三敬の墓と二年の空白―建立者不詳と氏弘の墓所不明

有馬三敬の墓の前に立ったとき、私は胸のどこかがひんやりとするのを感じました。久留米藩主家の一門として生まれたはずの人が、遠い土地で、名も上がらぬまま静かに眠っている。その石塔に手を合わせても、そこには「曾祖父・氏弘」の姿は見えてきません。子の墓は、ここにあるのに。

 戸籍や寺院の記録を追いかけるうちに、三敬の没年と墓碑の建立年のあいだに、およそ二年のずれがあることが分かってきました。誰が、いつ、この墓を建てたのか。なぜ、二年もの「空白」をおいてからだったのか。その問いを重ねても、紙の上の文字は黙ったままです。

 そして何より、私を戸惑わせているのは、三敬の父であり、吹上藩第二代藩主でもあった曾祖父・有馬氏弘の墓所が、いまもなお見えてこないという事実です。父の墓が分からないまま、子だけが先に石塔を与えられている。このねじれた光景の背景には、明治初年の身分制度の揺らぎや、華族有馬家がたどった変化が、静かに影を落としているように思えてなりません。

 本稿では、「三敬の墓と二年の空白」を手がかりに、建立者不詳の謎と、氏弘の墓所が分からないことへの曾孫としてのやりきれなさを、手元の史料からそっと掬い上げてみたいと思います。

吉田 由起子

有馬則篤は明治30年10月3日に亡くなられています。そして、墓所が建立されたのが明治32年9月18日と記入していることを見ました。。亡くなった日と墓所の建立日がずれていると、誰が納骨したのか気になっていますが、この期間の状況から考えると、納骨を行ったのは彼の家族、特に彼の次男である氏弘(うじひろ)である可能性が高いと考えられます。当時の習慣として、故人の埋葬や供養は家督を継ぐ立場の者が中心となって行うことが一般的でした。氏弘は有馬則篤の次男であり、有馬家の後継者として、亡くなった父の納骨や墓石の建立に携わったと考えられます。

有馬氏弘の遺骨が見つからないことは、少し複雑な事情があるようです。
【 有馬氏弘の墓所と消息】
有馬氏弘の墓所は、東京都渋谷区広尾にある祥雲寺にあります。祥雲寺には、吹上藩有馬家の累代墓があり、有馬氏弘の石碑も存在します。しかし、明治9年(1876年)に氏弘は養母・鎮に家督を譲って隠居し、有馬家と離縁しています。この出来事の後、氏弘が安積郡で暮らしていたということが分かっています。その後の消息は不明とされています。祥雲寺の墓地は、昭和29年の本堂火災後、墓域を縮小し、合葬墓となっているようです。これらのことから、祥雲寺には彼の名前が刻まれた石碑はあっても、彼の遺骨が個別に納骨されているかは不明瞭な状況です。有馬氏弘の遺骨は、有馬家との離縁やその後の消息不明によって、別の場所に埋葬された可能性も考えられます。

戸籍上は氏弘の妻は復縁に為に別れたし、子は養女になった後、1人暮らしになったのではと考えられます。死亡場所(安積郡日和田町高倉)は延命寺と保福寺に近いようですので、近いうちにFAXで照会することを考えています。

