曾祖父有馬氏弘の墓所発見の日― 安積郡対面原で味わった曾孫としての驚きと感謝

2026.8.13 特報記事

2026年7月18日、安積郡の日和田町・対面原開墾の田んぼの中にある小さな共同墓地で、私は思いがけず「有馬氏弘」という名前を刻んだ墓石の前に立ちました。
久留米21万石の旧藩主だった曾祖父の墓が、安積郡の鶴番という一角で見つかった瞬間の、夢のような驚きと胸の奥からこみ上げてきた感情を、この日の記録として残しておきたいと思います。

安積開拓の地・対面原の一角、日和田町鶴番の共同墓地で、長く行方の分からなかった曾祖父・有馬氏弘の墓所が見つかりました。
史料と地図をたどり、多くの方の助けを得てようやくたどり着いたこの場所で、曾孫として静かに感じた感謝と安らぎを、安積郡の風景とともに綴ってみます。

明治のはじめ、いまの郡山市一帯は「安積原野」と呼ばれる、乾いた広い原野でした。
水利が悪く、畑を作っても思うように実らない土地だったと言われています。ここに大きな変化をもたらしたのが、安積開拓と安積疏水の事業でした。安積疏水は猪苗代湖の水を安積地方に引き、不毛の原野を田んぼの広がる土地へ変えた国家事業であり、その第一号の国営開拓地として選ばれたのが、曾祖父の墓所が見つかった対面原一帯でした。(maff.go.jp)

安積開拓は、東北振興と士族授産を兼ねた事業として、全国九藩の旧士族500戸が入植したとされています。その中でも久留米藩士族は最多で、対面原には64戸が入植したことが一覧表に残されています。(bunka-manabi.or.jp)

🌅 発見の日の驚き

7月18日、夏の光が強く照りつける午後でした。
福島県郡山市日和田町、対面原開墾地内の「鶴番」という地区にある共同墓地で、私は思いがけないものを目にします。
歴史研究家の庄司一幸さんと安積町郷土史研究会会長の我妻幸光さんが、静かな墓石の列の中から一基を指さし、「有馬氏弘」の名を示してくれたのです。
その瞬間、これは夢ではないかという驚きと、長い時間をかけて探してきた答えにようやく触れたような感覚が、同時にこみあげてきました。

🌾 なぜここが対面原なのか

曾祖父の墓所があったこの一帯は、明治のはじめ、水の乏しい原野だった安積郡を切り開くために、全国から旧士族が入植した「対面原開墾」と呼ばれる土地でした。久留米をはじめ各地の藩出身の人びとが、ここで新しい暮らしを始めた場所でもあります。

1. 対面原開墾と安積郡―曾祖父がいた風景

明治のはじめ、今の郡山市一帯は「安積原野」と呼ばれる広い原野でした。
水が乏しく、作物を安定して育てるのが難しい土地でしたが、ここに大きな変化をもたらしたのが、安積開拓と安積疏水の事業です。(bunka-manabi.or.jp)

安積開拓は、東北地方の振興と、旧士族の暮らしを立て直すことを目的にした国の事業でした。
九州の久留米をはじめ、全国各地から旧藩の士族たちが家族とともに移り住み、鍬を入れ、田畑を開いたとされています。(kanko-koriyama.gr.jp) その入植地のひとつが、曾祖父の墓所が見つかった対面原開墾でした。
対面原は、現在の郡山市喜久田町・熱海町・日和田町などにまたがる一帯で、久留米藩士族の入植地として六十四戸が置かれたことが記録に残っています。(ygityu.blog.fc2.com

2. 久留米藩難事件から安積開拓へ―氏弘の歩んだ道

曾祖父・有馬氏弘は、筑後久留米二十一万石の有馬家の当主として、明治維新前後の激動期を生きた人物です。
久留米藩をめぐる政変や「久留米藩難事件」の中で、有馬家は大きな打撃を受け、その後の華族時代を経て、氏弘は家督を返上しています。(crd.ndl.go.jp)

