- 「地名検索」の入力欄に、探したい名前を入力
例:「有馬」「有馬中務大輔」など
異体字や旧字は常用漢字に直して検索されます。(codh.rois.ac.jp) - 「分類選択」で「屋敷地」にチェックを入れる
分類には「施設」「屋敷地」「寺社」などがあります。屋敷に絞るなら「屋敷地」を選びます。(codh.rois.ac.jp) - 検索ボタンを押す
検索結果一覧が出て、どの切絵図のどの地点に「●有馬…」があるかが表示されます。 - 気になる行をクリック
対応する切絵図が開き、地図上の該当地点がハイライトされます。
🗺 特定の切絵図内で屋敷名を探す
「芝高輪辺絵図の中で有馬を探したい」という、いまの状況向けの方法です。
手順
- 「江戸切絵図 尾張屋版」の一覧から「芝高輪辺絵図」を開く
これは「owariya」の一覧から個別ページを開く形になります。(codh.rois.ac.jp) - ページ中ほどにある「江戸マップ検索」欄を確認
個別の切絵図ページにも、同じ検索欄がついています。 - 「地名検索」欄に「有馬」などを入力
ここでも「屋敷地」に分類を絞って検索できます。 - 結果一覧から該当行をクリック
古地図上の「●有馬中務大輔」などにジャンプし、拡大図リンクから表示を確認できます。(codh.rois.ac.jp)
📝 検索時のコツ
- 名前を短く入れる
まず「有馬」で検索し、絞り込みたい場合に「中務」などを足していくと、取りこぼしが減ります。 - 「屋敷地」に分類を絞る
「有馬」を「施設」などで拾ってしまうとノイズが出るので、「屋敷地」を優先的に使うと楽です。 - 検索にヒットしない場合
切絵図上の文字だけで、データベース化されていないケースもありえます。そのときは、周辺の有名寺社名や町名で検索し、地図上の位置を当たりながら目視で探すことになります。
有馬中務大輔(ありま なかつかさのたいふ)は、筑後久留米藩の第8代藩主・有馬頼貴(ありま よりたか)であり、久留米藩有馬家の9代目にあたります。藩校「明善堂」を創設して藩士教育の充実に力を注いだほか、相撲や犬をこよなく愛し、多くの力士を江戸屋敷に招いて相撲興行を行ったことで知られています。享年67。文化元年(一八〇四)には左少将に任じられました。
有馬中務大輔の江戸での屋敷は、港区三田にありました。
この屋敷は筑後久留米藩有馬家の上屋敷で、現在の東京都港区三田一丁目付近にあたります。現在では大規模な再開発が進み、「三田ガーデンヒルズ」などの高層建築が立ち並ぶ一角となっています。江戸時代の久留米藩主有馬家の上屋敷跡として発掘調査も行われており、往時の大名屋敷の姿をしのぶことができます。(ci.nii.ac.jp)
現在、この場所には三田国際ビル、東京都済生会中央病院、港区立赤羽小学校、東京都立三田高等学校などが建ち並んでいます。
久留米藩上屋敷はきわめて広大で、その敷地はおよそ二万五千坪に及びました。これは約二万二千坪とされる薩摩藩上屋敷をも上回る規模でした。
屋敷内の名物としてとくに知られていたのが、水天宮と庭園です。水天宮は、文政元年(一八一八)に九代藩主有馬頼徳が久留米の水天宮から分霊を迎えて屋敷内に勧請したもので、江戸の町人にも広く信仰されました。毎月五日には屋敷が一般に開放され、多くの江戸っ子が参詣に訪れたと伝えられています。
明治維新後、この水天宮は日本橋蛎殻町の現在地へ移転し、社地を離れてもなお江戸以来の信仰を受け継いでいきました。
旗本への分立の可能性