「有馬氏弘の華族家記」は、国立公文書館デジタルアーカイブに収蔵されている歴史資料です。具体的には、「華族家記・有馬氏弘、自慶応三年十月至明治元年十二月、一」という標題で登録されています。
これは、慶応3年(1867年)10月から明治元年(1868年)12月までの期間にわたる記録のようです。この時期は、日本の歴史における大きな転換点、つまり江戸幕府の終わりから明治新政府の成立にかけての激動の時代にあたります。残念ながら、この資料の具体的な内容や、有馬氏弘氏がどのような人物であったか、また華族としてどのような生活を送っていたかについての詳細な情報は、国立公文書館デジタルアーカイブの記載からは読み取れませんでした。
この「華族家記」は、当時の特定の華族に関する公文書や記録をまとめたものとして、当時の社会状況や華族制度に関する貴重な情報を含んでいる可能性があります。デジタルアーカイブを通じて、目録情報の検索やデジタル画像の閲覧が可能です。
この資料は「華族家記・有馬氏弘、自慶応三年十月至明治元年十二月、一」という標題で登録されており、慶応3年(1867年)10月から明治元年(1868年)12月までの期間の記録であることがわかります。
【「家記」とは何か】
「家記」とは、国立公文書館デジタルアーカイブにおいて「第七類 家記」として分類されている資料群の一部です。
・作成経緯: 明治6年(1873年)に皇城が炎上し、多くの記録が焼失しました。そのため、太政官から皇族や華族に対し、維新以降の家記、令達(お達し)、稟請(願い出)などの文書を謄写(書き写して提出)するように達しがありました。
・「有馬氏弘」の家記: この有馬氏弘氏の「華族家記」も、この時の太政官の達しを受けて提出されたものと考えられます。つまり、当時の有馬氏弘家が過去の記録をまとめて提出した歴史資料ということになります。
【 記録されている可能性のある内容】
標題の期間が慶応3年10月から明治元年12月であることから、当時の有馬氏弘が経験した具体的な出来事や、関わった事柄が記録されていると推測できます。この時期は、江戸幕府の終焉から明治新政府の誕生、戊辰戦争の勃発など、日本の歴史が大きく動いた激動の時代です。
【「華族家記」の目的】
有馬氏弘氏の著書「華族家記」は、主に明治時代に存在した「華族」という身分制度において、それぞれの家がどのような歴史を持ち、どのようにして華族に列せられたのかを記録し、後世に伝えることを目的としています。
【華族とは】
華族は、明治時代に日本の貴族として位置づけられた身分で、旧来の公家や大名家、また国家に功績のあった者などで構成されました。彼らは特別な地位と権利を持ち、日本の近代化において重要な役割を担っていました。
【記録の重要性】
「華族家記」には、単に系図を記すだけでなく、各家の来歴、功績、そして華族となるまでの経緯などが詳細に記されています。これは、当時の社会における華族の存在意義や、彼らが果たした役割を理解するための貴重な資料となります。有馬氏弘の家記作成の背景にある思想として、最も中心的だったのは中央集権国家の形成、歴史の継承と正当性の確立、そして身分制度の再編という三つの大きな流れです。
【中央集権国家の形成】
明治政府は、それまでの封建的な藩体制を解体し、天皇を中心とする強力な中央集権国家を築こうとしていました。その過程で、全国のあらゆる情報を把握し、管理することが不可欠でした。
・政府による情報の一元化: 諸藩がそれぞれ持っていた記録や情報の管理体制から、新政府が一元的に情報を掌握する体制への移行を目指していました。家記の提出要請は、かつての大名家や公家である華族が持つ情報を集約し、政府が管理下に置くための一環だったと言えます。
・富国強兵の基盤: 強固な国家を建設するためには、国内の資源や人材に関する正確な情報が必要でした。華族の家に関する情報は、社会構造を理解し、政策立案の基礎とする上で重要でした。
【 歴史の継承と正当性の確立】
明治維新という大転換期を経て、明治政府は自分たちの権力が正当であることを内外に示す必要がありました。そのためには、歴史を編纂し、その正当性を歴史の中に位置づけることが重要視されました。
・焼失した記録の復元: 明治6年(1873年)の皇城焼失は、政府にとって歴史的記録の喪失という痛手でした。この空白を埋め合わせるために、各家が持つ記録を再収集することは、失われた歴史を復元し、継承していくための緊急かつ重要な課題でした。
・維新の正統性確立: 華族の家記は、維新の過程で各家がどのように政府に協力し、あるいは恭順したかを記録するものでした。これにより、新政府は、自分たちの革命が旧体制の多くの支持を得て行われた合法的なものであるという歴史認識を確立しようとしたのです。これは、古代において国家の正統性を示すために『古事記』や『日本書紀』が編纂された思想と共通する部分があります。
【身分制度の再編と管理】
明治政府は、従来の士農工商という身分制度を廃止し、新たな身分制度として華族・士族・平民を設けました。この新しい身分制度を管理し、運用していく上でも、各家の詳細な情報が必要でした。
・華族としての位置付け: 華族は、新政府における特権的な上流階級として位置付けられました。家記の提出は、各家がこの新しい身分制度の中でどのような歴史を持ち、どのような実績を積んできたかを政府が確認し、華族としての地位を認定・管理するための基礎情報でもありました。
・身分維持の条件: 士族に学位記(卒業証書)が授与された際に、士族であるという族称が併記された例からもわかるように、明治初期には身分と個人の資格が密接に結びついていました。家記は、華族の家系維持や子孫の教育、さらには華族としての職務遂行能力といった側面を政府が評価するための情報となり得ました。これにより、華族という身分が単なる旧来の血筋だけでなく、政府への貢献や新しい時代への適応も求められるようになったと解釈できます。
このように、有馬氏弘の家記作成の背景には、単なる記録の収集にとどまらない、明治政府による国家運営の根幹に関わる思想があったと言えます。

投稿作成者

有馬則篤家の家督ですが、氏弘が継いでいるのでしょうか??
兄や弟、養子らは居なかったのでしょうか?

吉田 由起子

こんばんは。
戸籍上は、前戸主亡有馬三敬→戸主有馬氏弘と記載してあります。

投稿作成者

そうなんですね。
なら曹渓寺の墓を守る方は、氏弘の子か養子という事になるわけですね。

吉田 由起子

曹渓寺の墓を守る方は有馬氏弘の子か養子と言う事になるわけであるとのこと、戸籍上で氏弘の子は長男猛が早く亡くなられています。「有馬頼之」さんは旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継がれたことが分かっています。氏弘の弟がいるかどうか分かりませんが、残りは養子だと思います。

有馬頼之には、以下の3人のお子さんがいらっしゃいます。
【有馬頼之のお子さん】
• 有馬聰頼(ありま としより)
長男で、吉之助とも呼ばれ、子爵を継ぎました。
• 有馬宗嗣(ありま むねつぐ)
二男です。
• 慈光寺宗英(じこうじ むねひで)
三男で、慈光寺仲敏さんの養子となりました。
有馬頼之ご自身は、久留米藩主・有馬頼咸の七男として生まれ、旧吹上藩有馬家の養子となり家督を継ぎました。明治時代から大正時代にかけて貴族院子爵議員を務めた政治家でもあります。
【有馬頼之の政治家としての歩み】
• 貴族院子爵議員
1902年(明治35年)6月13日に貴族院子爵議員の補欠選挙で当選し、1917年(大正6年)5月1日に亡くなるまでその職を務めました。
会派としては「研究会」に所属していました。
• 華族
久留米藩主・有馬頼咸の七男として生まれ、旧吹上藩有馬家の養子となり、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵されました。
【 補足情報】
有馬家には、有馬頼之以外にも政治家として活躍された方がいらっしゃいます。 例えば、有馬頼寧(ありまよりやす)(有馬頼之から見ると甥にあたります)は、衆議院議員や貴族院議員、農林大臣などを歴任された政治家、農政学者です。有馬頼寧は、農民運動や部落解放運動を支援し、「革新華族」とも呼ばれました。彼の功績を称えて「有馬記念」という競馬のレースが設けられています。

