氏弘の華族時代 ― 史料空白にひらく皇都の静かな日常

廃藩置県ののち、曾祖父有馬氏弘は東京在住の華族として名を連ねるようになる。しかし、華族名簿などの記録をたどっても、その「華族時代」の具体的な職務や日々の暮らしを示す史料は、驚くほど少ない。むしろ広がっているのは、ぽっかりとした史料空白である。本稿では、その空白そのものを見つめながら、同時代の華族たちの足跡に重ねて、皇都に暮らした氏弘の静かな日常をそっと描き出してみたい。

吉田 由起子

有馬則篤は明治30年10月3日に亡くなられています。そして、墓所が建立されたのが明治32年9月18日と記入していることを見ました。。亡くなった日と墓所の建立日がずれていると、誰が納骨したのか気になっていますが、この期間の状況から考えると、納骨を行ったのは彼の家族、特に彼の次男である氏弘(うじひろ)である可能性が高いと考えられます。当時の習慣として、故人の埋葬や供養は家督を継ぐ立場の者が中心となって行うことが一般的でした。氏弘は有馬則篤の次男であり、有馬家の後継者として、亡くなった父の納骨や墓石の建立に携わったと考えられます。

有馬氏弘の遺骨が見つからないことは、少し複雑な事情があるようです。
【 有馬氏弘の墓所と消息】
有馬氏弘の墓所は、東京都渋谷区広尾にある祥雲寺にあります。祥雲寺には、吹上藩有馬家の累代墓があり、有馬氏弘の石碑も存在します。しかし、明治9年(1876年)に氏弘は養母・鎮に家督を譲って隠居し、有馬家と離縁しています。この出来事の後、氏弘が安積郡で暮らしていたということが分かっています。その後の消息は不明とされています。祥雲寺の墓地は、昭和29年の本堂火災後、墓域を縮小し、合葬墓となっているようです。これらのことから、祥雲寺には彼の名前が刻まれた石碑はあっても、彼の遺骨が個別に納骨されているかは不明瞭な状況です。有馬氏弘の遺骨は、有馬家との離縁やその後の消息不明によって、別の場所に埋葬された可能性も考えられます。

戸籍上は氏弘の妻は復縁に為に別れたし、子は養女になった後、1人暮らしになったのではと考えられます。死亡場所(安積郡日和田町高倉)は延命寺と保福寺に近いようですので、近いうちにFAXで照会することを考えています。

「有馬氏弘の華族家記」は、国立公文書館デジタルアーカイブに収蔵されている歴史資料です。具体的には、「華族家記・有馬氏弘、自慶応三年十月至明治元年十二月、一」という標題で登録されています。
これは、慶応3年(1867年)10月から明治元年(1868年)12月までの期間にわたる記録のようです。この時期は、日本の歴史における大きな転換点、つまり江戸幕府の終わりから明治新政府の成立にかけての激動の時代にあたります。残念ながら、この資料の具体的な内容や、有馬氏弘氏がどのような人物であったか、また華族としてどのような生活を送っていたかについての詳細な情報は、国立公文書館デジタルアーカイブの記載からは読み取れませんでした。
この「華族家記」は、当時の特定の華族に関する公文書や記録をまとめたものとして、当時の社会状況や華族制度に関する貴重な情報を含んでいる可能性があります。デジタルアーカイブを通じて、目録情報の検索やデジタル画像の閲覧が可能です。
この資料は「華族家記・有馬氏弘、自慶応三年十月至明治元年十二月、一」という標題で登録されており、慶応3年(1867年)10月から明治元年(1868年)12月までの期間の記録であることがわかります。
【「家記」とは何か】
「家記」とは、国立公文書館デジタルアーカイブにおいて「第七類 家記」として分類されている資料群の一部です。
・作成経緯: 明治6年(1873年)に皇城が炎上し、多くの記録が焼失しました。そのため、太政官から皇族や華族に対し、維新以降の家記、令達(お達し)、稟請(願い出)などの文書を謄写(書き写して提出)するように達しがありました。
・「有馬氏弘」の家記: この有馬氏弘氏の「華族家記」も、この時の太政官の達しを受けて提出されたものと考えられます。つまり、当時の有馬氏弘家が過去の記録をまとめて提出した歴史資料ということになります。
【 記録されている可能性のある内容】
標題の期間が慶応3年10月から明治元年12月であることから、当時の有馬氏弘が経験した具体的な出来事や、関わった事柄が記録されていると推測できます。この時期は、江戸幕府の終焉から明治新政府の誕生、戊辰戦争の勃発など、日本の歴史が大きく動いた激動の時代です。
【「華族家記」の目的】
有馬氏弘氏の著書「華族家記」は、主に明治時代に存在した「華族」という身分制度において、それぞれの家がどのような歴史を持ち、どのようにして華族に列せられたのかを記録し、後世に伝えることを目的としています。
【華族とは】
華族は、明治時代に日本の貴族として位置づけられた身分で、旧来の公家や大名家、また国家に功績のあった者などで構成されました。彼らは特別な地位と権利を持ち、日本の近代化において重要な役割を担っていました。
【記録の重要性】
「華族家記」には、単に系図を記すだけでなく、各家の来歴、功績、そして華族となるまでの経緯などが詳細に記されています。これは、当時の社会における華族の存在意義や、彼らが果たした役割を理解するための貴重な資料となります。

