堀内為太郎親友(本人)と親の墓所がありますが、他は名前が沢山あります。携帯メールで正仙寺西側墓地整備前石塔配置、過去帳などの資料を送信しました。堀内為太郎親友につきましては、事件は明治2年7月30日の筈ですが、没年は明治3年7月30日となっています。これは事件の際に死亡したものではなく、翌年7月30日まで生きていたのだと思われますというご回答がありました。
堀内為太郎親友は寝たきりになった状態で何を言っていることが出来るかという疑問を持つようになりました。
「国立国会図書館デジタルコレクション」において、以下の資料を確認しました。
・『明治初年の世相』(横瀬夜雨/編 新潮社 昭和2)【インターネット公開】
https://dl.ndl.go.jp/pid/1192767/1/223(最終確認:2024/12/22)
223コマ目の見開き左ページに「六、有馬氏弘」の項があり、吹上藩知事であったことと、明治11年2月時点の東京の住所を確認できます。
『明治初年の世相』(横瀬夜雨/編 新潮社 昭和2)という本は昭和2年に出版したのではと考えられます。この本は娯楽に近いではという疑問があります。
正仙寺住職にFAXで問い合わせました。
斬奸事件の資料「栃木市史 史料編近現代Ⅰ」のコピーを送付して頂きました一部です。
有馬氏弘の戸籍によると(嘉永4年2月15日生まれ~大正3年4月没)です。
観蓮知成童子(かんれんちじょうどうじ) 明治3年(1870)7月24日 吹上藩知事出産の嫡男旧字の為読み難です。
「【吹上藩斬奸事件勇士の墓碑】
吹上藩は官軍側に入り、奥州征伐に従ったが、4名の戦士者の遺族手当等として朝廷より下された賞典金の一部を、藩老の辻本宗之進・西村武衛・平沢源太が幼主氏弘を欺いて横領したというので、吹上藩正義派の武士たち9名が、明治2年(1869)3月17日早朝を期して江戸藩邸を襲い、その首を斬り自訴する吹上藩斬奸事件が起こった。主家を思う忠心を考慮し、自尽・斬罪を申付け、家跡はそのまま血統の者に引継ぐという寛大な
刑法官の宣告がなされ、彼らは同年9月17日自尽して麻布祥雲寺に「吹上藩斬奸諸士9名之墓」として葬られている。忠勇義烈な武士道の行為として賞讃された事件である。」
正仙寺西側墓地整備前石塔配置を確認しましたところ、堀内為太郎親友(本人)の墓がありますが、
藩老の辻本宗之進・西村武衛・平沢源太の墓がありませんでした。
ネットで調べましたところ、氏弘の死亡場所の周辺には4件のお寺があります。3件のお寺はFAXがありますので、1件のみはFAX送信しました。2件は応答ない状態ですので、社会福祉協議会通訳電話で照会することを考えています。
事件ですが僕個人の推理としては、襲撃は藩士9名で間違いないと思います。
その際に首を斬ったなら生きていませんが、致命傷を負わせただけだったのでしょう。
※病床でこれは氏弘の差し金であるとか、夫人らに言っていたのかもしれません。
その後に9名は自刃して事件は解決しますが、
時が経って堀内夫人の周辺(?)が、
氏弘にも責任があるのではないかと訴訟。
これに裁判所は今更終わった事であると、調査や審議もせぬまま適当な判決を出したのでは?