有馬頼之の所属会派「研究会」とは「研究会」は、大日本帝国憲法下で設置されていた貴族院において、最も大きな勢力を持っていた会派の一つです。
【 貴族院「研究会」について】
• 貴族院最大の会派: 貴族院には様々な会派がありましたが、「研究会」は最大勢力を誇っていました。
• メンバー構成: 多くの勅選議員(天皇によって任命された議員)や多額納税者議員、そして子爵・男爵議員が会派に加わっていました。
• 影響力: 貴族院内で非常に大きな影響力を持っており、政府の政策決定にも深く関わることが多かった会派です。
有馬頼之の甥にあたる有馬頼寧も「研究会」に所属されていた時期があったことが確認できます。

有馬氏弘の養子である頼之は氏弘の遺骨を納骨しているかということを気になっていますが、頼之が、氏弘の遺骨を納骨されたかという情報は見当たりませんとのことでした。
調べましたところ、有馬頼之は旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継がれたことが分かっています。しかし、その養父が有馬氏弘であるという記述や、遺骨の納骨に関する情報は見つかりませんとのことでした。
吹上藩有馬家の墓所がある祥雲寺の関係者によると、有馬氏弘さんの遺骨は墓所にはなく、墓誌に名前があるにも関わらず、どのような事情で遺骨が見つからないのかは不明とのことです。
この情報からは、遺骨がどこに行ったのか、あるいはもともと納骨されていなかったのかどうかは判断できません。しかしながら祥雲寺にある有馬頼之の墓所があります。

有馬氏弘に遺骨がある安積郡の寺院についても、FAXや通訳電話が不通で、所在や状況の確認が進んでいない状態ですが、近いうちに手紙を出すのを考えています。有馬頼之は安積郡の寺院か東京の寺院に氏弘の遺骨を納骨していることを想像しています。

【 明治初期の有馬氏弘の波乱に満ちた生活】
有馬氏弘は、明治4年から明治9年の間に、彼の人生において重要な転換期を迎えました。
・廃藩置県と知藩事の免官
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により有馬氏弘は知藩事の職を免じられました。これにより、下野吹上藩主としての彼の役割は終わりを告げました。
・養母への家督譲渡と離縁
明治9年(1876年)12月14日、有馬氏弘は養母である鎮(瑶光院)に家督を譲り、有馬家との離縁をしています。これは彼の人生における大きな節目となりました。
・過去の事件への関与と拘留
明治10年(1877年)、有馬氏弘は知藩事在職中に家臣に重傷を負わせ、死に至らしめたとして拘留されることになります。これは、明治2年(1869年)に藩士が家老を殺傷した事件に彼自身も関わっていたためと推測されています。しかし、この事件から5年以上が経過していたため、処罰を免れました。

廃藩置県後の有馬氏弘は、まさに激動の時代を生きていたと言えるでしょう。
【廃藩置県後の有馬氏弘の生活】
廃藩置県により藩主の身分を失った有馬氏弘は、知藩事の職を免じられ、その後は複雑な状況に置かれました。
【士族としての新たな生活】
明治維新で廃藩置県が施行された明治4年(1871年)から、日本の社会構造は大きく変化しました。旧藩主たちは、かつてのような領地や権力を持つことはなくなりました。有馬氏弘も例外ではなく、吹上藩知藩事の地位を解かれた後は、多くの旧藩主がそうであったように、士族としての生活を送ることになりました。大久保利通や西郷隆盛、桐野利秋といった当時の要人たちも、この激動の時代の中心にいました。
家族との関係の変化
明治9年(1876年)には、養母へ家督を譲り、有馬家との離縁をしています。これは、これまで彼を支えてきた家族との関係にも大きな変化が生じたことを示しています。
【過去の事件による拘留】
明治10年(1877年)には、知藩事時代に関わった事件で拘留されるという、試練に直面しました。これは、廃藩置県後も、過去の出来事が彼の人生に影響を与え続けたことを物語っています。
これらの出来事から、廃藩置県後の有馬氏弘の生活は、これまでの藩主としての生活とは大きく異なり、不安定で波乱に満ちたものだったことが想像できます。

有馬氏弘は明治5年から明治8年迄にどんな生活を送ったかということを気になっていますが、
有馬氏弘の明治5年から明治8年までの具体的な生活については、残念ながら、提供された資料の中には、この期間の有馬氏弘氏の活動や生活に直接言及しているものはありませんでした。
しかし、明治時代初期という時代背景と、彼が廃藩置県後に知藩事を免じられた状況から、いくつかの推測はできます。
【明治初期の旧藩主たちの状況】
• 身分の変化: 廃藩置県(明治4年)で旧藩主たちは、それまでの領地と人民に対する支配権を失いました。有馬氏弘も例外ではなく、知藩事という公的な役割からは解放されたと考えられます。
• 東京への移住: 多くの旧藩主は、東京への移住を促され、新たな生活様式に適応する必要がありました。有馬氏弘も東京で生活をしていたことが分かっています。
• 華族としての立場: 旧藩主たちは華族という新たな身分を与えられましたが、その経済基盤はこれまでとは異なり、政府からの給与や旧藩からの家禄に頼ることが多くなりました。新たな事業を始めたり、投資を行ったりする者もいましたが、生活は多様化していたでしょう。
【家督譲渡と離縁の準備期間】
明治9年(1876年)には養母への家督譲渡と離縁が行われていますので、明治5年から明治8年までの期間は、そのような決断に至るまでの準備期間であったとも考えられます。自身の立場や今後の生き方について、深く考えていた時期だったのかもしれません。
【情報の限界】
現時点では、この期間の有馬氏弘氏の具体的な日記や交友関係、事業活動などの詳細な情報が確認できないため、一般的な旧藩主の生活からの推測となります。