有馬氏弘の家記作成の背景にある思想として、最も中心的だったのは中央集権国家の形成、歴史の継承と正当性の確立、そして身分制度の再編という三つの大きな流れです。
【中央集権国家の形成】
明治政府は、それまでの封建的な藩体制を解体し、天皇を中心とする強力な中央集権国家を築こうとしていました。その過程で、全国のあらゆる情報を把握し、管理することが不可欠でした。
・政府による情報の一元化: 諸藩がそれぞれ持っていた記録や情報の管理体制から、新政府が一元的に情報を掌握する体制への移行を目指していました。家記の提出要請は、かつての大名家や公家である華族が持つ情報を集約し、政府が管理下に置くための一環だったと言えます。
・富国強兵の基盤: 強固な国家を建設するためには、国内の資源や人材に関する正確な情報が必要でした。華族の家に関する情報は、社会構造を理解し、政策立案の基礎とする上で重要でした。
【 歴史の継承と正当性の確立】
明治維新という大転換期を経て、明治政府は自分たちの権力が正当であることを内外に示す必要がありました。そのためには、歴史を編纂し、その正当性を歴史の中に位置づけることが重要視されました。
・焼失した記録の復元: 明治6年(1873年)の皇城焼失は、政府にとって歴史的記録の喪失という痛手でした。この空白を埋め合わせるために、各家が持つ記録を再収集することは、失われた歴史を復元し、継承していくための緊急かつ重要な課題でした。
・維新の正統性確立: 華族の家記は、維新の過程で各家がどのように政府に協力し、あるいは恭順したかを記録するものでした。これにより、新政府は、自分たちの革命が旧体制の多くの支持を得て行われた合法的なものであるという歴史認識を確立しようとしたのです。これは、古代において国家の正統性を示すために『古事記』や『日本書紀』が編纂された思想と共通する部分があります。
【身分制度の再編と管理】
明治政府は、従来の士農工商という身分制度を廃止し、新たな身分制度として華族・士族・平民を設けました。この新しい身分制度を管理し、運用していく上でも、各家の詳細な情報が必要でした。
・華族としての位置付け: 華族は、新政府における特権的な上流階級として位置付けられました。家記の提出は、各家がこの新しい身分制度の中でどのような歴史を持ち、どのような実績を積んできたかを政府が確認し、華族としての地位を認定・管理するための基礎情報でもありました。
・身分維持の条件: 士族に学位記(卒業証書)が授与された際に、士族であるという族称が併記された例からもわかるように、明治初期には身分と個人の資格が密接に結びついていました。家記は、華族の家系維持や子孫の教育、さらには華族としての職務遂行能力といった側面を政府が評価するための情報となり得ました。これにより、華族という身分が単なる旧来の血筋だけでなく、政府への貢献や新しい時代への適応も求められるようになったと解釈できます。
このように、有馬氏弘の家記作成の背景には、単なる記録の収集にとどまらない、明治政府による国家運営の根幹に関わる思想があったと言えます。

吉田 由起子

曹渓寺の墓を守る方は有馬氏弘の子か養子と言う事になるわけであるとのこと、戸籍上で氏弘の子は長男猛が早く亡くなられています。「有馬頼之」さんは旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継がれたことが分かっています。氏弘の弟がいるかどうか分かりませんが、残りは養子だと思います。

有馬頼之には、以下の3人のお子さんがいらっしゃいます。
【有馬頼之のお子さん】
• 有馬聰頼(ありま としより)
長男で、吉之助とも呼ばれ、子爵を継ぎました。
• 有馬宗嗣(ありま むねつぐ)
二男です。
• 慈光寺宗英(じこうじ むねひで)
三男で、慈光寺仲敏さんの養子となりました。
有馬頼之ご自身は、久留米藩主・有馬頼咸の七男として生まれ、旧吹上藩有馬家の養子となり家督を継ぎました。明治時代から大正時代にかけて貴族院子爵議員を務めた政治家でもあります。
【有馬頼之の政治家としての歩み】
• 貴族院子爵議員
1902年(明治35年)6月13日に貴族院子爵議員の補欠選挙で当選し、1917年(大正6年)5月1日に亡くなるまでその職を務めました。
会派としては「研究会」に所属していました。
• 華族
久留米藩主・有馬頼咸の七男として生まれ、旧吹上藩有馬家の養子となり、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵されました。
【 補足情報】
有馬家には、有馬頼之以外にも政治家として活躍された方がいらっしゃいます。 例えば、有馬頼寧(ありまよりやす)(有馬頼之から見ると甥にあたります)は、衆議院議員や貴族院議員、農林大臣などを歴任された政治家、農政学者です。有馬頼寧は、農民運動や部落解放運動を支援し、「革新華族」とも呼ばれました。彼の功績を称えて「有馬記念」という競馬のレースが設けられています。

有馬頼之の所属会派「研究会」とは「研究会」は、大日本帝国憲法下で設置されていた貴族院において、最も大きな勢力を持っていた会派の一つです。
【 貴族院「研究会」について】
• 貴族院最大の会派: 貴族院には様々な会派がありましたが、「研究会」は最大勢力を誇っていました。
• メンバー構成: 多くの勅選議員(天皇によって任命された議員)や多額納税者議員、そして子爵・男爵議員が会派に加わっていました。
• 影響力: 貴族院内で非常に大きな影響力を持っており、政府の政策決定にも深く関わることが多かった会派です。
有馬頼之の甥にあたる有馬頼寧も「研究会」に所属されていた時期があったことが確認できます。