あくまで推測ですがそう思っています。
吹上藩斬奸事件につきましては、正仙寺の住職に問い合わせましたが、残念ながら、斬奸事件の資料は「栃木市史 史料編近現代Ⅰ」以外はありません。また、堀内為太郎親友と斬奸事件の関係は不明だそうです。「藩老の辻本宗之進・西村武衛・平沢源太は江戸藩邸で亡くなったので、墓標はないと考えられます。斬奸事件の関係者で墓標があるのは、妻の連名の中田義秋と平民墓地の鈴木政右衛門の2名だけです」とのことです。
多面的と多角的から歴史を見ることが大切だが、大変難しいです。
建福寺(郡山市西田町木村字)に有馬氏弘の戸籍を添付してFAXを送信しました。1週間後、「有馬 筋広の件ですが、当寺にあてどころがありますので、ご報告します」と返信がありました。名前が違っているか、もしくは、有馬氏弘の死亡年月ということを一致していますかという確認FAXを送信しました。
詳しくは判りませんが、その結果を待つしかないです。
延命寺(郡山市中田町高倉字)と真福寺(郡山市西田町丹伊田字)のFAX番号がありますが、何回も送信しても応対ない状態です。それと石雲寺(本宮市本宮字)のFAX番号がありませんので、折を見て、社会福祉協議会通訳派遣事務所へ行って、通訳電話で照会するつもりでいます。
吉田様、大変申し訳ないのですが、僕は大きな勘違いをしていたようです。
家老殺害というキーワードから、斬奸事件と堀内為太郎殺害を一緒くたにしてました。
話が通じないなと思われたかもしれませんが、これは僕の勘違いから生じたものです。
重ねてお詫び申し上げます。
但しこの間違いを正してもまだ、堀内為太郎殺害事件は資料が少なく、
多くの謎があるといえるでしょう。
大きな勘違いをしていたとのこと、気にしないでください。
私にも勉強になりました。
追伸「「栃木市史 史料編近現代Ⅰ」という資料からです。
藩士9名は明治2年9月17日自尽して麻布祥雲寺に「吹上藩斬奸諸士9名之墓」として葬られている。忠勇義烈な武士道の行為として賞讃された事件である。」
正仙寺にある旧侍墓地には、「君の為芽支度立や松の雪」という辞世の句を残して切腹した中田義秋67歳の墓地がある。また、名主鈴木倉之助の養子で平民がゆえ無念にも一人打首となった組頭見習、政右衛門41歳の幕が東側(旧平民墓地)の鈴木家墓地にあった。
誅奸の諸士の名は
・鈴木淳次義国 21歳 ・坪井〇治義興 37歳 ・鈴木宗十郎義明 35歳
・県一義制 51歳 ・中田善三義秋 67歳 ・吉田立〇義正 44歳
・島村平四郎義喬 23歳 ・吉田新兵衛義常 30歳 ・鈴木政右衛門 41歳
であった。
気付いた瞬間には冷や汗かきました(汗)。
吹上の正仙寺にはいつか行ってみたいと思いますが、予定はまだありません。
意外と関東にも出張する事があるので、チャンスがあれば必ず訪問したいと思います。
祥雲寺の吹上藩斬奸諸士9名之墓は、僕が行った際には見落としていましたが、
現在も存在するのでしょうか?これも何れ再訪したいと思います。
携帯メールで祥雲寺の「吹上藩斬奸諸士9名之墓」の写真を送った件ですが、吹上藩有馬家の塁代墓所の隣に小さな墓があります。今年は正月明けに有馬家の墓参りに行きました。「吹上藩斬奸諸士9名之墓」はその事件があったことを知りませんでした。その時には氏弘の子孫を開示情報することを決心しました。
氏弘の墓所を探しているお陰で歴史探究心を持つようになって良かったと思います。
現在、曾祖父である有馬氏弘の墓所を探し続けています。
建福寺(郡山市西田町木村字)に有馬氏弘の戸籍を添付してFAXを送信しました。1週間後、「有馬 筋広の件ですが、当寺にあてどころがありますので、ご報告します」と返信がありました。名前が違っているか、もしくは、有馬氏弘の死亡年月ということを一致していますかという確認FAXを送信しました。この問い合わせの件でFAXを送信しても返信が来ない状態でした。あてどころという意味が分からないので、電話通訳を依頼して「有馬家」という名前がないとのことです。
真福寺(郡山市西田町)、延命寺(郡山市中田町高倉)、西芳寺(郡山市日和田町)、廣修寺(郡山市片平町)はFAXでも電話通訳でも情報がないとのことです。
