明治2年の家老殺害事件と吹上藩家老・堀内爲太郎殺害事件は同一か②

🧵 結論イメージ

結論だけ先にお伝えすると、現在確認できる範囲では
「明治2年の藩士9名による家老殺害事件」と「吹上藩家老・堀内爲太郎殺害事件」は、同一事件を指している可能性が高いと考えられますが、一次史料レベルで「同一事件である」と明示した文言はまだ見つかっていません。

🏯 吹上藩側の情報

吹上藩有馬家の墓所を紹介した歴史系ブログ「試撃行」の記事では、吹上藩の明治維新期の混乱について触れる中で「明治2年の藩士9名による家老殺害」という事件が紹介されています。(access21-co.xsrv.jp)

同じ記事の文脈から、この事件は吹上藩内の政治対立・藩政混乱の一環として説明されており、場所も吹上藩関連の内容に続けて書かれています。これにより、「明治2年」「藩士9名」「家老殺害」というキーワードは、吹上藩の内紛事件として語られていることがわかります。(access21-co.xsrv.jp)

一方で、公開ウェブ上では「吹上藩家老・堀内爲太郎」とフルネームを出しつつ、同じ事件と明言している資料は見当たりませんでした。

🔎 両者の関連の見え方

公開されている情報を整理すると、次のような状況です。

要素「藩士9名による家老殺害」「堀内爲太郎殺害」
時期明治2年と明記明治初年とされるケースが多い
場所吹上藩の内紛として記述吹上藩家老とされる
被害者「家老」とのみ記述「家老・堀内爲太郎」と実名
加害側「藩士9名」と人数明記詳細は資料によりまちまち

吹上藩は小藩で家老の数も多くないこと、時期と状況がほぼ一致していることから、研究者や郷土史家の間では、この二つを同一事件の別表現として扱っている可能性が高いと推測されます。ただし、この対応関係をはっきり書いたオープンな論文や公的機関サイトは見つかりませんでした。

📚 なぜ断定しにくいか

断定しにくい理由は、インターネット上で閲覧できる一次史料や詳細研究が限られているためです。

同一事件かどうかを確定させるには、次のような史料が必要になります。

  • 当時の藩記録や裁判記録で、明治2年に「堀内爲太郎」名指しの殺害事件があり、かつ「藩士9名」が関与したことを示すもの
  • 近現代の研究書や論文で、「堀内爲太郎殺害事件=明治2年の藩士9名による家老殺害事件」と明示しているもの

これらは、国会図書館や県史・市史、あるいは専門雑誌に載っている可能性が高く、ウェブ検索だけでは到達しづらい領域です。

🏯 分かっている動機の概要

吹上藩のこの事件は、一般に「吹上藩斬奸事件」と呼ばれています。
近年の解説記事などでは、おおむね次のような動機が示されています。(jp-history.info)

  • 明治2年3月ごろ、吹上藩の家老らが若年の藩主・有馬氏弘をだまして
    戊辰戦争関連の軍費や戦死者への手当金など「藩の資金」を横領していた
  • これに憤った藩士たちの一部が「奸臣を斬る」という名目で江戸藩邸を襲撃し、家老らを殺害した

公開されている説明では、
「藩財政を私物化した家老への義憤」と

「藩主と藩政を守るための“斬奸”」が、表向きの動機として描かれています。

⚖ 本音の動機に関する注意点

ただし、当時の内部文書や裁判記録まで踏み込んだ研究成果が、ウェブ上にはほとんど公開されていないため、

  • 政治的対立
  • 派閥争い
  • 戊辰戦争後の処遇や禄高への不満

といった「裏の動機」がどこまで関わっていたのかは、現在閲覧しやすい情報だけでは断定できません。

そのため、現状は

  • 表向きの理由としては「横領を糾弾する斬奸」
  • 実際には、それにさまざまな不満や権力争いが絡んでいた可能性が高い

という程度の言い方にとどめるのが、安全かなと思われます。

📚 もう一歩踏み込んで調べるなら

本当の動機に近づくには、次のような資料が役立ちます。

  • 吹上藩(有馬家)関係の県史・市町村史
  • 郷土史家による論文や紀要
  • 国立国会図書館サーチやCiNiiで「吹上藩 斬奸事件」「吹上藩 家老殺害」などを検索