有馬氏弘の養子である頼之は氏弘の遺骨を納骨しているかということを気になっていますが、頼之が、氏弘の遺骨を納骨されたかという情報は見当たりませんとのことでした。
調べましたところ、有馬頼之は旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継がれたことが分かっています。しかし、その養父が有馬氏弘であるという記述や、遺骨の納骨に関する情報は見つかりませんとのことでした。
吹上藩有馬家の墓所がある祥雲寺の関係者によると、有馬氏弘さんの遺骨は墓所にはなく、墓誌に名前があるにも関わらず、どのような事情で遺骨が見つからないのかは不明とのことです。
この情報からは、遺骨がどこに行ったのか、あるいはもともと納骨されていなかったのかどうかは判断できません。しかしながら祥雲寺にある有馬頼之の墓所があります。

有馬氏弘に遺骨がある安積郡の寺院についても、FAXや通訳電話が不通で、所在や状況の確認が進んでいない状態ですが、近いうちに手紙を出すのを考えています。有馬頼之は安積郡の寺院か東京の寺院に氏弘の遺骨を納骨していることを想像しています。

【 明治初期の有馬氏弘の波乱に満ちた生活】
有馬氏弘は、明治4年から明治9年の間に、彼の人生において重要な転換期を迎えました。
・廃藩置県と知藩事の免官
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により有馬氏弘は知藩事の職を免じられました。これにより、下野吹上藩主としての彼の役割は終わりを告げました。
・養母への家督譲渡と離縁
明治9年(1876年)12月14日、有馬氏弘は養母である鎮(瑶光院)に家督を譲り、有馬家との離縁をしています。これは彼の人生における大きな節目となりました。
・過去の事件への関与と拘留
明治10年(1877年)、有馬氏弘は知藩事在職中に家臣に重傷を負わせ、死に至らしめたとして拘留されることになります。これは、明治2年(1869年)に藩士が家老を殺傷した事件に彼自身も関わっていたためと推測されています。しかし、この事件から5年以上が経過していたため、処罰を免れました。

廃藩置県後の有馬氏弘は、まさに激動の時代を生きていたと言えるでしょう。
【廃藩置県後の有馬氏弘の生活】
廃藩置県により藩主の身分を失った有馬氏弘は、知藩事の職を免じられ、その後は複雑な状況に置かれました。
【士族としての新たな生活】
明治維新で廃藩置県が施行された明治4年(1871年)から、日本の社会構造は大きく変化しました。旧藩主たちは、かつてのような領地や権力を持つことはなくなりました。有馬氏弘も例外ではなく、吹上藩知藩事の地位を解かれた後は、多くの旧藩主がそうであったように、士族としての生活を送ることになりました。大久保利通や西郷隆盛、桐野利秋といった当時の要人たちも、この激動の時代の中心にいました。
家族との関係の変化
明治9年(1876年)には、養母へ家督を譲り、有馬家との離縁をしています。これは、これまで彼を支えてきた家族との関係にも大きな変化が生じたことを示しています。
【過去の事件による拘留】
明治10年(1877年)には、知藩事時代に関わった事件で拘留されるという、試練に直面しました。これは、廃藩置県後も、過去の出来事が彼の人生に影響を与え続けたことを物語っています。
これらの出来事から、廃藩置県後の有馬氏弘の生活は、これまでの藩主としての生活とは大きく異なり、不安定で波乱に満ちたものだったことが想像できます。

有馬氏弘は明治5年から明治8年迄にどんな生活を送ったかということを気になっていますが、
有馬氏弘の明治5年から明治8年までの具体的な生活については、残念ながら、提供された資料の中には、この期間の有馬氏弘氏の活動や生活に直接言及しているものはありませんでした。

しかし、明治時代初期という時代背景と、彼が廃藩置県後に知藩事を免じられた状況から、いくつかの推測はできます。
【明治初期の旧藩主たちの状況】
• 身分の変化: 廃藩置県(明治4年)で旧藩主たちは、それまでの領地と人民に対する支配権を失いました。有馬氏弘も例外ではなく、知藩事という公的な役割からは解放されたと考えられます。
• 東京への移住: 多くの旧藩主は、東京への移住を促され、新たな生活様式に適応する必要がありました。有馬氏弘も東京で生活をしていたことが分かっています。
• 華族としての立場: 旧藩主たちは華族という新たな身分を与えられましたが、その経済基盤はこれまでとは異なり、政府からの給与や旧藩からの家禄に頼ることが多くなりました。新たな事業を始めたり、投資を行ったりする者もいましたが、生活は多様化していたでしょう。
【家督譲渡と離縁の準備期間】
明治9年(1876年)には養母への家督譲渡と離縁が行われていますので、明治5年から明治8年までの期間は、そのような決断に至るまでの準備期間であったとも考えられます。自身の立場や今後の生き方について、深く考えていた時期だったのかもしれません。
【情報の限界】
現時点では、この期間の有馬氏弘氏の具体的な日記や交友関係、事業活動などの詳細な情報が確認できないため、一般的な旧藩主の生活からの推測となります。

【旧藩主は東京でどう暮らした?】
廃藩置県後、多くの旧藩主たちは東京での生活を余儀なくされましたが、その暮らしぶりは様々でした。
【東京への転居と住まい】
廃藩置県によって知藩事を免じられた旧藩主たちは、政府から東京への移住を命じられました。これは、新たな政府の下で中央集権体制を確立するための一環でした。
• 住居の確保: 東京には武士の屋敷が多く存在し、明治維新以前から人々が暮らしてきた歴史がありました。旧藩主たちは、これらの屋敷や新たに用意された邸宅で生活を始めました。中には、旧来の藩の施設を東京での滞在所として利用するケースもありました。
• 華族としての移行: 旧藩主たちは「華族」という身分を与えられ、新たなエリート層として東京での生活を送ることになりました。徳川慶喜のように、明治に入ってから公爵の爵位を得る者もいました。
【 経済状況と暮らし向き】
旧藩主たちの経済状況は一様ではありませんでしたが、一般的には政府からの俸禄や旧藩からの家禄によって生計を立てていました。
• 財産の活用: 旧藩主の中には、東京への移住に際して家財を売却したり、土地を献上したりする者もいました。これにより得た資金を元手に、新たな事業を始める者もいたようです。
• 生活様式の変化: かつての藩主時代とは異なり、政治的な権力は失われたものの、多くの旧藩主は引き続き一定の社会的地位と経済力を保ち、東京での生活を享受していました。例えば、勝海舟のような幕臣出身の人物も、明治政府の要職に就き、東京を拠点に活躍しました。