保福寺(郡山市日和田町)、西泉寺(郡山市喜久田町)はFAXでも電話が現在使われていない状態です。
石雲寺(福島県本宮市)宛へFAXを送信してみました。「有馬家のお墓を見つけることが出来ませんでした。檀家様で磐梯熱海の方が一つしかなく、その家系についても異なっておりました。磐梯熱海や郡山の周辺の寺院の方が見つかる場合は可能性が高いかなと感じました」というFAX返信がありました。
郡山の地図を調べているところ、磐梯熱海で常圓寺(郡山市熱海町)を見つけました。電話通訳を依頼しましたが、電話は留守番電話のようで通じませんでした。結局はお手紙を出すことにしました。
6月中旬は裏磐梯高原ホテルに一泊予約しましたので、それ迄は有馬氏弘の墓所があるかどうかわかりませんが、曾祖父と祖母の故郷をみたいと思います。
氏弘の遺骨が見つからない場合には、祥雲寺と正仙寺へのお墓参りに行くのが充分に思います。
太政類典によると、知藩事在職中に有馬氏弘はこの事件の責任を取る形で明治2年5月12日から同年9月28日まで謹慎と10日間の閉門の刑罰が執行されているとのこと、誰か命令したかということを気になっています。朝廷、若しくは、家老の堀内爲太郎は命じたのではと考えられます。藩士9名は明治2年9月17日自尽することを執行されたそうです。氏弘は心を痛めていると思います。
遠方につき物理的な手助けが出来ない事、申し訳ありません。
当ブログで大名の墓や志士の墓等を調べており、未だ発見されていない例をお伝えしておきます。
・寺が廃寺となってしまっている。
・開発等で移転している。
・空襲等で破壊されたり焼失している。
・無縁墓として合葬、撤去されてしまっている。
・墓が建てられていない等・・・・
上記最後の墓が建てられていないというのは、納骨堂に納められたり、お骨仏になっていたり、
宗派によってそのような事もありえます。
稀ではありますが・・
知藩事の謹慎閉門の件ですが、たぶん新政府によるものでしょう。
家老にはその権限はありません。藩士達の自尽は本望であったと思います。
当時の武士の死刑は自刃と打首がありあすが、これには大きな違いがあります。
打首は殺される訳ですが、自尽(自刃)は自裁や自決とも呼ばれるように、
自分で自分の命を裁決するという事で、別の言い方としては賜死ともいい、非常に名誉ある死に方でした。
もちろん本人ら以外は心を痛めるでしょうが、本人らは本懐を遂げた後に死を賜ったので、
自らを赤穂の四十七士のなぞらえて、誇りを持って死んで逝ったと思います。
引用されている一文は、かなりドラマのある出来事をぎゅっと短く書いているので、順を追って具体的に整理してみます。
🏯 いつ・どこで何が起きたか
時期と人物
- 明治2年9月17日
- 下野国吹上藩の藩士9名
- 吹上藩の藩主は有馬氏弘で、下野吹上藩最後の藩主です(tochigi-burg.com)
この9名は、いわゆる「斬奸」の行動に関わった吹上藩士で、藩主有馬氏弘に対して忠節を尽くした立場として理解されています。
自尽と埋葬
- 9名は明治2年9月17日に自ら命を絶ちました(切腹などによる自尽と見られます)。
- 遺体は江戸の麻布にある祥雲寺に葬られました。
- 祥雲寺は現在の東京都渋谷区広尾付近にある寺で、吹上藩有馬家の墓地が置かれていた場所です(access21-co.xsrv.jp)
🪦 墓の具体的な姿と場所
墓碑の名称と意味
- 9人の墓は、まとめて
「吹上藩斬奸諸士九名之墓」
という名前の墓碑として建てられました。 - 「斬奸諸士」は「奸臣を斬った正義の士たち」という意味で、「九名」は人数、「之墓」はその人々の墓、という意味です。
- つまり、碑全体の意味は
「吹上藩で奸臣を討った九人の志士の墓」
という趣旨になります。
具体的な場所
- 寺名:瑞泉山祥雲寺
- 所在地のめやす:東京都渋谷区広尾周辺
- 墓域には
- 「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」
- 「吹上藩斬奸諸士九名之墓」
- そのほか有馬家関係の墓
が並んでいることが現地訪問記などで確認されています(access21-co.xsrv.jp)
⚔ 「忠勇義烈な武士道」とされる理由