その後、東京での華族生活から離れ、どのような経緯で安積郡へと向かったのか。
ここには、安積開拓における久留米藩士族の入植や、旧藩主と家臣団との関係など、まだ十分に解き明かされていない問いが残されています。(kanko-koriyama.gr.jp)

本記事では、氏弘の足跡をたどる中で見えてきた、久留米から安積へと続く道筋を、現在確認できる史料の範囲で整理してみたいと思います。

3. 資料と地図を追って―墓所探索の手掛かり

氏弘の墓所を探す旅は、一枚の地図と数本の文献から始まりました。
郡山の郷土資料や、安積開拓に関する一覧表には、対面原開墾に久留米藩士族が入植したことが記されていますが、個々の家の墓所までは分かりません。(ygityu.blog.fc2.com)

そこで、安積開拓の入植地図、地籍図、郡山市の農業振興地域台帳などを照らし合わせながら、「対面原」「日和田町鶴番」といった地名を一つひとつ確認していきました。(city.koriyama.lg.jp)

さらに、郡山地方の郷土史家の方々からいただいた情報や、久留米藩に関する文献などを組み合わせることで、「氏弘の晩年は安積郡のこのあたりにあったのではないか」という仮説が少しずつ形になっていきました。

4. 七月十八日、鶴番共同墓地での「奇跡」

ここで、最初にご紹介した7月18日の場面に戻ります。
日和田町鶴番の共同墓地の前に立ったとき、私は「ここに本当に曾祖父の墓があるのだろうか」と、半信半疑の思いでした。

しかし、庄司さんと我妻さんは、これまでの資料調査や現地の聞き取りを踏まえ、「この墓地のどこかに手掛かりがあるはずだ」と確信を持っておられました。
古い墓石を一つひとつ確かめる中で、「有馬氏弘」の名が見つかったのです。

5. 墓碑が示す氏弘の晩年と一族のその後

墓碑に刻まれた戒名や没年、続けて書かれている文字を読むことで、氏弘の晩年の姿が少しずつ浮かび上がってきます。
安積郡での暮らしぶり、家族との関係、一族のその後の動きなど、これまで断片的だった情報が、対面原の共同墓地という一点を中心に結びつき始めました。

また、同じ共同墓地には、他の入植者やその家族と思われる墓碑も並んでおり、安積開拓にかかわった人びとの「その後」を静かに物語っています。
曾祖父の墓所は、個人史であると同時に、安積開拓という大きな歴史の一部でもあるのだと実感させられました。

6. 安積開拓の歴史の中に曾祖父を位置づける

安積開拓や安積疏水に関する解説を読むと、この事業は「東北振興」と「士族授産」のモデルケースとして位置づけられています。(bunka-manabi.or.jp)

その中に、久留米からの士族移住という流れがあり、さらにその端に、曾祖父・有馬氏弘の人生の終章が重なっていた可能性があります。
一人の祖先の墓所をたどることが、やがて地域の歴史や、明治国家が描いた「開拓」のビジョンを考え直すきっかけにもなっていく。

🌏 1. 対面原開墾と安積郡―曾祖父がいた風景

明治のはじめ、いまの郡山市一帯は「安積原野」と呼ばれる、乾いた広い原野でした。
水利が悪く、畑を作っても思うように実らない土地だったと言われています。ここに大きな変化をもたらしたのが、安積開拓と安積疏水の事業でした。(bunka-manabi.or.jp)

郡山では、まず明治6年、郡山の商人たちが「開成社」という組織をつくり、大槻原に鍬を入れたことから、安積開拓が始まります。これがやがて、明治政府による国営の安積開拓へと広がり、東北振興と士族授産を兼ねた一大事業として進められていきました。(anrekihaku.or.jp)