吉田 由起子

「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」を建立した人物は、有馬頼之である可能性が高いです。
【時期】
•「有馬頼之」は旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継ぎました。
• これをもって、累代の墓が建立されたと考えられます。
〈補足〉
• 吹上藩有馬家は、久留米藩初代有馬豊氏の三男である有馬頼次を祖としています。
• 有馬氏倫が加増され大名となり、西条藩、五井藩を経て吹上藩に移りました。
• 有馬氏郁が吹上藩の初代藩主です。
吹上藩有馬家の祖は、有馬頼次(ありま よりつぐ)です。
【概要】
• 馬頼次は久留米藩初代藩主である有馬豊氏の三男です。
• その後、頼次の子孫は紀州徳川家に仕えました。
• 4代目の有馬氏倫が徳川吉宗の将軍就任に伴い幕臣となり、大名に取り立てられました。
• 有馬氏倫の系統が譜代大名として扱われることになります。
• その後、有馬氏郁が上総五井藩から下野国吹上(現在の栃木県栃木市吹上)に移り、吹上藩を立藩しました。

祥雲寺にある「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」の隣に「貴族院議員(従三位、勲三等)子爵有馬頼之墓」という墓所があります。氏弘の養子である有馬頼之は氏弘の遺骨をこの墓所に納骨しないか、それと付き合いがあったかという疑問がありますが、この把握することが難しいです。

有馬氏弘さんの東京での華族としての具体的な仕事については、残念ながら詳しい記録が見つかりませんでしたとのことです。
しかし、廃藩置県以降の旧大名や華族の多くは、新しい時代の中でさまざまな役割を担っていました。
【 華族の東京移住と役割】
廃藩置県により、知藩事となった旧大名たちは職を免じられ、東京への居住を命じられました。これは約260以上もの旧大名にとって大きな転換点でした。
・華族としての身分:明治政府は、江戸時代の大名を「華族」という特権階級に位置づけました。これにより、かつてのような領地や領民を直接支配する役割はなくなりましたが、政府から家禄(給料)が支払われました。
・東京での生活:東京に集められた華族は、旧家臣団との交流を続け、家令(家政を取り仕切る役職)などに旧家臣を雇用して家政を運営することも珍しくありませんでした。
【 旧大名・華族の活動例】
旧大名である華族がどのような活動をしていたかは、個々人で異なりますが、いくつかの傾向が見られます。
・政府の要職:政治の世界から離れた旧大名の中には、外交官や天皇の側近として新政府に貢献する者もいました。
・地域経済への貢献:旧領地における産業経営や、地方の歴史資料の収集・保存など、地域の発展に尽力する華族もいました。
・文化・学術活動:中には、趣味に没頭したり、学術的な活動を行ったりする者もいました。例えば、徳川慶喜は赦免後、静岡で鷹狩りや乗馬、和歌などを楽しむ隠居生活を送っています。
・慈善事業・教育事業:華族は、国民の模範となるべき存在とされ、学習院への入学が必須とされていました。教育や社会貢献活動に力を入れる者もいました。
有馬氏弘さんの場合、知藩事免官後に家督を養母に譲り離縁しているため、有馬家としての公的な活動からは距離を置いていた可能性も考えられます。
華族が東京へ移住した背景には、明治維新後の日本の社会制度の大きな変化が関係しています。
【新政府の政策と華族制度の確立】
明治新政府は、封建的な身分制度を廃止し、新たな国家体制を築くために華族制度を設けました。
・旧公家と旧大名の統合:明治2年(1869年)に、それまでの公卿(公家)と諸侯(大名)の呼称を廃止し、「華族」と改めました。これにより、旧来の貴族階級が一つに統合され、新たな特権階級として位置づけられたのです。
・「皇室の藩屏」としての役割:華族は天皇の一族である皇族の下位に位置づけられ、国民の模範となる存在、つまり「皇室の藩屏」として皇室を守る役割を担うことが期待されました。
・爵位制度の導入:明治17年(1884年)に華族令が制定され、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵制が定められました。これにより、華族内部にも明確な序列が生まれました。
【廃藩置県と知藩事の解任】
廃藩置県は、旧大名たちが東京に移住する直接的なきっかけとなりました。
・政治的役割の喪失:当初、旧諸侯華族は各藩の藩知事を兼ねるという政治的役割を持っていましたが、明治4年(1871年)の廃藩置県により全ての旧大名華族が藩知事を解任されました。これにより、旧大名としての政治的役割は失われました。
・東京への居住指示:政治的役割を終えた旧藩主たちは、東京への居住を命じられました。これは新政府が中央集権体制を確立する上で、旧藩主たちの地方での影響力を排除する意図もあったようです。
【 華族に与えられた特権】
東京に移住した華族には、いくつかの特権が与えられました。
・経済的特権:明治19年(1886年)に公布された華族世襲財産法により、華族の財産は特別な保護を受けました。これにより、負債の抵当として差し押さえられない世襲財産を設定できるようになりました。
・政治的特権:有爵者は貴族院の有爵議員(華族議員)に選出される特権を持っていました。貴族院は日本の政治に大きな影響を及ぼすことができました。
・教育的特権:華族の子どもたちは、東京に開校された学習院に入学し、質の高い教育を受けることができました。
これらの政策により、多くの旧大名や公家が東京に移り住み、華族として新たな生活を始めることになったのです。
華族の財産管理は、明治政府によって特別な配慮がなされていました。華族は「皇室の藩屏」としての役割を期待されていたため、その生活基盤は保護されるべきだと考えられたためです。
【華族の財産管理の仕組み】
華族の財産は、主に以下の特権と制度によって管理されていました。
・華族世襲財産法:明治19年(1886年)に公布されたこの法律により、華族は差押えができない「世襲財産」を設定することができました。世襲財産は土地や公債証書などが対象で、年間500円以上の純利益を生み出すものは宮内大臣が管理しました。これにより、華族の財産は法的に保護され、世襲されることになりました。
・宮内省による監督と管理:宮内省には、華族部長局・華族局・爵位局(寮)・宗秩寮といった部署が置かれ、華族の監督・統制・保護を行っていました。家範と呼ばれる家政内規の認可も宮内大臣が行い、華族の財産状況は厳しく管理されていたのです。
・恵恤賜金(けいじゅつきん):特に経済的に困窮した旧公家華族や奈良華族などに対しては、明治天皇の御手許金から「旧堂上華族恵恤賜金」が創設されました。この資金で公債証書を購入し、その利子を華族に下賜することで、財政的な支援が行われました。管理は宮内省内蔵寮が行い、貯蓄額が増加すると奈良華族や神官華族にも支給されるようになりました。
【財産管理の課題と華族の没落】
しかし、これらの制度があっても、全ての華族が裕福な生活を送れたわけではありませんでした。
・経済的格差:多額の金禄公債を得た旧大名出身の華族に比べて、公家出身の華族の資産は少なく、厳しい生活を送る者もいました。
・金融恐慌の影響:1927年(昭和2年)の金融恐慌では、有力な華族が出資していた十五銀行が破綻し、多くの華族が財産を失う大打撃を受けました。
・戦後の財産税:第二次世界大戦後、昭和21年(1946年)に施行された財産税は、多くの華族の没落を招きました。高額な財産税の課税により、土地を売却せざるを得ない華族も少なくありませんでした。
そして、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条第2項によって、華族制度自体が廃止されました。これにより、華族の身分とそれに付随する財産管理の仕組みも完全に消滅しました。

