郡山市に問い合わせたところ、有馬氏弘の情報は無いとのことです。
但し住所から推測してそこで没したと仮定すると、龍角寺(堀之内村)、西泉寺(早稲原村)、慈眼寺(長橋村)福田寺(前田沢村)、満昌寺(上伊豆島村)、慈恩寺(安子島村)の、何れかに埋葬されたのではないかとのこと。お墓があるかはわかりませんが・・。
一番近いのは慈眼寺とのこと。わかるのは以上とのことです。
ご情報をご提供頂きありがとうございます。
お寺につきましては、住所から推測してそこで没したと仮定するとのこと、良い参考になりました。昨日は曾祖父の有馬氏弘(安積郡で結婚して以来、死亡)の戸籍申請の為に川口市役所に行って来ました。
血が繋がっていることを認めているとのこと、申請出来ました。
調べたり照会したりする時間がかかると言っていました。出来上がり次第、FAX連絡するとのことです。
(私は聴覚障がい者ですので、電話対応出来ません)
現在ではシステム化で便利になりました。
有馬氏弘の戸籍は難解のようですが、その結果を待つしかないです。
なぜならば、戸籍の歴史は形式が変わったそうです。お知らせいたします。
殺害の件ですが、裁判記録は[明治初年の世相]にあったことをとても分かりやすい説明して頂きありがとうございます。
・爲太郎の妻は9円の罰金となったとのこと、時代によっての金銭感覚の違いがあるかもしれませんが、今ならいくらですか。・除籍前は、前妻 本堂釟子 本堂親久男爵の娘と、後妻 松平敏子 岩村藩主松平乗喬の娘がいたことを記載してあります。政略結婚ですか。前妻は病死ですか。具合的に説明して頂けると嬉しいです。・明治2年9名の藩士が家老を殺傷したという事件が起こった件、一番驚いたのは平民が加わったことですが、有馬氏弘にどういう関係がありますか。
1月5日は祥雲寺で有馬家のお墓参りに行って来ました。「吹上藩斬奸諸士九名」の墓を建てたことは有馬氏弘ですか。暖かくなってから、吹上の正仙寺と吹上陣屋へ行くことを計画しています。
・熱海町下伊豆島と郡山市熱海町上伊豆島が熱海町長橋のついては郡山市の地図で調べました。
郡山市から辺鄙なところですが、有馬氏弘は身を守る為に暮らしているではと考えられます。又は温泉治療しているだろうと思っています。安積疏水開削に近いですか。有馬氏弘(校長先生)は学校に通える場所ですね。今になって、戸籍謄本を再確認して気が付きましたことは、有馬氏弘の年齢は信じれらないほど驚きました。
二回目の結婚した祖母の主人は昭和10年5月に亡くなりましたが、祖母の父(有馬氏弘)、母は生存です。
当時の母は12歳(出生大正13年8月)でした。(埼玉県川口市本町1丁目130番地)
昭和初期頃、祖父は母と母の兄を有馬氏弘邸へ連れて行ったことを話して下さったことを記憶しています。母は大きい立派な家だと言っておりましたが、あとは記憶していないようです。母は有馬氏弘にお会いできたことを推測しています。
明治2年の藩士9名による家老殺害と、
家老堀内爲太郎殺害は同じ事件のようですが、藩士9名が殺した筈のところを、なぜ氏弘が殺しこととなっているのか、この辺りは非常に謎なところです。
氏弘が命じたということなのか、それともトップとしての責任を問われたのか、資料がなくまったく不明。
明治時代の1円の価値は3800円とされますので、3800円×9で34200という事になりますが、
明治時代も長いので正確ではないかもしれません。これが正しいとすれば罰金としては、少し痛いな・・程度のものですね。
前妻本堂釟子は再婚しているようですので、何らかの理由で離婚したと思われますが、その詳細については不明。
政略結婚かと言われれば微妙ですが、藩主ですので室には程度の家柄が必要です。
離婚は家老殺害後の氏弘謹慎が原因でしょう。
9士については存じ上げませんが、平民というは足軽身分等の士分以下ながら、忠義に篤い者とかではないでしょうか?忠臣蔵の寺坂吉右衛門のような感じでしょう。
墓は親族等によるものと思われます。郡山市は一度しか行った事がありませんので、