【旧藩主は東京でどう暮らした?】
廃藩置県後、多くの旧藩主たちは東京での生活を余儀なくされましたが、その暮らしぶりは様々でした。
【東京への転居と住まい】
廃藩置県によって知藩事を免じられた旧藩主たちは、政府から東京への移住を命じられました。これは、新たな政府の下で中央集権体制を確立するための一環でした。
• 住居の確保: 東京には武士の屋敷が多く存在し、明治維新以前から人々が暮らしてきた歴史がありました。旧藩主たちは、これらの屋敷や新たに用意された邸宅で生活を始めました。中には、旧来の藩の施設を東京での滞在所として利用するケースもありました。
• 華族としての移行: 旧藩主たちは「華族」という身分を与えられ、新たなエリート層として東京での生活を送ることになりました。徳川慶喜のように、明治に入ってから公爵の爵位を得る者もいました。
【 経済状況と暮らし向き】
旧藩主たちの経済状況は一様ではありませんでしたが、一般的には政府からの俸禄や旧藩からの家禄によって生計を立てていました。
• 財産の活用: 旧藩主の中には、東京への移住に際して家財を売却したり、土地を献上したりする者もいました。これにより得た資金を元手に、新たな事業を始める者もいたようです。
• 生活様式の変化: かつての藩主時代とは異なり、政治的な権力は失われたものの、多くの旧藩主は引き続き一定の社会的地位と経済力を保ち、東京での生活を享受していました。例えば、勝海舟のような幕臣出身の人物も、明治政府の要職に就き、東京を拠点に活躍しました。

投稿作成者

なるほど。
ならは曹渓寺の墓に遺骨はあるべきでしょうが、それが無いのならば何等かの理由(災害等)で、
遺骨が失われたのかもしれませんね。

吉田 由起子

有馬氏弘の墓所は、東京都渋谷区広尾にある祥雲寺にあります。祥雲寺には、吹上藩有馬家の累代墓があり、有馬氏弘の石碑も存在します。祥雲寺には彼の名前が刻まれた石碑はあっても、彼の遺骨が個別に納骨されているかは不明瞭な状況です。有馬氏弘の遺骨は、有馬家との離縁やその後の消息不明によって、別の場所に埋葬された可能性も考えられます。
郡山市や本宮市周辺の複数の寺院に対して、FAXや手話電話で問い合わせが行われましたが、「有馬家(または氏弘)の墓所は確認できない」という返答が続いていました。
その後も郡山市湖南町三代の正福寺住職に「氏弘の遺骨があるか」を問い合わせましたが、正福寺・湖南町周辺の寺には可能性が低いとの回答がありました。
氏弘の死亡時の戸籍に書かれていた「安積郡山野井村高倉市日和田高倉」となっており、現在の「郡山市日和田町高倉」となっております。氏弘の死亡場所の周辺には保福寺(郡山市日和田町八丁目字)と延命寺(郡山市日和田町梅沢字)と西泉寺(郡山市喜久田町早稲原町)についても、FAXや手話電話が不通で所在や状況の確認が進んでいないですが、結局はお手紙を出すことにしました。
あまり期待できない気分です。もし氏弘の遺骨が見つからなかった場合には、遺骨がある墓所探しを打ち切りにすることを考えています。

現在、「有馬氏弘」さんの遺骨が見つからない理由については、残念ながら特定の情報は確認できませんでした。しかし、一般的な遺骨が見つからない、または残りにくい可能性のある理由としては、いくつか考えられます。
【遺骨が見つからない可能性のある理由】
1. 火葬に関する一般的な要因
・病気や薬の影響:高齢や特定の病気、長期にわたる薬の服用などにより、骨が弱くなっている場合があります。その場合、火葬後に残る遺骨が少なくなることがあります。
・骨の密度:指などの細い骨は燃えやすく灰になりやすい一方、大腿骨や頭蓋骨といった太く丈夫な骨は残りやすいとされています。もし故人の骨が全体的に細かったり、もろくなっていたりした場合は、全てが灰になってしまい、見つかりにくい可能性も考えられます。
・日本の高い火葬技術:日本の火葬技術は非常に高度で、火葬技師が炉内の温度を700度から900度の範囲で繊細に管理し、遺骨がきちんと残るよう調整しています。特別な事情がない限り、火葬で遺骨が全く残らないようなことは基本的にありませんが、骨が少ないケースは存在します。
2. 遺骨の引き取りの選択
・収骨しない選択:火葬後に遺族が遺骨を自宅に持ち帰らない(収骨しない)という選択をするケースも近年増えているようです。この場合、火葬場や自治体などに遺骨の処理を依頼することになります。
・墓所がない、または用意できない場合:お墓がないなどの理由で、遺骨の納骨先がないというケースもあります。このような場合、散骨したり、自宅で管理したりする選択肢もありますが、遺骨自体を引き取らないという判断に至ることも考えられます。
3. 歴史的な背景
・特定の時代の出来事や、個人の事情によっては、遺骨の行方が不明となるケースも残念ながら存在します。
ただし、遺骨の行方が不明であることは、個々の事情によって大きく異なりますので、上記はあくまで一般的な可能性としてあります。

投稿作成者

成程、氏弘は病気がちだった事もありますので、遺骨が残らなかった可能性もありますね。

吉田 由起子

【追記】
〈2025年7月21日記載の中からです。〉
遺骨の納骨等については、曹渓寺さんにお訪ねられるのが一番かとのことですが、曹渓寺へのFAXで問い合わせました。「頂いたFAXでもおっしゃられているとおり、有馬憲篤(三敬)殿は弊寺墓所に眠られているようです。しかしながら、氏弘殿に関しての記載は見つけることが出来ませんでしたので、おそらく弊寺の墓所にはおられないと考えられます。以上、お力になれずすみませんがご報告申し上げます」との回答を頂きました。また、寺院は過去帳をはじめ様々な情報を有しておりますが、近年寺院ではプライバシー保護と人権尊重の立場から、また、戒名などの情報から意図せずとも差別に加担してしまうことがあるため、ご親族といえども過去帳の情報を見せたり身元調査の依頼をするもお断りすることがありますとのことです。