一方で、水の問題を解決するために計画されたのが、猪苗代湖から水を引く「安積疏水」です。山を越えて長い水路を掘り、不毛の原野に水を届けるという構想は、当時としても大きな挑戦でした。安積疏水の通水により、安積原野は少しずつ田んぼの広がる土地へと姿を変えていきます。(bunka-manabi.or.jp)

こうした開拓と疏水の事業に合わせて、全国の旧藩士族に向けて「新しい土地で暮らしを立て直さないか」という呼びかけが行われました。久留米をはじめ、各地の士族たちが家族とともに安積の地へ移り住み、原野を田畑へと変えていきました。久留米藩士族は、その中でも最大規模の入植者集団だったとされています。(ygityu.blog.fc2.com)

曾祖父・有馬氏弘の墓所が見つかった「対面原開墾」は、その安積開拓の舞台の一つです。対面原は、現在の郡山市喜久田町や熱海町、日和田町などにまたがる一帯で、久留米藩士族の入植地が置かれていました。水が引かれたばかりの田んぼが広がる風景の中で、各地から集まった士族たちが、家族とともに新しい暮らしを始めた場所でした。(bunka-manabi.or.jp)

その対面原の一角、日和田町鶴番の共同墓地に、曾祖父・氏弘の墓所が残されていたことになります。華族時代を経て、最終的にこの開拓地の中で一生を終えたのだと考えると、安積原野の風景は、単なる郷土史の舞台ではなく、曾祖父の人生の終章が刻まれた場所として、ぐっと身近なものに変わって見えてきます。


⚔ 久留米藩難事件から安積開拓へ―氏弘の歩んだ道

曾祖父・有馬氏弘の一生を振り返るとき、どうしても外せないのが久留米藩の動揺と「久留米藩難事件」と呼ばれる一連の出来事です。
筑後国久留米は、有馬氏を藩主とする21万石の城下町として江戸時代を通じて続いてきましたが、幕末から明治維新にかけて、藩内の政治対立と新政府との関係の中で、大きく揺さぶられました。(crd.ndl.go.jp)

戊辰戦争の前後、久留米藩内では尊王と佐幕、急進と穏健といった複数の対立がからみ合い、その過程で、有馬家の立場も変化を迫られました。やがて藩政をめぐる混乱は「久留米藩難事件」として知られる騒動に発展し、有馬家を含む藩の中枢は、大きな傷を負うことになります。

明治維新後、有馬家は華族として存続しますが、かつて二十一万石を治めた旧藩主家であっても、明治国家の新しい秩序の中で、旧来の地位と収入をそのまま保つことはできませんでした。華族としての格式と、実際の家計や生活とのあいだには、目に見えない負担が積み重なっていったはずです。(crd.ndl.go.jp)

一方で、明治政府は、版籍奉還と廃藩置県によって旧藩主と士族の身分を大きく変えながら、彼らに対しても新たな役割を求めていました。その一つが、「士族授産」と呼ばれる政策です。禄を失った士族たちに、農業や殖産によって生計を立てさせるため、各地で開墾事業への入植が呼びかけられました。(maff.go.jp)

その「士族授産」のモデルケースとして位置づけられたのが、安積開拓でした。明治11年、国営安積開墾の第一陣として、旧久留米藩士族が郡山に入植します。久留米士族は九藩から集まった約五百戸のうち、141戸580人余りと、もっとも大きな集団でした。(city.kurume.fukuoka.jp)

久留米士族の入植地は、郡山南部の大蔵壇原(現在の久留米地区)にはじまり、その後、希望者が絶えなかったため、北部の対面原にも広がっていきました。対面原では「久留米開墾社」が結成され、入植者たちは、安積疏水から引かれた水を頼りに、田畑の造成と新しい暮らしの立ち上げに取り組みました。(bunka-manabi.or.jp)