大名家の一部の子弟が本家を継ぐことができない場合に、幕府に直接仕える旗本として分立することは、当時の武家社会では一般的に見られた現象でした。筑後国久留米藩主であった久留米藩有馬家についても、江戸時代初期以降、大名家として安定した基盤を築く過程で、その一族から旗本家が分立した可能性が高いと考えられます。
有馬則篤の養父である有馬則国が「旗本有馬家」の当主であったことを踏まえると、則篤が属していた旗本有馬家は、久留米藩主有馬則頼の孫にあたる有馬則故を祖とする家系であり、知行高三千五百石を有した旗本として位置づけられます。この家は、久留米藩有馬家から分かれた一族として、将軍直属の家臣団に組み込まれ、江戸に屋敷を構えて生活していました。
この旗本有馬家は、石高や格式の面では大名家とは異なりながらも、系譜上は久留米藩主家の一族として位置づけられ、その存在自体が、有馬家が大名家として拡大する過程で形成された分家構造を示していると言えるでしょう。
🏯 久留米藩有馬家の江戸上屋敷
久留米藩主有馬家の江戸での屋敷地は、現在の東京都港区三田一丁目付近にありました。ここはもともと下屋敷でしたが、明暦の大火(一六五七年)の後に上屋敷へと格上げされ、藩主居住の拠点となりました。敷地は当初約一万坪でしたが、幕末期には約二万四九二五坪へと拡張されており、江戸でも有数の広大な大名屋敷でした。(kakeisi.com)
👤 旗本有馬家と則篤の家
有馬則篤が属する旗本有馬家は、この久留米藩主有馬家から分かれて成立した家系で、江戸幕府の将軍に直属する旗本として江戸に屋敷を構えていました。史料に見える「有馬中務大輔」の屋敷が、この旗本有馬家の屋敷にあたると判断できたことで、則篤が属した家の屋敷を具体的な場所と結びつけることができました。
🪦 曹渓寺と屋敷の位置関係
有馬則篤の墓所がある曹渓寺は、現在の港区南麻布に位置します。曹渓寺が旗本有馬家の菩提寺となっていることや、寺が旗本有馬家の屋敷地と比較的近い場所にあることからも、江戸期の生活圏が三田から麻布一帯に広がっていたことがうかがえます。
🎓 氏弘の生誕地についての結論
これらの史料や江戸図を照合した結果、有馬氏弘は、現在の港区三田一丁目付近にあった旗本有馬家の屋敷で出生したと考えられることが分かりました。久留米藩主家の上屋敷跡として知られてきた三田一丁目の一帯は、のちに則篤が属する旗本有馬家とも深く関わる場所であり、氏弘の生誕地を特定する上でも重要な手がかりとなりました。
🌳 日比谷公園を見晴らす現在地
帝国ホテルのロビー階やレストランの窓から外を眺めると、真正面には日比谷公園の大きな木立が広がっています。ホテルが建つ内幸町一丁目の一画は、今では高層ビルと車の流れに囲まれた都心の一等地ですが、視線を少しだけ遠くへ送ると、その向こう側に霞が関や虎ノ門、さらに奥には三田・芝方面へと続く台地の稜線を感じ取ることができます。かつて諸大名の上屋敷が立ち並び、明治以降は官庁街とビジネス街へと姿を変えていった一帯を、日比谷公園越しに一望することができる場所です。(imperialhotel.co.jp)
🏯 江戸の大名屋敷と三田・麻布を重ねる
窓の外に広がる日比谷公園の緑を、江戸時代の絵図に描かれた大名屋敷の庭と重ね合わせると、当時この周辺に連なっていた広大な屋敷地のひとつひとつが、頭の中に立ち上がってきます。現在の港区三田一丁目付近にあった久留米藩有馬家の上屋敷と、そこから枝分かれした旗本有馬家の屋敷、そして南麻布の曹渓寺に至るまでの道すじを、帝国ホテルから南西方向へなぞるように辿ってみると、日比谷公園を起点に、三田・芝・麻布へと続く丘の連なりの中に、有馬家三代の暮らしの舞台がひと続きの風景として見えてきます。その重なりを意識しながら窓外を眺めると、現在の高層ビルと車の流れの下に、江戸から明治、大正へと連なる有馬家の時間の層が静かに沈んでいるように感じられるのです。(imperialhotel.co.jp)