曹渓寺にある墓所に有馬三敬の遺骨を納骨されたことは、彼の家族、特に彼の次男である氏弘(うじひろ)である可能性が高いと考えられます。
氏弘の養子である有馬頼之は祥雲寺にある墓所に氏弘の遺骨を何故か納骨しないかという疑問があります。

投稿作成者

これほど探して無いのであれば、別コメントの遺骨が残らなかった説も含め、
災害等で流されてしまったとか、遺言で散骨したとか、
何等かの原因で失われた可能性は高いのかもしれませんね。

既存記事の推敲

曹渓寺の過去帳をたどると、有馬三敬が亡くなった日として、明治三十年九月十八日の記載が見える。一方で、同じ資料には墓所が建立されたのは明治三十二年九月十八日と記されている。没日と建立日がきれいに二年ずれていることに気づいたとき、私はまず、このあいだの時間のことを考えざるをえなかった。誰が、いつ、どのようなかたちで遺骨を葬ったのか。この「二年の空白」は、三敬の晩年と、その跡を引き継いだ家族の姿を考えるうえで、避けて通れない手がかりになっている。正仙寺の過去帳を読み直すうちに、私は有馬三敬の没日と墓所建立日とのあいだに生じた二年のズレに目をとめた。明治三十年九月十八日に亡くなった三敬の墓所が、実際に建立されたのは明治三十二年九月十八日である。このあいだに、誰が家のあと始末をし、誰が三敬の遺骨を託されていたのかをたどると、自然と次男・氏弘の姿が浮かび上がってくる。

史料の読み解き方そのもの

有馬三敬の晩年を追う作業は、まず曹渓寺の過去帳を一枚ずつたどるところから始まった。そこには、明治三十年九月十八日の没日と、明治三十二年九月十八日の墓所建立日という、二つの日付が並んで記されている。一見すると単なる記録の羅列にすぎないが、この二年のズレをどう読むかによって、当時の家族の動きや、誰が納骨を担ったのかといった像が少しずつ立ち上がってくる。

有馬氏弘の遺骨が見つからないという事実には、いくつかの事情が重なっているように思われます。
有馬氏弘の墓所は、東京都渋谷区広尾の祥雲寺にあります。祥雲寺には吹上藩有馬家の累代墓が設けられており、その中には氏弘の名が刻まれた石碑も確認できます。
しかし、明治9年に氏弘は養母・鎮に家督を譲って隠居し、有馬家と離縁しました。その後は安積郡で暮らしていたことが分かるものの、その晩年のあり方や遺骨の行方は史料上はっきりしません。
さらに、祥雲寺では昭和29年の本堂火災ののち墓域が縮小され、現在は合葬墓の形に改められています。こうした経緯を踏まえると、広尾の祥雲寺に氏弘の名を刻んだ石碑が残っていても、氏弘の遺骨が個別の墓としてそこに安置されているかどうかは、もはや確かめがたいのが実情です。

氏弘は明治九年に養母・鎮へ家督を譲り、有馬家と離縁しました。その後は安積郡で暮らしたことが分かっており、戸籍上では、妻はいったん離別したうえで復縁を意図していたこと、子は養女となったのち、最終的には一人暮らしになったと考えられます。こうした事情を踏まえると、氏弘の遺骨は有馬家の累代墓とは別の場所に葬られた可能性も視野に入れざるをえません。

いっぽう、曹渓寺の墓を将来守る立場に立つのは、系譜の上では「氏弘の子、あるいはその養子」に当たる人びとです。戸籍に見える氏弘の子のうち、長男の猛は早くに亡くなっており、その後に有馬頼之が旧吹上藩有馬家の養子として家督を継いだことが分かっています。氏弘に実弟がいたかどうかは現時点では確認できませんが、頼之以降に曹渓寺の墓を守っていく男子の多くは、養子として家に入った人びとであったと考えられます。

有馬氏弘の墓所は、東京都渋谷区広尾にある祥雲寺にあります。祥雲寺には吹上藩有馬家の累代墓があり、その中に有馬氏弘の名を刻んだ石碑も確認できます。ただし、祥雲寺には氏弘の石碑こそ残っているものの、氏弘自身の遺骨が個別の墓として納骨されているかどうかは、現時点でははっきりしません。明治九年に氏弘は養母・鎮に家督を譲って有馬家と離縁し、その後は安積郡で暮らしたことが分かっています。このような経緯や、その後の消息が詳らかでないことを踏まえると、氏弘の遺骨は有馬家の累代墓とは別の場所に葬られた可能性も考えられます。

いっぽう、曹渓寺にある有馬三敬の墓所に遺骨を納めたのは、当時の家督継承や葬送の慣行から見て、三敬の次男であった氏弘が中心的な役割を果たした可能性が高いと思われます。

氏弘の養子である有馬頼之は、のちに祥雲寺にある吹上藩有馬家の墓所に連なる家督を継いでいきますが、それにもかかわらず、氏弘自身の遺骨がなぜ祥雲寺の累代墓に納められなかったのかという点には、大きな疑問が残ります。

有馬三敬の没年月日と墓所の建立年月日を照らし合わせると、そのあいだにおよそ二年の時間差があることがわかります。三敬は明治三十年十月三日に亡くなり、墓所の建立は明治三十二年九月十八日と記されています。この「二年の空白」は、誰がどのような事情のもとで納骨と墓所の整備を担ったのかという点を考える手がかりになります。

当時の慣行からすると、故人の葬送や墓所の建立は、原則として家督を継ぐ者が中心となって行うことが一般的でした。有馬三敬の場合、その立場にあったのは次男の有馬氏弘でした。戸籍や関係史料からは、氏弘が養母・鎮に家督を譲る以前には三敬の跡継ぎとして位置づけられていたことがうかがえます。こうした事情を踏まえると、明治三十年の死去から明治三十二年の墓所建立に至る過程で、三敬の遺骨を曹渓寺の墓所に納め、墓石の建立を具体的に進めたのは、氏弘であった可能性が高いと考えられます。