曾祖父・氏弘が、この久留米士族の入植とどのように関わったのかは、まだ完全には見えていません。ただ、久留米藩難事件を経て、旧藩主としての立場を揺さぶられた氏弘の晩年が、かつての家臣たちが新たな生活基盤を求めて移り住んだ安積郡の地と重なっていることは、決して偶然とは思えません。

東京での華族生活から離れ、最終的に安積郡に身を置いた背景には、久留米藩の歴史と、国が進めた「士族授産」の流れ、その両方が影を落としていたのではないか。
この節では、そうした大きな時代の動きの中に、曾祖父の一生をそっと置いてみることにしました。


🗺 資料と地図を追って―墓所探索の手掛かり

曾祖父・有馬氏弘の墓所を探す旅は、最初から対面原や鶴番に目星がついていたわけではありません。
むしろ当初は、安積郡のどこに眠っているのか、まったく見当がつかない状態からの出発でした。

手掛かりとなったのは、まず文献に現れる安積開拓と久留米士族の入植の記録でした。郡山市や福島県、国立国会図書館が提供している解説や資料目録には、安積開拓に参加した九藩の士族のうち、久留米藩士族がもっとも多く、入植地が大蔵壇原や対面原などに広がっていたことが記されています。(crd.ndl.go.jp)

さらに、安積疏水と開拓の歴史を紹介するウェブ資料や郷土史研究者の解説から、対面原という地名が、喜久田町や日和田町一帯の開墾地を指していること、その中に久留米士族の集団入植地があったことが分かってきました。(bunka-manabi.or.jp)

しかし、「対面原」や「久留米士族の入植地」という言葉だけでは、曾祖父個人の墓所にたどり着くことはできません。そこで次の段階として、地図や地籍資料にあたることになりました。
郡山市が公開している歴史資料の目録や、明治期の地籍図、開墾関係の図面などを確認し、どのあたりに共同墓地が置かれていたのかを一つひとつ見ていきました。(adeac.jp)

この過程で心強かったのは、郡山地方の郷土史家の方々からの助言でした。熱海史談会の大内さんや、郡山地方史研究団体連絡協議会の柳田さんからいただいた資料やメールを手に、安積開拓に関する書籍や『安積野士族開拓誌』の名簿を読み返すことで、「対面原」「日和田町」「鶴番」といった地名が、具体的な場所として少しずつ立ち上がってきました。

一方で、寺院の記録も重要な手掛かりでした。正仙寺、祥雲寺、曹渓寺など、これまでご縁のあった寺院に問い合わせや調査をお願いし、安積郡内で有馬家や氏弘の名が記録に残っていないかを確かめていきました。結果として、直接の記録は見つからなかったものの、「このあたりの共同墓地に士族の墓が多い」といった情報が、後の現地調査につながっていきます。

こうした文献、地図、寺院の情報、そして郷土史家の方々からの聞き取りが積み重なって、「曾祖父の墓所は、対面原開墾地内のどこかにあるのではないか」という仮説が次第に強まっていきました。
最終的に、日和田町鶴番の共同墓地を候補地として絞り込むことができたのは、この仮説を信じて、何度も地図を見比べ、現地の地形と照らし合わせてくださった庄司一幸さんと我妻幸光さんのお力によるところが大きいと感じています。

この節では、史料の一行の地名が、どのようにして実際の土地の風景となり、やがて一基の墓石へと行き着いたのか、その道のりを改めて振り返ってみました。


🌾 七月十八日、鶴番共同墓地での「奇跡」

七月十八日の午後、安積郡の空はよく晴れていました。
福島県郡山市日和田町、対面原開墾の田んぼがひろがる一角にある「鶴番」という小さな地区の共同墓地に向かう道すがら、私はまだ半分ほど現実感のないまま、足もとだけを見つめて歩いていました。

「本当に、この先に曾祖父の墓があるのだろうか。」
そう自分に問いかけても、はっきりとした答えは返ってきません。これまで、どれだけ資料を読み、地図を眺めても、墓所の場所だけは霧の中のようでした。