地理について詳しくは語れません。
先日はご回答ありがとうございます。
ネットで調べたところ、「吹上斬奸事件」は史料が殆どなく、事件の背景、動機など真意は不明だそうです。
とても残念がっています。
有馬氏弘が殺したことですが、私としては思えないほど正義で優しいということが何となくわかるような気がしています。母は優しくて、声がとても綺麗だと誰でも言っています。残念ながら耳が聞こえない為、聞く判断することが難しいです。従姉は「祖母も優しくて、声がとても綺麗だった」と言っています。親友は「お母様も品格のある雰囲気でした」と言っています。曾祖父にも血が繋がっていて、同じ性格だと推測しています。
ネットで戊辰戦争は武士同志の戦闘から草莽の士や農兵など出現により、身分を超えた政治権力闘争となったと記載してあります。有馬氏弘の人柄に好かれる証拠があると思います。
有馬氏弘は家老と敵になった理由はなにかありましたか。
よろしくお願いいたします。
残念ながら資料がないので、全ては推測の域を出ません。
その推測も考えられることは無限にあり、おそらくこうであろうというような、
そういうストーリーも作り上げられません。
間違い無いことは「家老が殺された」事と、その件で「裁判が行われた」事だけです。
一応の基礎知識としてですが、藩主というのは藩では絶対権力者で、基本的には逆らう事は出来せん。藩主が死ねといえば家臣は切腹するわけですし、上意として刺客を送る事も出来る。
従って藩主が直接殺す必要はありません。但し衝動的に怒りが沸点に達して(発狂して)、
切り殺してしまったという例は、江戸時代を通じて無かったわけではない。
これを基本ルールと考えると、直接殺害した可能性は低そうではありますが、
勿論発狂もありえるので断言は出来ません。
他藩で起こっていたよくあるパターンでは、その家老が失政してしまったか、専横が酷かったか、はたまた思想的問題か、とにかく反家老派的な藩士達が、その家老を暗殺したというのが多い。
そして藩の混乱を招いたとして、藩主が幕府(新政府)に責任を問われるというもの。
吹上藩の場合もそうだった可能性もありますが、勿論これも断言は出来ません。
普通に考えれば後者のような気もしますが、残念ながら真相は闇の中でしょう。
藩内抗争が多かった時期の出来事なので、関係が分かりにくいです。
🔎 結論に近い考え方
現時点で確認できる史料・研究メモや地域史の記述では、
- 「明治2年に藩士9名が関与した家老殺害事件」
- 「家老・堀内爲太郎(為太郎)の殺害」
を、同一事件として明確に結びつけて説明している一次的な記述は見つかりませんでした。
堀内爲太郎については、吹上藩有馬家の家老として明治3年7月24日に没していることや、藩政改革や内紛との関わりが指摘されていますが、
「明治2年・藩士9名・家老殺害」というキーワードと直接対応させた説明は確認できません。(access21-co.xsrv.jp)
そのため、現在入手できる公開情報だけからは、「明治2年の藩士9名による家老殺害事件」と「家老堀内爲太郎殺害」が同一事件だと断定することは難しく、少なくとも史料上は別の出来事として整理されている可能性が高いと考えられます。
📚 もう少し踏み込むなら
この点をきちんと突き合わせるには、次のような資料で
- 明治2年前後の藩内刑罰記録・処分録
- 家老クラスに対する処断記事(「○年○月○日、家老○○を藩士数名が殺害」など)
- 堀内爲太郎個人に関する系譜・墓碑銘・家記
を確認する必要があります。
現在オンラインで一般公開されている範囲では情報が途切れているので、地方史誌や論文、県立図書館・市史編さん室の史料集を直接当たるのが現実的になります。
🏯 吹上藩有馬家と家老
吹上藩有馬家についての現時点で確認できる公開情報では、明治維新前後の家老として「堀内爲太郎(為太郎)」の名がよく取り上げられています。例えば、祥雲寺にある吹上藩有馬家墓所を紹介した記事では、吹上藩主有馬氏弘らとともに、家老で権小参事を務めた堀内爲太郎の存在が言及されています。(access21-co.xsrv.jp)