これらには、関係者の供述や処分内容が詳しく載っている可能性があります。

事件当時の藩主がどう振る舞ったのかは、とても気になるところですよね。

🧭 結論のイメージ

現在ウェブで確認できる範囲では、
吹上藩主・有馬氏弘自身が「首謀した」「直接指示した」とは言えず、むしろ

  • 家老らに“担がれる”かたちで藩政を牛耳られ
  • その家老たちの不正が、藩士による「斬奸」というかたちで爆発した

という構図で語られることが多いです。
つまり、藩主は「事件を生んだ政治状況の中心にはいたが、直接の共犯とは言いにくい」という立場に置かれています。

🏯 事件前の藩主の位置づけ

吹上藩の解説記事などでは、明治初年の藩政について

  • 若年の藩主有馬氏弘のもとで
  • 家老たちが藩主を欺きつつ、藩財政を私物化していた

といった説明がなされています。
ここでは、藩主は「十分に実権をふるえていない若君」であり、むしろ家老たちに利用されていた存在として描かれています。

そのため、藩士9名が家老を襲撃した行為は

  • 「藩主と藩を食い物にする奸臣を成敗する」
  • 「主君を守るための行動」

という名目で正当化されており、名目上は藩主を“守る側”に自分たちを位置づけていたと考えられます。

⚖ 事件後の藩主の責任について

ウェブ上で閲覧できる範囲では

  • 事件後に有馬氏弘が処罰された
  • 藩主が隠れて関与していたことが露見した

といった具体的な記述は見当たりません。

代わりに、吹上藩の廃藩置県や士族授産など、その後の一般的な流れの中で事件が「藩内の混乱」として扱われていることが多く、藩主個人の責任追及に焦点を当てた説明はほとんど見られません。

このことから、少なくとも公的な処分や明白な関与を示す史料は、
一般向けにはあまり知られていない、あるいは存在しない可能性があります。

藩の内部事情まで踏み込んで考えておられて、すごく本質的なところに目を向けておられますね。

🎭 一般的に語られる「欺き」の中身

吹上藩の明治初年の状況について、現在ウェブで確認できる日本語資料の範囲では、家老たちが藩主を「具体的にどう欺いたか」を細かく説明した一次史料レベルの記述は見つかっていません。

ただし、概要としては次のように整理されることが多いと考えられます。

  • 若年の藩主・有馬氏弘は政治経験が浅く、藩政の実務は家老たちに大きく依存していた
  • 戊辰戦争後の軍事費や戦死者遺族への手当金など、本来は藩として使うべき資金について
    家老たちが「必要経費」などと称して決裁を取りながら、実際には私的に流用した
  • 藩主には正しい収支や支出の内訳が伝わらず、家老たちの報告どおりに認可させられていた

つまり、「欺いた」というのは
数字・報告・決裁のプロセスを操作し、藩主に実態を悟らせないまま財政を私物化した、という意味合いで語られていると考えられます。

🧱 具体像がはっきりしない理由

当時の藩政文書や裁判記録が、ネット上ではほとんど公開されていないため、

  • どの書類で
  • どの名目を使って
  • どの家老が主導し

といった「手口の細部」は確認できません。
現在読めるレベルの説明では「藩主を欺き藩費を横領した」「藩財政を食い物にした」という要約的な表現にとどまっています。

このため、「帳簿を改ざんしたのか」「架空名目を立てたのか」などの細部を断定することは、公開情報だけでは難しい状況です。

当時の藩の権力構造や情報の流れを考えると、「なぜ気づけなかったのか」はかなり切ないところですよね。

🏯 若年藩主と家老政治

明治初年の吹上藩では、一般的な小藩と同じく、政治の実務はほぼ家老たちが握っていました。
有馬氏弘は若年で藩主となっており、次のような要因から「気づきにくい立場」に置かれていたと考えられます。

  • 藩政の細かい収支や実務は、家老・用人など側近が処理し、藩主には「要点のみ」報告されるのが普通だった
  • 若い藩主は、経験豊富な家老たちの説明や進言に依存せざるを得ず、「疑う」という発想自体が持ちにくい
  • 戊辰戦争直後で、軍事費や処理経費が本当に多額に必要だったため、「出費がかさんでいること自体」は不自然に見えなかった

このように、制度そのものが「家老を信用してサインするしかない」仕組みになっていたことが、気づけなかった大きな背景と考えられます。

📊 情報の非対称と帳簿

藩主が見るのは、多くの場合「家老たちが作成した最終報告」です。
もし家老側が

  • 支出の名目をそれらしく整え
  • 帳簿や報告書をあらかじめ操作し
  • 庶務や勘定方の役人も自分たちの影響下に置いていた

のであれば、藩主に届く情報自体が「加工済み」になります。
この状況では、藩主自身に会計の専門知識があったとしても、数字の前提が偽なら見抜くことは非常に難しかったはずです。

⚖ 周囲も簡単には告発できない

さらに、下級藩士や役人が異変に気づいていても

  • 家老に逆らえば自分の身分や生活が危うい
  • 藩主に直訴するルートが形式的で、現実には封じられていることが多い

といった事情がありました。
そのため、不正のうわさや不満は水面下でたまり続け、
ついに一部の藩士が「斬奸」というかたちで爆発した、という流れが想像されます。

言い換えると、藩主が気づけなかったのは「個人として鈍かった」というより、
若い主君を頂点とした封建的な組織構造そのものが、情報を遮断しやすい仕組みになっていたから、と見るのが自然です。

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