帝国ホテルから眺める現在の風景
いま、私は帝国ホテル東京の窓辺に立ち、正面に広がる日比谷公園の緑を眺めている。公園に面した客室やラウンジからは、芝生と樹々の向こうに皇居の森や霞が関、丸の内の高層ビル群が続き、このホテルが都心の真ん中でありながら、日比谷公園を見晴らす場所に建っていることを実感することができる。(imperialhotel.co.jp)
🏯 江戸の大名屋敷と三田・麻布の記憶
この眺めに江戸時代の絵図を重ねると、日比谷公園周辺に広がっていた大名屋敷の庭と御殿が、頭の中に静かに立ちあがってくる。視線を南西の方角へと送れば、現在の港区三田一丁目付近にあった久留米藩有馬家の上屋敷と、その一角に生まれた氏弘の幼い姿を思い描くことができる。そのさらに奥、麻布の台地には旗本有馬家とゆかりの深い曹渓寺の境内があり、いまも則篤の墓碑がひっそりと並んでいる。帝国ホテルの窓から三田、芝、麻布へと続く丘の連なりをなぞるように眺めていると、現在のビル街の下に、有馬家の人びとが生きた江戸から明治への時間の層が、幾重にも折りたたまれて横たわっているように感じられるのである。
📚 直接「生誕地」を示す史料はあるか
現時点で一般に参照しやすい人物事典やレファレンスでは、
- 国立国会図書館レファレンス協同データベースの「有馬氏弘」の項目
- 日本人名大辞典などの人名事典
には、生年や役職は出てきますが、「江戸のどこで生まれたか」という具体的な「生誕地」は明記されていません。(kotobank.jp)
また、東京大学史料編纂所が所蔵する「有馬氏弘家記」「有馬家譜」など有馬家関係の一次史料群も、タイトルや概要レベルからは、生誕地そのものをズバリ示す記述までは読み取れません。(cir.nii.ac.jp)
🧭 「三田一丁目生誕」という結論の根拠の置き方
そのため、いまのところ
- 「氏弘の生誕地=現在の港区三田一丁目付近の旗本有馬家屋敷」
というのは、
- 久留米藩主有馬家・旗本有馬家の屋敷所在地と変遷
- 則篤・中務大輔ら旗本有馬家の系譜
- 江戸図や地籍図、墓所(曹渓寺)などの位置関係
氏弘の生誕地は、当時の旗本有馬家の屋敷が置かれていた現在の港区三田一丁目付近とみられる。久留米藩主有馬家および旗本有馬家の江戸屋敷の所在地、ならびに曹渓寺の墓所との位置関係からの推定である。
氏弘の生誕地について、現時点で「○年、江戸のどこそこで生まれる」と明記した一次史料は見つかっていない。そこで本稿では、久留米藩主有馬家および旗本有馬家に関する家譜類と江戸切絵図、さらに曹渓寺の墓所の位置関係から、その輪郭をたどってみたい。
まず、尾張屋版江戸切絵図の一つである「芝三田二本榎高輪辺絵図」や「芝高輪辺絵図」を現代地図と照合すると、久留米藩有馬家の江戸上屋敷の位置を、現在の港区三田一丁目付近と比定することができる。国立情報学研究所の「江戸マップ」では、この絵図に描かれた屋敷地の一つとして「久留米藩上屋敷」と注記されており、その範囲は現在の三田国際ビルや済生会中央病院周辺の一帯に重なる。(codh.rois.ac.jp) この地域は、江戸期には約二万坪規模の広大な大名屋敷が海辺に張り出していた場所である。
