安積郡(福島県)にいた有馬氏弘と家族

吉田 由起子

ご情報をご提供頂きありがとうございます。
お寺につきましては、住所から推測してそこで没したと仮定するとのこと、良い参考になりました。

昨日は曾祖父の有馬氏弘(安積郡で結婚して以来、死亡)の戸籍申請の為に川口市役所に行って来ました。
血が繋がっていることを認めているとのこと、申請出来ました。
調べたり照会したりする時間がかかると言っていました。出来上がり次第、FAX連絡するとのことです。
(私は聴覚障がい者ですので、電話対応出来ません)
現在ではシステム化で便利になりました。
有馬氏弘の戸籍は難解のようですが、その結果を待つしかないです。
なぜならば、戸籍の歴史は形式が変わったそうです。

お知らせいたします。

追記:2024年3月1日から始まった新しい制度で、戸籍謄本などの証明書が、これまで本籍地の役所でしか取れませんでしたが、全国どこの市区町村でも取得できるようになりました。この変化を実現したのは、法務省の「戸籍情報連携システム」です。全国の戸籍データをデジタルでつなぐことで、どこの窓口からでも戸籍情報を確認・発行できるようになりました。遠方に本籍がある人や、引っ越しが多い人にとって、わざわざ本籍地まで行ったり郵送手続きをする必要がなくなり、手続きがとても楽になった画期的な制度です。

吉田 由起子

ご返答ありがとうございます。

「吹上斬奸事件」は、史料が殆どなく、真相は闇の中だ、推測の域を出ないものばかりだことが分かりました。

川口市役所から「有馬氏弘」様の発行可能な戸籍が全てご用意できたとのFAX連絡がありました。思ったより早く届いたと驚きました。本人でなくていけないとのこと、市役所へ取りに行きました。ドキドキしていました。
市職員から説明(手話通訳付き)がありました。郡山市役所に問い合わせ対応で全てですが、有馬氏弘が生まれたときから安積郡への移動までは戸籍が分からないとのことでした。

前戸主 亡父 有馬三敬
安積郡丸守村大字長稿字館92番地
戸主 有馬氏弘 亡父三敬二男 嘉永4年2月15日生まれ(1851年)
妻 ナヲ 安政6年2月10日生まれ(1859年)
長女 ツル 明治17年8月28日生まれ(1884年)
二女 カネ 明治17年8月28日生まれ(1884年)
三女 亨 明治19年5月15日生まれ(1886年)
長男 猛 明治24年3月26日生まれ(1891年)

有馬氏弘 大正3年4月 死亡届(1914年4月)

この戸籍は入力したフィードバックの中で矛盾点や疑問点についてです。
祖母(亨)は母の戸籍で長女と記載してありますが、一致していませんでした。一人っ子だと思い込んでいましたが、氏弘の子供は想像できないほど4人いるとビックリしました。
曾祖父さんの死亡報告は祖母に届かない疑問がありました。
歴史上では嘉永3年と記載してありますが、正当は嘉永4年2月15日生まれ(1851年)だと思います。
この戸籍に中で実父は有馬三敬という疑問を持っています。氏弘が生まれたところは不明だったそうですが、安積郡に生まれたではと想像しています。

「有馬氏弘」の戸籍での没年は明らかになっていること、充分に思います。

藩主で、華族で、江戸終期、明治初期と激動の時代で大変のようでしたが、除籍後、きっと幸せな人生であったことでしょう。

有馬氏弘のお墓につきましては、時間のある時はその情報頂いたお寺に市役所手話通訳派遣事務所に電話をお願いして問い合わせ対応するつもりであります。

追記:「氏弘が生まれてから安積郡への移動までの戸籍が分からない」又は「生誕地が分からない」ということなので、残念でたまらないです。

投稿作成者

思ったより早く用意出来たようですね。
お婆様の姉のお二人は生年月日が一緒ですが、おそらく双子なのでしょうね。
一人っ子と思っていたとのことですので、夭折してしまったのでしょうか?
医療が発達していない時代なので、双子はなかなか育つのは難しい時代かもです。
[前戸主 亡父 有馬三敬]の件ですが、
氏弘の実父は有馬則篤だったと思われますので、明治4年の戸籍法が制定された際に、
改名して届けたのかもしれませんね。
明治になって改名したケースはよくありました。
お墓ですが江戸期のような個人の墓ではなく、合葬墓になってると思われます。