案内してくださったのは、郡山在住の歴史研究家・庄司一幸さんと、安積町郷土史研究会会長の我妻幸光さんでした。
お二人は、安積開拓と対面原の歴史、久留米士族の入植や、地元の方々の記憶に精通しておられます。そのお二人が、「ここではないか」という候補地として挙げてくださったのが、日和田町鶴番の共同墓地でした。

田んぼを渡る風に、稲がさわさわと揺れています。遠くに磐梯山を望むこの風景の中で、かつて久留米から移り住んだ人びとも、同じように空を見上げたのだろうかと、ふと想像しました。

共同墓地の入り口には、古びた石柱と、少し傾いた柵がありました。中に入ると、さまざまな時代の墓石が、整然と、あるいは少し不規則に並んでいます。
苔むして文字が読みにくくなっているもの、比較的新しく刻み直されたもの、どれもそれぞれの家の歴史を静かに抱いているように見えました。

庄司さんと我妻さんは、一基一基を丁寧に見て回りながら、時折、石の表面をそっとなでて文字を確かめています。私はその後ろからついて歩きながら、自分の目でも「有馬」の二文字を探そうとしましたが、緊張でなかなか文字が頭に入ってきませんでした。

しばらくして、庄司さんが一つの墓石の前で立ち止まりました。
「この墓碑をご覧ください。」
そう言って指さした先の石には、風雨にさらされながらも、はっきりと読める文字が残っていました。

そこには、「有馬」の二文字、そして「氏弘」という名が刻まれていました。

一瞬、時間が止まったように感じました。
何度も見返してきた戸籍や系図、華族録の中の「有馬氏弘」という文字が、いま、目の前の石に彫られている。紙の上の存在だった曾祖父が、この安積郡の一角で、確かに生き、亡くなり、ここに眠っている。

「本当に……氏弘だ。」
口に出した瞬間、胸の奥からこみ上げてくるものがありました。嬉しさとも、安堵とも、哀しさとも言い切れない、いくつもの感情がいっぺんに押し寄せてきて、しばらくその場から動けませんでした。

庄司さんと我妻さんは、静かにうなずきながら、「よかったですね」と声をかけてくださいました。
お2人がこれまで積み重ねてこられた安積開拓と対面原に関する調査、その上に、私が家族から受け継いだ断片的な記憶や、久留米藩の歴史を重ね合わせた結果として、この一基の墓石の前に立てているのだと思うと、「奇跡」という言葉だけでは足りないような、深いご縁を感じました。

共同墓地の周りでは、いつも通りに田んぼ仕事の一日が過ぎていきます。
トラクターの音や、遠くから聞こえる子どもの声にまじって、カエルの鳴き声が響いていました。
その日常の音の中で、私は曾祖父の名前を刻む墓石の前に立ち、ようやく「ここまで来ることができた」と、心の底から思いました。

この七月十八日の光景は、安積開拓の歴史書や、華族録の活字だけでは決して得られなかった「実感」として、これからも忘れることはないだろうと思います。

🕯 墓碑が示す氏弘の晩年と一族のその後

墓石の文字を一通り読み終えたとき、私は曾祖父の晩年について、これまでと少し違う角度から考えるようになりました。
それまで頭の中にあった氏弘像は、「久留米21万石の旧藩主」「明治維新ののち華族となった人物」という、どこか遠い肩書きの印象が強かったからです。

しかし、目の前の墓碑は、その肩書きだけでは語りきれない一人の人間としての氏弘を、静かに物語っているように感じられました。
墓石に刻まれた戒名や没年、続けて書かれている文字の配置からは、安積郡での最期の時期や、当時ともに暮らしていた家族の存在をうかがうことができます。詳細な読み解きは、別の節で改めて行うつもりですが、この共同墓地が、氏弘一人だけでなく、一族の「安積での一章」を象徴していることは確かです。