華族の財産が保護されたのは、明治政府の確立と円滑な国家運営において、彼らが重要な役割を担うとされていたためです。
【 明治政府における華族の位置づけ】
明治維新後、明治政府は旧来の身分制度を再編し、華族という新たな特権階級を創設しました。
・旧大名・公家の不満抑制:廃藩置県により領地と人民を失った旧大名や、長きにわたり朝廷に仕えてきた公家たちの不満を抑えるため、新たな身分と特権を与える必要がありました。華族制度は、彼らの高い身分を別の形で保障する妥協策でもあったのです。
・「皇室の藩屏」としての役割:華族は、天皇の一族である皇族の下に位置づけられ、「皇室の藩屏(はんぺい)」、つまり皇室を守り支える存在として期待されました。国民の模範となる存在として、その地位が確立されたのです。
・中央集権化の推進:廃藩置県によって、各藩主が持っていた徴税権や軍事権が明治政府に統合されました。この中央集権化をスムーズに進めるためにも、旧藩主である華族を政府の統制下に置き、経済的基盤を保障する必要があったと考えられます。
【 財産保護の具体的な措置】
これらの役割を果たす上で、華族の経済的安定は不可欠とされ、様々な形で財産保護が図られました。
・華族世襲財産法の制定:明治19年(1886年)には華族世襲財産法が制定され、華族は負債の差し押さえ対象とならない「世襲財産」を設定することが可能となりました。これにより、家財が守られ、華族としての生活を維持できる仕組みが作られました。
・宮内省による監督・保護:宮内省には華族を監督・統制・保護するための部署が置かれ、爵位の授与や陞爵(昇進)、さらには華族各家からの届け出などが管理されました。また、経済的に困窮した華族に対しては、天皇からの「恵恤賜金」といった財政支援も行われました。
・教育の優遇:華族の子息は、学習院への入学が保証されるなど、質の高い教育を受ける機会が優遇されていました。これは、将来的に国の要職を担う人材を育成するという側面もありました。
このように、華族の財産保護は、明治政府が目指す近代国家の確立と、天皇を中心とする国家体制を支える上で不可欠な政策として位置づけられていたのです。
華族の財産は、個々の華族が自身で管理する部分と、宮内省が監督・管理する部分がありました。
【 宮内省による管理と監督】
明治政府は「皇室の藩屏」として華族を位置づけ、その生活基盤を保護するため、宮内省が財産管理に深く関与していました。
・担当部局:宮内省には、華族部長局、華族局、爵位局(寮)、宗秩寮といった部局が置かれ、華族の監督・統制・保護を行っていました。
・家範の認可:有爵者(爵位を持つ華族)は、宮内大臣の認可を得て「家範(かはん)」と呼ばれる家政内規を定めることができました。この家範には、家の心構えから家督相続、財政・会計に至るまで、家政全般に関する細かな規定が含まれていました。
・世襲財産の監督:明治19年(1886年)に公布された華族世襲財産法により、華族は負債から差し押さえられない「世襲財産」を設定することが可能になりました。年間500円以上の純利益を生み出す世襲財産は、宮内大臣が管理しました。
【華族自身の管理と課題】
一方で、華族は自らの財産を管理し、家政を切り盛りする必要がありました。
・金禄公債:廃藩置県の後、旧大名や旧公家には家禄に代わる金禄公債が支給されました。これを元手に、金融業や会社経営に乗り出す華族もいました。
・家政の運営:華族は、多くの使用人を抱え、華やかな生活を維持するために多額の費用を必要としました。家令などの旧家臣を雇用して家政を取り仕切らせることも珍しくありませんでした。
・経済的苦境:しかし、すべての華族が裕福だったわけではありません。特に、公家出身の華族は、旧大名出身者に比べて資産が少なく、生活に苦しむケースもありました。また、世襲財産は自由に運用できないなど、華族自身も不便を感じることがあったようです。
このように、華族の財産は宮内省による監督の下、各華族自身が管理するという形態でしたが、その実情はそれぞれの家によって大きく異なっていました。
国立公文書館デジタルアーカイブでは、件名「有馬氏弘家禄引当拝借金願」のことを前から気になっています。
藩主としての地位を失った後、彼の生活には大きな変化があったと推測されます。藩主の特権や収入源が失われたことで、経済的にも影響を受けた可能性があります。この時期、多くの旧藩主たちが新たな時代に適応するための生活を送っていました。  
  当館所蔵の公文録中にある件名「有馬氏弘家禄引当拝借金願」
  https://www.digital.archives.go.jp/item/2350699.html
この公文録は明治4年です。明治4年(1871年)の廃藩置県により全ての旧大名華族が藩知事を解任されました。氏弘は藩知事を解任された後、「どうして金が必要か」ということを知りたいです。