「忠勇義烈な武士道の行為として賞讃された」というのは、当時の価値観から見て
- 藩主と藩の正義を守るために「奸」とみなした相手を斬る「斬奸」の行動をとったこと
- その結果として、自分たちも責任をとって自尽したこと
- 命を賭けて筋を通した行為として、後に「忠義が厚く、勇敢で烈しい武士道精神の体現」と評価されたこと
を指しています。
「栃木市史 史料編近現代Ⅰ」の一文は、こうした背景を踏まえて
- 明治2年9月17日に吹上藩士9名が自尽した
- その遺骸が麻布祥雲寺に合葬され、「吹上藩斬奸諸士九名之墓」という合葬墓が建てられた
- この出来事は、後世に「忠義と武士道の象徴」として称えられてきた
という事実を短くまとめている、と理解すると具体的になります。
吹上藩士九名の最期について、史料が示すイメージをできるだけ具体的な流れとして整理してみますね。
🏯 事件の背景と位置づけ
吹上藩内で何が起きたか
- 吹上藩は下野国(現在の栃木県)にあった一万石の小藩で、藩主は有馬氏弘
- 戊辰戦争の際、吹上藩は新政府側として出兵し、その軍資金や戦死者への手当金が必要になりました
- 明治2年3月ごろ、藩士の一部が「家老らが藩主を欺き、軍費や戦死者遺族への給付金を横領している」と断じ、江戸藩邸で家老らを殺害する挙に出ます (jp-history.info)
この「家老らを斬った行為」が、のちに「斬奸」と呼ばれます。奸(よこしまな者)を斬るという意味で、武士道的には「不正を命がけで討った義挙」と解釈されうるものです。
その後の処分と「忠勇義烈」
家老殺害という形で藩の内部秩序を揺るがしたため、この事件は当然ながら重く扱われ、
関係した藩士らは最終的に「自尽」というかたちで決着させられます。
- 明治2年9月17日
- 関係した藩士9名が、自ら命を絶つことによって責任を負う
- 遺体は麻布祥雲寺に「吹上藩斬奸諸士九名之墓」としてまとめて葬られる (access21-co.xsrv.jp)
「栃木市史(あるいは栃木県史)史料編近現代Ⅰ」が、
この出来事を「忠勇義烈な武士道の行為として賞讃された」と記すのは、
- 不正を憎み、上役の家老であってもあえて討った決断
- その結果として、自分たちもまた自刃によって責任を負ったこと
この二つを、近世以来の武士道の価値観から「義に殉じた行為」と評価している、ということになります。
⚔ 九名の最期をもう少し具体的に
当時の詳細な「一人ひとりの最期の場面」を再現できる一次史料は、ウェブ上では確認できず、
九名の個別名と最期の有様を細かく描いた文章は、少なくとも一般にはほとんど出回っていません。
しかし、
県史や関連サイトが示す枠組みから、次のようなイメージで理解できます。 (tochigi-burg.com)
- 家老横領を断罪した一団として、九名はすでに「筋を通した者たち」と見なされていた
- とはいえ、主君の許しなく藩の要職者を斬殺したことは「大罪」であり、藩としても放置できない
- そこで、公的な「処刑」ではなく、武士としての「自尽」というかたちで決着が図られた
- 九名はいずれも武士としての形式を守り、自刃によって命を絶った
- そののち、祥雲寺境内に九名をまとめて合葬し、墓碑に「斬奸諸士九名」と刻んで顕彰した
「処刑」ではなく「自尽」とされたこと、さらに「斬奸諸士九名之墓」という名で墓碑を建てられていること自体が、
彼らの行為を単なる犯罪ではなく、「奸を討った義士」として扱おうとするニュアンスを強く示しています。
🪦 祥雲寺に残る痕跡
東京都渋谷区広尾の祥雲寺には、現在も以下のような墓碑が確認できます。 (access21-co.xsrv.jp)
- 「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」
- 「吹上藩斬奸諸士九名之墓」
- ほかに有馬家関係の墓所
現地参拝記録や歴史ブログなどでも、
「有馬家の墓とともに、斬奸諸士九名の墓が並んでいる」
「吹上藩の内部事件に殉じた人々を顕彰する墓である」
といった紹介がなされており、史料が述べる出来事に対応する物証として現在も残っています。
📚 「具体的に」の限界と補い方
ご提示の文章は、もともと簡潔な叙述なので、