もっとも、氏弘自身の墓所と遺骨の行方をたどると、状況はより複雑になります。氏弘の墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺にあり、吹上藩有馬家の累代墓の中に氏弘の名を刻んだ石碑が残されています。ただし、この石碑が示すのはあくまで「名」であって、氏弘の遺骨が個別の墓としてそこに納骨されているかどうかは明らかではありません。氏弘は明治九年に養母・鎮へ家督を譲って有馬家と離縁し、その後は安積郡で暮らしていたことが分かりますが、晩年の消息や具体的な埋葬地については、現時点の資料からは確定できません。こうした経緯を考えると、氏弘の遺骨は、三敬とは別の場所に葬られた可能性も否定できません。

いっぽうで、氏弘の養子である有馬頼之は、旧吹上藩有馬家の養子として家督を継ぎ、広尾の祥雲寺に連なる累代墓を引き継いだ人物でした。本来であれば、家督を継いだ頼之が、先代である氏弘の遺骨を祥雲寺の墓所に納め、祖先とともに祀ることも考えられます。しかし実際には、祥雲寺の累代墓に氏弘の個別の墓所は確認できず、頼之がなぜ氏弘の遺骨をそこに納骨しなかったのかという点には、大きな問いが残されます。

三敬の墓所に見られる「二年の空白」と、跡継ぎとして三敬の葬送を担ったとみられる氏弘。そして、のちに家督を継いだ頼之が氏弘の遺骨をどこに祀らなかったのかという謎。この三つの関係をたどることは、有馬家の墓所と家督継承のあり方を、明治から昭和にかけての時間の中で考えるための一つの手がかりになるように思われます。

もっとも、氏弘の遺骨がなぜ祥雲寺の累代墓に納められなかったのかについて、現時点で裏づけとなる史料は確認できていない。そのため、以下に挙げるのは、いずれも限られた材料から導かれる仮説の域を出ない。

一つは、氏弘が有馬家と離縁したのち、安積郡での生活に重心を移し、その土地で埋葬と供養が完結していた可能性である。この場合、祥雲寺の石碑はあくまで名義上の記念として残され、遺骨そのものは別の墓所に葬られたことになる。

もう一つは、昭和二十九年の本堂火災とその後の墓域縮小の過程で、有馬家の墓地が合葬化されるなか、氏弘の遺骨が個別の墓石から切り離され、現在では判別できなくなっている可能性である。祥雲寺では、久留米藩主有馬家や吹上藩主有馬家を含む諸大名家の墓地が一部合葬墓として整理されたことが伝えられている。(copperdentalclinic.blog.fc2.com)

さらに、家督を継いだ頼之以降の当主たちが、離縁した先代である氏弘を累代墓に加えることに慎重であったという、家内の事情が作用した可能性も否定はできない。ただし、この点については、関係者の書き残した記録などが見つからない限り、現段階で踏み込んだ推測を行うことは控えるべきだろう。

こうして三敬の没年月日と墓所建立の日付を見比べると、明治三十年十月の死去から、明治三十二年九月の墓所完成までには、決して短くはない時間の隔たりがあったことがわかる。この二年のあいだに、跡継ぎであった氏弘が中心となって遺骨の納骨と墓石の建立を進めたと考えるのが自然だが、その一方で、のちに家督を継いだ頼之が、先代である氏弘自身の遺骨を広尾の祥雲寺に納めなかったという事実もまた浮かび上がってくる。三敬の墓所に刻まれた二つの日付は、有馬家の家督と墓所の継承をめぐって、系譜だけではとらえきれない事情が横たわっていた可能性を、静かに示しているように思われる。

氏弘の遺骨がどこに葬られたのかという問題について、現時点で確実に言えることは多くない。東京都渋谷区広尾の祥雲寺には、吹上藩有馬家の累代墓があり、その一角に有馬氏弘の名を刻んだ石碑が残されている。しかし、祥雲寺の墓地は昭和二十九年の本堂火災後に墓域が縮小され、一部は合葬墓として整理されていることが知られており、現在この石碑の下に氏弘の遺骨が個別に納骨されているかどうかは明らかではない。(shouunji.or.jp)

こうした事情に加え、氏弘が明治九年に養母・鎮へ家督を譲って有馬家と離縁し、その後は安積郡で暮らしていたことを踏まえると、氏弘の遺骨についてはいくつかの可能性を考えざるをえない。一つは、氏弘が生涯の後半を送った安積郡のどこかに葬られ、遺骨もそこで完結しているという可能性である。この場合、広尾の祥雲寺に残る石碑は、有馬家の系譜上の名をとどめる「記念」としての性格が強かったことになるだろう。

もう一つは、広尾の祥雲寺において、昭和期の墓域整理と合葬化の過程で、氏弘の遺骨が他の先祖の遺骨とともに一堂にまとめられ、個別の墓石との対応関係が現在では失われているという可能性である。久留米藩主有馬家と吹上藩主有馬家の墓地群については、本堂火災と復興を契機に一部の遺骨を合葬墓に集め、残りの墓所を一般に開放した経緯が伝えられており、氏弘の遺骨もその流れの中で扱われた可能性を完全に退けることはできない。(copperdentalclinic.blog.fc2.com)

さらに、家督を継いだ頼之以降の当主たちが、離縁した先代である氏弘をあえて累代墓に加えなかったという、家の内側の判断が働いていた可能性も想像される。ただし、この点については関係者の書き残した証言などが見つからないかぎり、これ以上踏み込んだ推測を行うのは慎重であるべきだろう。

いずれにしても、三敬の墓所における「二年の空白」を埋める役割を担ったと見られる氏弘自身の遺骨が、いまどこに眠っているのかという問いは、安積郡での最晩年の暮らしと重ね合わせて考える必要がある。その視点から、次に氏弘の晩年と安積郡での生活の手がかりを見ていきたい。