既存記事の推敲

「有馬氏弘の華族家記」は、国立公文書館デジタルアーカイブに静かにたたずむ一冊の記録である。標題に「華族家記・有馬氏弘、自慶応三年十月至明治元年十二月、一」と掲げ、慶応三年(一八六七)十月より明治元年(一八六八)十二月に至るあいだの事績を収める。すなわち、幕府体制の幕が下り、新政府が立ちあがる、その只中を生きた一華族の視線が、ここに綴じこめられているのである。そこにどのような言葉が残され、いかなる人となりと暮らしぶりが浮かび上がるのかは、国立公文書館デジタルアーカイブの原本画像を実際に繙きつつ、慎重に読み解いていきたい。

しかし、そこから有馬氏弘が華族としてどのような日々を送り、どのような心持ちでこの時代を生きていたかについては、国立公文書館デジタルアーカイブに残された記述だけでは詳細をうかがい知ることはできない。

それでもなお、この「華族家記」は、特定の華族家にかかわる公文書や記録を一冊に収めたものとして、当時の社会状況や華族制度のあり方を照らし出す手がかりを内に秘めていると思われる。国立公文書館デジタルアーカイブでは、目録情報を通じて所在をたどり、デジタル画像のかたちでそのページを一枚ずつ繙くことができる。

本資料は「華族家記・有馬氏弘、自慶応三年十月至明治元年十二月、一」と題して登録されており、慶応三年(一八六七)十月から明治元年(一八六八)十二月に至る激動の一年余を記録したものであることがわかる。すなわち、幕末から維新へと大きく時代が転じていく只中で、一人の若き藩主の周囲に生じた出来事が、静かに書き留められた冊子なのである。

「有馬氏弘」の家記

有馬氏弘家に伝わるこの「華族家記」も、明治初年の太政官による達しを受けて編まれ、提出されたものと考えられる。すなわち、当時の有馬家が、自らの来歴と激動期の記録をひとまとまりの史料として整え、官に差し出した成果が、いま国立公文書館に残るこの冊子である。

📜 記録されている可能性

標題が「自慶応三年十月至明治元年十二月」とされていることからもわかるように、記録の対象期間は慶応三年(一八六七)十月から明治元年(一八六八)十二月に及ぶ。このあいだには、江戸幕府の終焉、明治新政府の成立、さらには戊辰戦争の勃発といった、日本史上まれにみる政変が相次いでいる。
その只中にあって、有馬氏弘が実際にどのような出来事に直面し、いかなる場面に関わったのか。その具体像の一端が、この家記の行間に記されている可能性が高い。

🎯 「華族家記」のねらい

有馬氏弘の名を冠したこの「華族家記」は、明治維新という大転換期における一華族家の歩みを、公的な記録のかたちで後世に伝えることを目的として編まれた著述とみられる。
同時に、それは近代国家が新たに整えつつあった華族制度のもとで、自家の由緒と責任をどのように語りうるのかを模索した試みでもあっただろう。

有馬氏弘の名を冠する「華族家記」は、明治期に存在した「華族」という身分制度のもとで、各家がいかにして華族に列せられたのか、その由緒と経緯を後世に伝えることを目的として編まれた記録である。

華族とは

華族とは、明治国家において新たに位置づけられた貴族身分であり、旧来の公家や大名家に加え、国家に顕著な功績を挙げた者などによって構成された。彼らは「皇室の藩屏」として特別の地位と権利を付与され、日本の近代化の歩みにおいて一定の役割を担った集団である。(archives.go.jp)

記録の意義

「華族家記」は、単に系図や家族関係を列挙しただけの書物ではない。各家の来歴や功績、そして華族に列せられるに至った過程を丹念に書き留めることで、当時の社会における華族の存在意義と、その役割の具体像を伝えようとする営みの結晶である。
その意味で、本資料群は、近代日本が華族制度という枠組みを通じて上層身分をどのように再編しようとしたのかを読み解くうえで、きわめて貴重な手がかりを与えてくれる。