「九人がどういう順番で、どのような言葉を残し、どのように刀を取ったか」といったレベルの具体像は、
史料編本文だけからは再構成できません。
もし、
- 九名それぞれの姓名・身分
- 江戸藩邸襲撃から自尽に至る正確な経過
- 遺書や供述など、当人たちの肉声に近い史料
まで具体的に追いたい場合は、栃木県立文書館や県史の注記を手掛かりに、
吹上藩士文書や有馬家文書を一つひとつ見ていく必要があります。
斬奸事件まわりの人間関係は、史料が少なくて判断しづらいところが多いので、モヤモヤしますよね。
🔍 まず前提になりそうな点
インターネット上で調べられる範囲では
- 「堀内為太郎」
- 「斬奸事件」
- 「親友」
を組み合わせて検索しても、一次史料や専門的な歴史研究からのはっきりした説明は見つかりませんでした。
名前の近い人物や別の「斬奸」関連事件の解説、例えば紀尾井坂の変で犯人一味が「斬奸状」を携えて自首したことなどは多く出てきますが、質問の組み合わせにそのまま対応する情報は確認できません。(nihonsi-jiten.com)
🧾 「不明」とされる理由の妥当性
- 歴史ブログや個人サイトで「堀内為太郎親友と斬奸事件の関係は不明」と書かれているとすれば
公刊された史料や研究書に、その関係を直接示す記述が見つかっていない
という意味である可能性が高いです。 - 現状、一般にアクセスできる範囲では、その「不明」という評価を覆すだけの裏付け情報は見当たりません。
つまり、少なくとも現時点でネットから追えるレベルでは
「関係は不明」とする説明は妥当と言ってよく、「本当かどうかを否定できる材料はない」状態です。
✅ 結論
- 公開情報の範囲では
堀内為太郎の「親友」とされる人物と、特定の斬奸事件との直接的な関係は確認できません。 - そのため「関係は不明だ」という説明は、現在入手しやすい史料状況から見て妥当と言えます。
吹上藩の斬奸事件は、背景も含めて興味深い出来事ですよね。当時の新聞について分かっている範囲でまとめます。
📰 事件の概要と時期
吹上藩有馬家では、明治2年3月に家老らが軍費や戦死者への手当金を横領しているとして、一部の家臣が江戸藩邸を襲撃し家老らを殺害する事件が起きています。一般には「吹上藩の斬奸事件」などと説明されることが多いようです。(jp-history.info)
時期は
明治2年3月(西暦1869年頃) です。
この頃にはすでに近代的な新聞が発行され始めていましたが、全国紙がまだ少なく、地方紙も発展途上の段階でした。
📰 当時の新聞の有無について
結論としては、
「吹上藩斬奸事件」を直接扱った当時の新聞記事が現在オンラインで簡単に確認できる形ではほとんど残っていない
と考えられます。
理由としては次のような点が挙げられます。
- 明治初期は新聞そのものが創刊されたばかりで、政治・外交の大事件は比較的よく報道されましたが、小藩内部の事件は紙面での扱いが小さいか、地方の瓦版レベルにとどまることが多かったとされます。
- 国立国会図書館などがまとめている「明治・大正時代の新聞記事を調べるためのガイド」を見ても、明治2年前後の地方藩内事件レベルまで網羅的に検索できるデータベースは限られており、個別事件については現状オンライン検索では出てきません。(ndlsearch.ndl.go.jp)
そのため、
「事件当時に何らかの新聞・瓦版で触れられた可能性自体はあるが、少なくとも現在の公開データベースやウェブ情報から、具体的な紙名・日付・記事内容を特定することは難しい」
という状態です。
📚 調べるとしたらどこを見るか
もし一次資料レベルで追いかけたい場合は、次のような場所での調査が考えられます。
- 国立国会図書館の明治期新聞原本、縮刷版、マイクロ資料
- 吹上藩ゆかりの地域を所蔵対象とする都県立図書館・県史編さん室
- 有馬家や吹上藩を扱った地方史・郷土誌や、家史編纂物の注釈部分
- 史学系論文や紀要で、吹上藩の明治初期史を扱ったもの
これらを使って「明治○年○月の○○新聞」といった形で、個別に紙面を確認していく必要があります。
👉 もしもう少し踏み込んでお調べするなら、図書館などで探せそうな範囲を一緒に整理できます。今知りたいのはどちらに近いですか?