📖 第1章 三敬と「二年の空白」

  • 明治30年10月3日の有馬三敬の死去と、明治32年9月18日の墓所建立という二つの日付を提示する。
  • 曹渓寺の墓碑・墓所の記録を押さえ、「二年の空白」という時間差に注目する。
  • 当時の家督継承と葬送の慣行から、跡継ぎであった氏弘が、父の遺骨の納骨と墓石建立を担った可能性を静かに考察する。
  • 結びで「しかし、氏弘自身の遺骨には別の謎が残る」と示し、第2章につなぐ。

🪦 第2章 祥雲寺と石碑・遺骨の問題

  • 渋谷区広尾の祥雲寺にある吹上藩有馬家の累代墓と、有馬氏弘の名を刻んだ石碑の存在を紹介する。
  • 石碑は確認できる一方で、氏弘の遺骨が個別に納骨されているかどうかは不明瞭であることを示す。
  • 昭和29年の本堂火災と、その後の墓域縮小・合葬化の経緯に触れつつ、
    「広尾で合葬墓に紛れた可能性」「安積郡で完結した可能性」など、いくつかの仮説を控えめに整理する。
  • 家督を継いだ有馬頼之が、なぜ氏弘の遺骨を祥雲寺の累代墓に納めなかったのかという点について、「何らかの事情があったと考えられる」と示し、第3章への橋渡しとする。

🌾 第3章 安積郡での晩年

  • 有馬家と離縁したのち、氏弘が安積郡で暮らしたことを、安積開拓・安積疏水・士族授産の歴史と重ねて描く。(bunka-manabi.or.jp)
  • 当時の安積原野が、士族たちの移住と開墾の地として選ばれ、猪苗代湖からの水を引く安積疏水事業とともに開かれていった過程を簡潔に紹介する。(maff.go.jp)
  • その中で氏弘がどのような生活を送り、どのような形で「終の棲家」を得たのかを、戸籍や系譜、郷土資料から拾える範囲で描写する。(i-manabi.jp)

最後に、「三敬の墓を整えた跡継ぎである氏弘の遺骨が、いまどこに眠るのか」という問いを、広尾の累代墓と安積郡という二つの土地にまたがる記憶としてまとめる。

第1章 三敬の墓と「二年の空白」

三敬の没年と曹渓寺の墓所

有馬三敬の没年月日と墓所については、まず日付の確認から始めることにした。史料によれば、三敬は明治三十年十月三日に亡くなっている。一方で、墓所の側に刻まれている建立の日付は、明治三十二年九月十八日である。
同じ人物について「明治三十年没」「明治三十二年建之」という二つの日付が並ぶとき、そのあいだの時間に何があったのかを考えざるをえない。私自身、最初にこの二つの日付を書き出してみたとき、その約二年の隔たりが目に留まり、そこに小さな「空白」のようなものを感じた。

曹渓寺における三敬の墓所は、石碑の銘文や台座の刻字から、没年月日と建立年月日が別々に記録されていることがわかる。こうした「没日」と「建之日」のずれ自体は、近代以降の墓制では決して珍しいものではない。葬送と仮埋葬が先行し、その後に改めて正式な墓石を立てるという手順がとられることも多かったからである。ただし、ここで問題にしたいのは、単に日付が二年ずれているという事実そのものではない。この二年間に、誰がどのような役割を担い、どのような事情が働いていたのかという点である。

「二年の空白」をめぐる考察

明治三十年十月の没日と、明治三十二年九月の建立日。そのあいだに横たわる約二年の「空白」を埋めるためには、当時の家督継承と葬送の慣行を手がかりにする必要がある。一般に、近代初頭の華族や旧大名家においては、故人の葬送と墓所の整備は、家督を継ぐ者が中心となって取り仕切るのが通例であった。喪主として葬儀を執り行い、菩提寺と相談しながら墓所の位置と形を定め、石工に墓碑の造立を依頼する。そうした一連の手続きは、単なる実務であると同時に、「跡継ぎ」の役割そのものでもあった。

有馬三敬の場合、この役目を担うべき立場にあったのは、次男の有馬氏弘である。氏弘は、養母・鎮に家督を譲る以前には三敬の嫡子として位置づけられており、三敬の没年当時も、形式上は跡継ぎとしての立場にあったと考えられる。明治三十年十月の三敬の死去から、明治三十二年九月の墓所建立に至るまでのあいだに、曹渓寺の墓地において三敬の遺骨を納め、正式な墓石を立てる作業を具体的に進めたのは、やはり氏弘であった可能性が高いだろう。

二年という期間は、葬送の実務を遂行するには決して短くはないが、当主の死去に伴う諸手続きや、菩提寺との調整、墓地の選定、石材の手配などを含めれば、不自然に長いと断じるほどのものでもない。むしろ、この二年のあいだに、三敬の死去後の有馬家の体制を整えつつ、曹渓寺における墓所の形を固めていったと見る方が、全体の流れとしては納まりがよいように思われる。

跡継ぎとしての氏弘の役割

こうして見ると、「二年の空白」は、単なる時間的なずれではなく、跡継ぎとしての氏弘が三敬の葬送と墓所の整備を担った期間として、一定の意味を帯びてくる。戸籍や関係史料からうかがえる範囲では、氏弘はこの時点でまだ有馬家を離れておらず、三敬の後継として家の内外に認められていた。曹渓寺における三敬の墓所は、そのような氏弘の立場のもとで、父の遺骨を納める場所として整えられたと考えられる。

私自身、曹渓寺の墓碑に刻まれた没日と建立日を前にしたとき、そこに父の死を受けとめ、墓を整えるまでの、息子としての時間の重さを感じた。二年という年月は、当主を失った家が新たな体制を模索するには短くなく、また、菩提寺とともに永代の墓所を定めるには必要な猶予でもあっただろう。その時間を通じて、氏弘は跡継ぎとして三敬の遺骨を曹渓寺に納め、石碑を建立するという役目を果たしたとみることができる。