有馬氏弘の家記作成の背景には、近代日本が歩み出した初期明治期の大きな構想が色濃く映し出されている。とりわけ中心に据えられていたのは、中央集権国家の形成、歴史の継承と正統性の確立、そして身分制度の再編という三つの潮流であった。(ndl.go.jp)

明治政府は太政官制を軸として統一的な統治機構を整えつつ、公卿・諸侯を華族として位置づけ、旧来の身分秩序を再編していった。(ndl.go.jp) その過程で、各家に自らの由緒や事績を記した家記や系譜の提出を求めたことは、単に史料を集める事務手続きではなく、新しい国家の中で「誰が、いかなる来歴によって、その地位を与えられるのか」を明らかにしようとする営みでもあった。

こうした文脈の中で、有馬氏弘家の「華族家記」もまた編まれたと考えられる。そこには、近世以来の歩みとともに、維新という断絶をくぐり抜けた一門の歴史を、新たな中央集権国家のもとでどのように語り直すかという問いが、静かに刻まれているのである。


🕊 明治五〜八年の生活への橋渡し


私自身、とりわけ気にかかるのは、廃藩置県後の有馬氏弘が、明治五年から明治八年にかけてどのような日々を送っていたのかという点である。知藩事を免ぜられたのちのこの数年間は、旧大名家にとっても、新しい身分秩序の中で自らの立場を模索せざるをえなかった過渡期にあたる。(dl.ndl.go.jp)

しかし、手元にある資料の範囲では、この時期の具体的な行動や生活ぶりに直接触れる記述は見いだせていない。そこで以下では、明治初年の制度改革と華族制度の展開をふまえつつ、有馬氏弘が置かれていた状況について、慎重に推測を試みてみたい。

有馬氏弘の東京での華族としての具体的な職務や日々の営みについては、残念ながら、いまのところ史料から詳しくたどることはできない。
しかし、廃藩置県以降、多くの旧大名や華族が、新しい時代のなかでそれぞれの役割を担わされていったことは確かである。(kotobank.jp)

華族の東京移住と役割

明治四年の廃藩置県により、知藩事となっていた旧大名たちはいっせいに職を免ぜられ、東京への居住を命じられた。(archives.go.jp)
およそ二六〇家をこえる旧大名家にとって、それは領地と領民とのあいだに長く結ばれてきた関係が断ち切られ、皇都のもとに呼び寄せられるという、決定的な転換点であった。(library-archives.pref.fukui.lg.jp)

新政府は、こうして東京に集めた大名華族たちに対し、一定の家禄と華族身分を保証する一方で、近代国家の「藩屏」としての役割を期待した。(archives.go.jp)
実際に彼らの中からは、中央官庁の官僚や地方官、宮中の職務に就く者もあれば、華族農場などを通じて新しい経営に乗り出す者も現れている。(archives.go.jp)

有馬氏弘もまた、その一人として東京に移り住み、新しい身分と暮らしを引き受けることになったはずである。具体的な足跡はまだ断片的であるけれども、同時代の華族たちの事例に照らすことで、その輪郭だけでもそっと浮かび上がらせてみたい。

💃 社交の舞台となった場

明治前期の象徴的な舞台の一つが鹿鳴館です。
鹿鳴館は明治十六年(一八八三年)、外国賓客の接待と上流社会の社交場として東京日比谷に建てられました。園遊会や夜会、舞踏会が開かれ、日本人華族と外国外交官らが社交を交わす場となりました。(kotobank.jp)

のちに鹿鳴館は役割を終え、明治二十三年前後から華族会館として利用され、華族自身の集会や親睦、行事の場となっていきます。(japanknowledge.com)

🏛 華族会館と霞会館

鹿鳴館を受け継ぐかたちで設立された華族会館は、東京在住華族の社交や情報交換の中枢でした。ここでは華族総代会や懇親会、舞踏会、文化的な催しなどが行われ、同じ身分層のなかでの結び付きが培われました。(museum.or.jp)

戦後は華族制度廃止後も、旧華族の親睦団体として霞会館へと受け継がれ、東京・霞が関の高層ビル内に拠点を移しています。(zh.wikipedia.org)

🤝 日常の交流のかたち

こうした公式の場以外にも、東京在住の華族たちはさまざまなかたちで交流していました。

  • 学習院や官立学校などでの子弟教育を通じた人脈
  • 中禅寺湖畔など避暑地での夏季滞在と、外国人外交官との交流(rikkyo.repo.nii.ac.jp)
  • 乗馬、ヨット、西洋スポーツや音楽といった「欧化」的な趣味をめぐる交友(rikkyo.repo.nii.ac.jp)

👗 服装と振る舞い

華族の社交には、洋装や礼装が不可欠でした。特に鹿鳴館時代には、夜会服やドレス、礼服など西洋式の装いが求められ、女性華族たちのドレスやマナーも「近代日本の顔」として注目されました。(gasmuseum.jp)

こうした服装やマナー習得もまた、華族たちが東京で担った「見せる役割」の一部だったといえます。

明治5年1872年東京移住直後の落ち着かない時期
明治10年1877年華族社会が徐々に東京に定着した頃
明治17年1884年華族令制定で華族身分が五爵制に整理された年

🕊 明治五年前後の社交の輪郭

明治五年は、廃藩置県(一八七一年)からまだ間がない時期で、多くの旧大名・華族は東京への居住を命じられた直後でした。彼らはまず麹町・番町・赤坂・芝など、旧武家地を中心に新たな邸宅を構え、皇居のそばに集住していきます。(smtrc.jp)