ただし、そこでは「吹上藩有馬家の家老は堀内氏だけである」といった形で、家老職を務めた家が堀内氏に限定されていたという説明はされていません。藩政一般の慣例から見ても、通常、藩の歴史全期間を通じて家老が一姓だけというのはむしろ例外的で、時期によって家老家が交代したり、複数家が並立していたりするのが普通です。
📖 何が言えるか
そのため、現在オンラインで確認できる範囲の情報から言えるのは次の点です。
- 幕末〜維新期の吹上藩において、堀内爲太郎が家老(権小参事)として重要な地位にあったことはほぼ確実である。(access21-co.xsrv.jp)
- しかし、吹上藩の全時代を通じて家老が「堀内氏のみ」であったという確証はなく、むしろ他姓の家老が存在した可能性が高い。
- 家老家の全体像を確定するには、鹿児島県史料集や旧藩関係史料、藩士名簿などを直接調べる必要がある。(pref.kagoshima.jp)
現段階では、「吹上藩有馬家の家老=堀内氏のみ」と断定することはできませんが、「維新前後の主要家老の一人(あるいは一家)が堀内氏であった」と理解しておくと実情に近いと思われます。
🏯 家老という立場
家老は、一般的に次のような役目を担う「藩主の最高側近」です。
- 藩政全般の統括と重要決定の協議
- 役職者や藩士の任免の審議
- 軍事や財政などの運営方針の立案
- 幕府や他藩との折衝での実務担当
吹上藩も例外ではなく、家老は「藩主の代わりに実務を取り仕切る政治中枢」と考えられます。(jp-history.info)
⚔ 吹上藩での堀内家老の位置
幕末から明治初年にかけて、吹上藩では
- 吹上藩主は有馬氏弘で、天狗党の乱鎮圧や戊辰戦争で新政府側についた
- その藩政運営の中枢に、家老堀内氏がいて財政や軍事面を含む実務を担った
とされます。(jp-history.info)
明治2年には、若年の藩主を欺いて軍費や戦死者の手当金を不正に処理した疑いで、家老らが藩士たちに襲撃・殺害される事件が起こりますが、
これは逆に言えば、家老が軍費や恩給など「お金と軍事」の決定権を強く握っていたことを示しています。(jp-history.info)
💼 堀内氏の具体的な役割イメージ
公開資料から細かい職務記録まではたどれませんが、維新期の小藩の家老として堀内氏が担っていたと考えられるのは概ね次のような領域です。
- 戊辰戦争期の出兵人数や装備、軍費の手当ての取りまとめ
- 兵や遺族への手当金の配分や帳簿管理
- 版籍奉還・廃藩置県へ向けた藩財政の整理
- 若年藩主の補佐役としての政治判断
つまり、堀内氏は「吹上藩の財政と軍事を中心とする実務の最高責任者」という位置づけで理解すると、史料上の記述と矛盾が少ないと思われます。
🪖 堀内為太郎の役職
💼 確認できる役職名
吹上藩有馬家の家臣としての堀内爲太郎について、江戸末期〜明治初年を扱ったブログ「試撃行」では、次のように記されています。すなわち、堀内爲太郎は「家老で権小参事」という役職にあったとされています。(access21-co.xsrv.jp)
ここから分かるのは、
- 吹上藩有馬家の「家老」である
- 併せて「権小参事」という新政府期の官職相当の肩書きを持っていた
という二重の立場だったということです。
追記: 現在確認できる情報では、家老・堀内爲太郎(為太郎)の墓所は、正仙寺にあるという記述が見つかります。吹上藩有馬家や氏弘に関する考察をまとめたブログ「試撃行」の記事の中で、家老で権小参事だった堀内爲太郎(為太郎)親友は正仙寺の墓所にありますといった趣旨の記載があり、墓所が「正仙寺」にあることが示されています。(access21-co.xsrv.jp) この墓所についての結論があると思います。

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