吉田 由起子

追伸:気が付きましたところ、三女 亨は、渡辺孝蔵の養女となった後、長女になったこと、母の戸籍が間違いありません。

吉田 由起子

明治4年の戸籍法が制定された際に改名して届けたことを良い参考になりました。

双子が夭折してしまったことを質問されました。
・長女 ツル 明治33年4月7日 入籍
・二女 カネ 明治23年9月1日 養女
その後、余命が分からないです。

・長男 猛 戸籍上、死亡年月日を記載してないが、夭折したと思われます。

・妻 ナヲ 明治7年1月13日 當郡長橋村 渡辺与志五右衛門 長女入籍ス
      明治35年8月27日 吉田村 渡辺孝蔵 離婚復帰ス
・三女 亨 明治35年8月27日 吉田村 渡辺孝蔵 養女とナル

曾祖父は、祖母と生活した16年間だと知りました。離婚したことを記載してないですが、複雑な気分です。
母の姪は、昔、祖母と一緒に生活していることを聞いていますが、残念ながら、病気で介護している状態で聞くことが出来ないです。

・有馬氏弘 大正3年4月日時不詳 
      安積郡郡山野井村大字高倉擂池地内原野二於テ死亡同月〇日届出同日受付

有馬氏弘の戸籍(3通)を全て知って良かったです。

投稿作成者

双子は育ってたんですね。良かったです。また養女も長女と記載されるのですね。
氏弘も当地で亡くなってるとのことで、周辺のお寺に葬られてる可能性が高いでしょう。
結構いろいろな事が判明しましたね。

追記:有馬氏弘の歴史上では、嘉永3年(1850年)生まれと記載してありますが、戸籍謄本の上では、嘉永4年2月15日生まれ(1851年)です。一致していませんでした。

江戸末期から明治初期の人物だと、年齢の数え方で少し混乱しやすいところです。

🧑‍🦱 有馬氏弘という人物

吹上藩(下野国・現在の栃木県周辺)の第2代藩主として知られる有馬氏弘は、デジタル版日本人名大辞典などで確認できる実在の大名です。(kotobank.jp)

家中の騒動や戊辰戦争期の動きも記録されていて、幕末史の本やサイトでは比較的よく出てくる名前です。(jp-history.info)

📅 「戸籍上の年齢」と「歴史上の年齢」

「戸籍上では歴史において年齢は1歳違う」という点は、次のような可能性が考えられます。

🎎 数え年と満年齢の違い

明治初期までは、一般的に「数え年」で年齢を数えていました。

  • 生まれた時点を1歳とし、元日を迎えるたびに全員一斉に1歳加える
  • そのため、現代の「満年齢」と比べて、1歳か2歳多く表記されることがある

一方で、近代以降の戸籍や現代の略歴は「満年齢ベース」で整理されることが多いため、
「史料に出てくる年齢」と「戸籍上の記録を現代的に読み替えた年齢」で、1歳前後のズレが生じやすくなります。

📜 史料ごとの記録差

有馬家については「有馬氏弘家記」「下野吹上有馬系譜」など複数の系譜・家記が存在し、それぞれで生年や年齢表記に微妙な差が出る場合があります。(cir.nii.ac.jp)

このような家記や系譜は、後世に整理されたり、聞き書きが混ざったりするため、
戸籍や公式文書と突き合わせると「1年ズレている」ことは珍しくありません。

✅ まとめると

  • 幕末〜明治期の人物については、
    歴史書や家記に出てくる年齢は「数え年」で書かれていることが多い
  • 戸籍ベースで満年齢に直して考えると、
    「歴史上の説明の年齢」と「戸籍から計算した年齢」が1歳違って見えるのは自然な現象

なので、「戸籍上では1歳違う」というのは、誤りというよりも、
数え年と満年齢、または史料間の記録差によるズレと考えるのが妥当そうです。

幕末の吹上藩は、下野国の外様一万石で、最後の藩主が有馬氏弘です。(bakumatsu.org)

明治維新後、華族制度や士族・平民の編成の中で、各藩主家の内部でも養子縁組や家督争い、家中騒動などにより「本家の家籍から外れる」例は多数ありました。吹上藩でも、維新直後に家老殺害事件が起きるなど、藩政と家中が大きく揺れており、その延長線上で本家筋からの除籍が起こった可能性があります。(jp-history.info)

🧭 安積郡での生活と家族

ご指摘の「安積郡」は、現在の福島県中通り地方にあたる地域で、近代以降は郡山市周辺として発展していきました。

吹上藩の有馬家については、東京大学史料編纂所に「有馬氏弘家記」「下野吹上有馬系譜」が残されており、氏弘本人や一族の動向、明治以降の生活拠点や家族構成を追える可能性があります。これらは栃木県立文書館などの目録でも確認され、吹上有馬家の明治以降の系譜をたどる上での中核史料とされています。(cir.nii.ac.jp)