このころ、華族たちの社交は、のちの鹿鳴館的な華やかな舞踏会というよりも、邸宅相互の表敬訪問や、儀礼的な挨拶回り、宮中行事への出仕といった、比較的閉じたネットワークの中で営まれていました。政府は華族を「皇室の藩屏」と位置づけ、模範的な上層身分として振る舞うことを求めていたため、服制や礼法も徐々に西洋化しながら整えられていきます。(archives.go.jp)

こうした時期の有馬氏弘も、詳細な記録は見えないものの、同じく東京在住華族として、宮中への参内や他家への訪問、官庁への登城といった、比較的公的色彩の強い社交を日常の一部として引き受けていたと考えるのが自然でしょう。

🤝 明治七年前後に見える広がり

明治七年になると、華族同士の組織的な交流の芽も具体化してきます。明治五年ごろから一部華族の間で「麝香間祗候会議」と呼ばれる集まりが始まり、明治七年六月には、のちの華族会館へとつながる華族間の団体が正式に成立したとされています。(zh.wikipedia.org)

この華族会館的な場は、宮中とは別に、華族自身の懇親や情報交換を目的とした半ば私的なサロンの役割を果たし始めました。ここでは、政治や宮中の動きだけでなく、縁組や子弟教育、財政問題など、各家が抱える課題も話題になったと考えられます。後年、華族会館は舞踏会や文化的催しの舞台ともなっていきますが、その萌芽はすでにこの明治七年前後に見いだされます。(aska-r.repo.nii.ac.jp)

もし有馬氏弘がこの輪の中に身を置いていたとすれば、単に個々の邸宅を往来するだけでなく、こうした華族同士の横のつながりを意識しながら、東京での新しい身分秩序と生活のかたちを模索していた可能性があります。

✒ 物語寄りで情景を描く

廃藩置県ののち、有馬氏弘もまた、他の旧藩主たちと同じように知藩事の職を離れ、東京への移住を命じられた一人であった。明治五年、皇居の西側に広がる旧武家地では、旗本屋敷の跡に新たな邸宅が建ち始め、麹町や番町、芝の高台には、やがて華族の表札が並ぶようになっていく。かつては城下町の主として城に登城していた人びとが、今度は皇居のそばに呼び寄せられ、皇都の空気を吸いながら、見知らぬ隣人どうし静かに挨拶を交わす──そんな手探りの社交が、少しずつ日々の営みの中に織り込まれていったのであろう。
明治七年になると、東京に集められた華族のあいだでの結びつきは、個々の邸を行き来するだけではなく、やがて「華族会館」と呼ばれる集いの場へと姿をあらわし始める。(kasumi-kaikan.jp)(kasumi-kaikan.jp) そこでは、宮中で顔を合わせる相手とふだん着のことばを交わし、縁組や子弟教育の話題を分かち合い、ときには新しい仕事や事業の噂が飛び交ったに違いない。具体的な記録は乏しいけれども、東京在住華族の一人としての氏弘も、こうした場のどこか片隅に腰をおろし、自らに与えられた新しい身分と暮らしのかたちを、静かに測り直していたのではないかと思われる。

🏛 制度的に想定される役割

まず大前提として、廃藩置県で知藩事を免職された旧大名は、東京居住と華族身分、家禄の支給が保証されました。華族は「皇室の藩屏」として位置づけられ、国家の上層を構成する身分とされたものの、全員が具体的な官職を与えられたわけではありません。(archives.go.jp)

そのうえで、明治五年から七年ごろの大名華族に一般的に見られる「職務・役割」としては次のようなものが考えられます。

区分具体的な可能性
官職中央官庁や宮内省の官職に就く
儀礼宮中儀礼・行幸時の随従など
政治麝香間祗候会議など華族の政治的集まり
経営旧領経営の整理、家産・投資の管理
社交華族会館などでの会合・親睦

廃藩置県後の有馬氏弘が、東京でどのような職務に就いていたのかについては、いまのところ直接それを示す史料を確認できていない。もっとも、当時の大名華族一般を眺めると、中央官庁や宮内省の官職に任ぜられる者、宮中儀礼や行幸への随従といった儀礼的役割を担う者、あるいは麝香間祗候会議のような華族内部の会合を通じて政治的意見を表明しようとする者など、関与のあり方はさまざまであったことが知られている。(ndlsearch.ndl.go.jp)
また、官職を得なかった華族にとっても、旧領地の整理や家産経営、新たな投資先の模索は避けて通れない課題であり、その意味では「職務」と生活とが切り離しがたく絡み合っていたと言えるだろう。氏弘についても、東京在住華族としてこれらの動きのどこかに位置していたと推定するのが妥当であるが、現段階では具体的な役割を特定することはできない。

もっとも、有馬氏弘が東京在住ののち、中央官庁や宮内省でどのような官職を帯びていたのかについては、慎重な留保が必要である。明治期以降の華族に関しては、宮内省や霞会館などによって編まれた『華族名簿』類が複数残されており、当主名や爵位、住所、場合によっては役職などを一覧できるが、少なくとも私が確認した『華族名簿』の範囲からは、氏弘の具体的な官職名を拾い上げることはできなかった。(shoryobu.kunaicho.go.jp)
もちろん、これは「いかなる官職にも就かなかった」と断言するものではない。ただ、後年まで名簿や回顧録にその職名が明記されるような高位の官職歴を有していたとは言いがたく、むしろ多くの大名華族と同様、華族としての身分と家禄を維持しながら、宮中儀礼への参列や家産の維持・整理といった、より目立たない役割を静かに引き受けていた可能性の方が高いと見るべきであろう。

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