もっとも、ここで一つの問いが浮かび上がる。三敬の墓所に見られる二つの日付は、跡継ぎとしての氏弘の働きを静かに物語っているように見える一方で、その氏弘自身の遺骨が、のちに有馬家の累代墓として整えられる広尾の祥雲寺には、個別の墓として確認できないからである。三敬の墓を整えた跡継ぎが、自身はどこに眠っているのか。このねじれは、第2章であらためて取り上げることにしたい。

第2章 広尾・祥雲寺と氏弘の墓所

吹上藩有馬家累代墓としての祥雲寺

有馬三敬の墓所が曹渓寺にあるのに対し、江戸以来の「有馬家の菩提寺」として長く機能してきたのが、渋谷区広尾にある祥雲寺である。祥雲寺は臨済宗の寺院で、福岡藩主黒田家、久留米藩主有馬家、吹上藩主有馬家など、諸大名家の墓地群を抱える寺として知られている。寺の案内にも「久留米藩主有馬家、吹上藩主有馬家」をはじめとする大名家の墓地が境内にあることが明記されており、江戸時代以来、有馬家の一族がここを江戸菩提寺としてきたことがうかがえる。(shouunji.or.jp)

近現代に入ってからも、祥雲寺は有馬伯爵家の墓地として位置づけられ続けた。久留米藩主有馬家の墓地を紹介する記録によれば、かつて祥雲寺の境内には千坪におよぶ有馬家墓地が広がり、九十基にのぼる墓石が並んでいたという。(copperdentalclinic.blog.fc2.com) そこには本家筋にあたる久留米藩主家だけでなく、吹上藩有馬家の一族の墓石も含まれていたとされる。

このように、場所という観点から見ると、広尾の祥雲寺は「有馬家の一族の墓が集められた場」であり、三敬や氏弘の系譜もまた、この空間の中に連なっていたと考えられる。

石碑に刻まれた氏弘の名

氏弘の墓所についても、まずはこの祥雲寺から見ていく必要がある。調査の過程で確認できるかぎりでは、祥雲寺の有馬家墓地の一角に、吹上藩有馬家の人びとの墓石がまとまっており、その中に「有馬氏弘」の名を刻んだ石碑が含まれている。ここで重要なのは、この石碑が「有馬氏弘」という個人名を確かに伝えている一方で、その下に氏弘の遺骨が個別に納められているのかどうか、現時点でははっきりしないという点である。

第1章で見たように、三敬の墓碑は曹渓寺にあって、没年月日と建立年月日をともに刻み、その下に三敬の遺骨が納められていると理解してよい構造になっていた。ところが、広尾の祥雲寺における氏弘の石碑は、少なくとも現在の墓域の姿から見るかぎり、「名を伝える標」としての性格が強く、遺骨と一対一に結びついた個別墓であると断定することは難しい。

昭和二十九年の火災と墓域の縮小

この不確かさの背景には、祥雲寺の墓域が近年に至るまでにたどってきた変化が関わっている。広尾の祥雲寺墓地を訪ねた記録によれば、有馬家の墓地はかつて千坪・九十基におよぶ規模で存在していたが、昭和二十九年に本堂が火災に遭ったことを契機として、墓域の大幅な整理が行われたという。その際、先代頼寧をはじめとする先祖の遺骨は一堂に集めて合葬墓に納め、残りの墓地は一般に開放する方針がとられたことが、現地案内板の要約からうかがえる。(copperdentalclinic.blog.fc2.com)

この経緯を踏まえると、現在の祥雲寺に残る有馬家の墓石群は、「かつてあった千坪・九十基」の墓所のごく一部であり、遺骨の多くは合葬墓の内部にまとめられていると考えられる。その中に、氏弘の遺骨もまた含まれているのか、それともそもそも別の場所に葬られたのか。この点が、第2章以降で検討していくべき課題となる。

第3章冒頭ドラフト(事実から情景へ)

有馬氏弘の晩年を追う手がかりは、戸籍と郷土史料の中に点々と残されている。そこから見えてくるのは、氏弘が明治九年に養母・鎮へ家督を譲って有馬家を離れたのち、福島県安積郡へと生活の場を移していったという事実である。
明治政府は、秩禄処分によって収入を失った士族たちの授産と殖産興業を目的として、各地で開墾事業を進めていた。そのうち安積開拓は、明治六年にはじまる原野の開墾と、のちの安積疏水事業を柱とした国営の事業であり、久留米を含む九つの藩からおよそ二千人の士族が安積原野に入植したと記録されている。安積郡対面原などの原野は、もともと入会地として利用されていた草地や原野であり、そこに各藩の開墾社が新たな集落をつくり出していった。(nta.go.jp)

氏弘が移り住んだ安積郡も、まさにこうした「士族の第二の人生の舞台」のひとつであった。久留米からの入植者たちは、郡山の北方に広がる対面原などに久留米開墾社を組織して入り、開墾地の一角に住居と畑を備えた小さな屋敷地を築いている。安積原野の開拓は、夏は暑く冬は厳しい寒さにさらされる土地で、慣れない農作業に従事した士族たちの多くが苦しい生活を強いられたことが、各藩の開拓誌にくり返し記されている。(crd.ndl.go.jp)

そうした安積郡の一角に、かつては江戸の有馬家で跡継ぎとされた氏弘もまた、他の士族たちと同じように小さな屋敷地を与えられ、農具を握り、風の強い原野の中で一日の仕事を始めていたはずである。戸籍の紙の上では「平民」として再び登録された氏弘が、どのような思いで鍬を入れ、どのような暮らしぶりで晩年を送っていたのか。その具体的な姿は史料の行間からしかうかがえないが、当時の安積開拓の記録を手がかりに、その日々を少しずつ描き起こしてみたい。

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