同じ共同墓地の中には、対面原や周辺の入植地で暮らしたであろう人びとの墓碑が、いくつも並んでいました。
そこには、久留米や他の藩の出身者の名、あるいは、すでに地元の姓となじんだ名字も見られます。安積疏水から引かれた水のもとで、畑を耕し、家族を養い、ときに不作や冷害にも耐えながら生きた人びとの「その後」が、静かに横たわっている場所でもあります。

氏弘の墓所が、こうした共同墓地の一角にあるという事実は、「旧藩主」と「入植士族」という二つの立場が、安積郡の土地の上で交わっていた可能性を示しているようにも思えます。
久留米藩難事件を経て、家臣たちが国営安積開拓の第一陣として大蔵壇原や対面原に入植したという記録と、氏弘の晩年が同じ地平の上にあったことは、今後の調査でゆっくり考えていきたい重要なテーマです。(city.koriyama.lg.jp)

また、郡山駅近くの寺院にあった立派な有馬家の墓所や、のちに八柱霊園へと改葬された親族の墓のことを思い返すと、同じ「有馬家」の墓が、東京や郡山の街中と、対面原開墾の田んぼの中という、全く違う風景に二つ存在していることになります。
そのことは、一族の中にも、さまざまな人生の分かれ道があったことを物語っているように感じられます。

安積郡の日和田町鶴番に眠る氏弘の墓は、一見すると小さく、素朴な石碑かもしれません。
けれども、その背後には、久留米の城下町から明治維新を経て、華族制度の時代、そして安積開拓の田野へと続く長い時間が折りたたまれています。

このブログでは、今後、墓碑の文字や配置、周囲の墓石との関係を少しずつ読み解きながら、曾祖父の晩年と一族のその後を、無理のない範囲で丁寧にたどっていきたいと思います。
日和田町の風や田んぼの匂いを思い出しながら、紙の上の史料だけでは見えてこなかった「安積郡の氏弘」の姿を、少しずつ描き出していければと考えています。


🌸 祖先への静かな感謝で終える

祖先への感謝と、これからの一歩

日和田町鶴番の共同墓地で、曾祖父・有馬氏弘の名を刻んだ墓石と向き合った7月18日から、まだそれほど時間はたっていません。
けれども、安積開拓の史料や久留米藩の記録を読み返し、これまでの記事を書き直していくうちに、私の中で「氏弘」という存在の輪郭は、少しずつ変わってきました。

かつては、「久留米21万石の旧藩主」「明治の華族」といった肩書きの中に閉じ込められた遠い先祖でした。
今は、安積郡の風に吹かれ、対面原開墾の田んぼ道の先にある共同墓地で静かに眠る、一人の人としての氏弘を思い浮かべるようになりました。

7月18日の発見を、私は2人の姉にもすぐに伝えました。
3人で何度も話し合い、来年、桜の咲くころ、氏弘の命日のあとにあわせて、あの共同墓地を訪ねることにしました。
春の安積野の空の下で、曾祖父の墓前に手を合わせることが、長く続いてきたこの調査とブログにとって、一つの区切りになるような気がしています。

私事になりますが、今年の秋から冬にかけて、目の手術を受けるかもしれません。
どの程度の治療になるのか、まだ分からない部分もありますが、これまでのように資料の小さな文字を追い続けることが難しくなる可能性も、心のどこかで意識するようになりました。

一方で、姉の一人は、市の美術展に出品する絵画の準備に忙しくしています。
キャンバスに向かうその背中を見ながら、私は私で、文字と史料と向き合う時間をもう少し大切にしたいと思うようになりました。

安積開拓の歴史や、久留米藩難事件のこと、氏弘や有馬家の行方については、まだ調べきれていないことがたくさん残っています。
けれども、安積郡の日和田町で曾祖父の墓所を見つけることができた今、私はひとまず、ここまで導いてくれた多くの人びとと、何よりも先祖に対して、静かに感謝を伝えたいと思います。

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