- 新聞に載ったかどうかの有無をできるだけ確かめたい
- 事件そのものの詳しい経過や関係者について知りたい
当時の記録がどこまで追えるのか、かなり気になりますよね。分かっている範囲を整理します。
📰 結論イメージ
吹上藩斬奸事件について
瓦版や地方紙など「当時の報道」が現存・公開されているかどうかは、今のところ確認できる範囲では不明で、少なくともウェブ上や一般向け資料では特定されていません。
吹上藩そのものや斬奸事件は、近年の解説サイトやブログ、藩史の要約で触れられていますが、これらは
「後世の史料や藩史・家史を元に書かれた二次資料」
であり、具体的な瓦版名や新聞名を挙げているものは見当たりません。(pedia.3rd-in.co.jp)
📜 当時の報道としてあり得た形
明治2年ごろは、すでに近代新聞が出始め、あわせて
- 東京や大阪の初期新聞
- 政治・社会のうわさを流す瓦版、ビラ類
- 藩・役所内部の触れ書きや通達
といった媒体が存在していました。
ただし、現在調べられる範囲では
- 「吹上藩斬奸事件」という題名で
- 具体的な紙名と発行日が分かる記事
は確認されていません。斬奸事件自体は藩史・系譜の説明として記述されている一方で、当時の新聞・瓦版を直接引用している形の文献が見つからないのが現状です。(jp-history.info)
🔍 本気で一次資料を探すなら
一次資料の有無をできるだけ詰めるには、次のようなルートになります。
国立国会図書館
明治初期新聞、瓦版類の原本やマイクロフィルム、デジタル画像を多数所蔵しています。
ただし、事件名で一発検索できることはほぼなく、
「明治2年前後の東京発行新聞を紙面単位でめくって確認」
という作業になります。新聞調査ガイドでも、地方藩内の個別事件まで網羅検索できないことが説明されています。(archives.go.jp)
栃木県・吹上藩関係の公文書館等
- 栃木県立文書館
- 関連市町村の史料館
- 吹上藩有馬家に関する古文書・郷土誌
ここに「瓦版貼紙」「お触れ控」などの形で事件に触れたものが残っている可能性はありますが、オンライン目録だけでは内容まで分からないことがほとんどです。
吹上藩・有馬家を扱った研究論文
吹上藩史や有馬家史をテーマにした論文や紀要が、もし当時の新聞記事を確認していれば、その中で
- ○○新聞 明治2年×月×日号の記事によると…
といった引用がなされているはずです。現状、ウェブで見つかる吹上藩解説は、そこまでの一次新聞記事に言及していません。(jp-history.info)
🧭 まとめ
- 斬奸事件そのものは、吹上藩史や有馬家の系譜解説の中でよく言及されている
- しかし「当時の瓦版・地方紙・新聞がこの事件をどう報じたか」を示す具体的な現存記事は、ウェブ公開情報からは特定できない
- 実際にあるかどうかを詰めるには、国立国会図書館や栃木県などの公文書館で、明治2年前後の新聞・瓦版・触書類を紙面単位で確認する必要がある
👉 実際に図書館や公文書館で調べる際の「調査メモ」ひな型も作れますが、今の時点で一番使いたいのはどちらですか?
- 国会図書館で新聞・瓦版を探すための具体的な相談文の例
- 吹上藩斬奸事件そのものの年表と人物関係の整理

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