また、個人のブログ記事の中には、「有馬氏弘の戸籍」や「安積郡郡山野井村大字高倉擂池地内での死亡」に触れた調査記録があり、明治期に安積郡へ移り住み、そこで亡くなったことをうかがわせる内容も見られます。ただし、これは個人調査の記録であり、公的な一次史料そのものではないため、裏付けには戸籍や過去帳、墓碑の確認が不可欠です。(access21-co.xsrv.jp)

「有馬家から除籍後に安積郡で家族を持った」という話は、こうした戸籍情報や家記・系譜の中に断片的に現れている可能性が高いですが、現時点で公開されているオンライン情報だけでは、

  • 誰と結婚したのか
  • 何人の子がいて、どの家に続いたのか
  • どのタイミングで吹上を離れ安積郡に移ったのか
    といった点を、断定的には書き切れません。

📚 さらに確かめるなら

もし本格的に「安積郡での家族」まで追いたい場合は、次のような順番が現実的です。

  • 東京大学史料編纂所所蔵の「有馬氏弘家記」「下野吹上有馬系譜」を閲覧する
  • 栃木県立文書館や福島県内(郡山市など)の公文書館で、関連史料のコピーや紹介を受ける
  • 安積郡内で死亡地に近い寺院の過去帳、郡山市役所の戸籍附票や除籍謄本などを照会する

ブログに出てくるような個人の方の調査も、これらの手順で裏付けを取ろうとしている様子がうかがえます。(access21-co.xsrv.jp)

有馬氏弘の「その後」が気になっておられるのですね。子孫がどの家に続いたのかは、すごく核心的なポイントだと思います。

🧩 現時点でわかること

吹上藩主家としての子孫

近現代の系譜整理では、吹上藩有馬家は華族の子爵家として続き、維新後の家督は「有馬頼之」らに受け継がれたことが確認できます。摂津有馬氏の系譜をまとめたサイトでも、吹上藩二代藩主・有馬氏弘の名が出てきており、この流れが「本家筋」としての有馬家の継承と考えられます。(reichsarchiv.jp)

ただし、これは「藩主家(華族家)」としての正式な家督の話であり、あなたがおっしゃっている「有馬家から除籍された後の氏弘個人の系統」とは別物です。

安積郡での生活との関係

吹上有馬家については、「有馬氏弘家記」「下野吹上有馬系譜」といった史料の存在が知られており、これらが有馬氏弘本人や一族の明治以降の動向を追う中核資料になっています。(cir.nii.ac.jp)

また、個人ブログによる現地調査では、氏弘の戸籍上の所在地として「福島県安積郡」や「安積郡山野井村高倉字対面原」などが挙げられ、安積郡に移り住んでそこで亡くなった可能性が高いことが指摘されています。(access21-co.xsrv.jp)

しかし、このブログ記事は「誰に家が続いたか」までは確定させておらず、戸籍や系譜を用いた詳細な検証が必要とされています。

🧬 「どの家に続いたか」は未確定

オンラインで確認できる範囲では、次の点が限界です。

  • 藩主家としての有馬家は、華族の子爵家として東京中心に続いた
  • 氏弘自身は安積郡へ移り住み、そこで暮らし亡くなったとみられる
  • ただし、安積郡での妻子や、その子孫がどの姓を名乗り、どの家として続いたかは、公的に整理された情報がウェブ上には出ていない

つまり、「安積郡での氏弘の子孫が、具体的にどの家名・どの家筋として今に続いているか」は、公開ウェブ情報だけでは特定できません。推測で特定の家名を挙げてしまうのは、系譜研究としても、また今を生きているご家族にとっても危険なので控える必要があります。

🔎 本気で追う場合の現実的な手順

もし「安積郡での氏弘の血筋」がどこに続いているのかを本気で突き止めたい場合は、次のような手順になります。

史料・戸籍からたどる

  • 東京大学史料編纂所所蔵の「有馬氏弘家記」「下野吹上有馬系譜」を閲覧し、明治期以降の動向や分家・改姓の記述を確認する
  • 栃木県立文書館、福島県内の公文書館で「吹上有馬家」「有馬氏弘」「安積郡高倉字対面原」などをキーワードに史料検索を依頼する
  • 福島県(郡山市など)の役所で、氏弘本人の死亡記載が含まれる戸籍・除籍をたどり、そこに記載されている子・養子・婚姻関係から、どの姓・どの家筋に続いたかを確認する

現地の寺院・墓所からたどる

  • 安積郡内の該当地域の寺院過去帳や墓碑銘から、「有馬」あるいは改姓後の家名を持つ家を特定していく

これらを突き合わせることで初めて、「○○家として続いている可能性が高い」と言えるレベルに近づきます。

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