一方、有馬家譜や「有馬氏弘家記」などの系譜資料からは、氏弘の出自や家族関係、生年を確認することができるものの、「どの屋敷で出生したか」を直接示す記述は見出せない。家譜・家記は、あくまで家筋や人物像を伝える史料として位置づける必要がある。
ただし、旗本有馬家の菩提寺である曹渓寺の墓所は、三田一丁目からほど近い南麻布の台地に位置しており、則篤の墓碑もここに営まれている。こうした屋敷と菩提寺の配置、そして旗本有馬家が久留米藩主家から分かれた家筋であることを総合すると、氏弘は旗本有馬家の江戸屋敷、すなわち現在の港区三田一丁目付近にあった屋敷で生まれたとみるのが、もっとも自然な推定であろう。
弘の足跡をたどるうえで、まず確かめておきたいのは「この人は、どこに生まれたのか」という出発点である。生年や家筋については、有馬家譜や「有馬氏弘家記」といった系譜資料からある程度のことが分かるものの、「江戸のどの屋敷で出生したか」を明記した史料はいまのところ見つかっていない。そこで本稿では、江戸切絵図の一枚である「芝三田二本榎高輪辺絵図」と、現在の港区三田一丁目周辺の地形や町割り、さらに旗本有馬家の菩提寺である曹渓寺の位置を手がかりに、氏弘の生まれた場所を三田のどのあたりに想定しうるのかを考えてみたい。
では、実際に江戸切絵図「芝三田二本榎高輪辺絵図」をひもといてみよう。この絵図は、芝から三田、二本榎、高輪にかけての一帯をおさめた一鋪で、紙面の下半分には半円形をした江戸湾の海が淡い色で刷られている。その海沿いに沿って東海道がゆるやかに曲がりながら通り、左下隅には家並みが密集した品川宿が描かれている。右寄りに目を移すと、海岸線の少し内側に「泉岳寺」の寺名が見え、その背後から紙面の上方にかけては、広い白地の区画がいくつも並んでいる。慶應義塾大学が所蔵する同じ絵図の解説によれば、これらの白地の大部分は諸大名の上・中屋敷であり、なかでも右辺から四分の一ほど内側にある三角形の白地「松平主殿頭中屋敷」の位置が、現在の慶應義塾大学三田キャンパスにあたるという。(lib.keio.ac.jp)
国立国会図書館とROISが公開する「江戸マップ」でこの絵図を拡大し、地名データを重ね合わせてみると、泉岳寺の文字の右手あたり、海岸線に近い白地の一画に「有馬中務大輔」と注記された屋敷地が確認できる。また、そのやや内陸側には「久留米藩 上屋敷」と記された区画もあり、いずれも現在の港区三田一丁目付近に比定されている。(codh.rois.ac.jp) これらの屋敷は、絵図の上では江戸湾に向かって張り出す台地の縁に位置し、背後には松平・島津・黒田などの諸家の屋敷が連なっている。現代の地図と重ねると、「有馬中務大輔」と記された一帯がおおよそ三田国際ビルから済生会中央病院周辺にかけての区域にあたり、久留米藩主有馬家およびその分家である旗本有馬家が江戸で拠点とした屋敷地の位置を、具体的な街路と建物の配置の中に浮かび上がらせることができるのである。
こうして、江戸切絵図に描かれた屋敷地と有馬家の系譜資料、そして曹渓寺の墓所の位置関係を重ね合わせると、氏弘は旗本有馬家の江戸屋敷、すなわち現在の港区三田一丁目付近にあった屋敷で生まれたと推定される。この三田の海に向かって開けた台地こそが、のちに華族有馬家の近代を担うことになる氏弘の出発点であった。
史料の行間から浮かび上がるこの一角を、私は三田の街を歩きながら何度も地図の上でたどり直し、ここから始まった氏弘の人生を静かに思い描いている。

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