有馬氏弘の墓所を探している中、激励のお言葉が励みになりました。
ありがとうございます。
龍角寺からFAXが待ち遠しいでした。やっと届きました。
この結果は、「お問い合わせの件ですが、お調べましたが、該当する方のお名前は見つかりませんでした」という内容です。下伊豆島小学校によると龍角寺の縁は全く期待外れだった。
吹上藩にある正仙寺へ車で行く計画はネットで調べながら、有馬氏弘の名前をいうことを目に留まりました。
「江戸時代に入ると、松平定信の寛政改革により、下野国には真岡・藤岡・吹上の三ヶ所に陣屋が設置され、農民の復興にあたった。寛政五年(1793)、吹上の陣屋は吹上城跡に寺として位置づけられた。 その後、明治四年(1871)の廃藩置県により、吹上藩は吹上県となるが、まもなく廃県となった。墓地には有馬氏弘嫡男をはじめ多くの藩士たちの無縁墓碑が残っている」
有馬氏弘は無縁墓碑が残っているとのことですが、疑問を持つようになったことを感じました。
安積郡にいる有馬氏弘が死ぬ前は「多くの藩士たちの仲間の墓地を入れたい」という希望が出たのではないだろうかと想像していますが、とりあえず、社会福祉協議会手話通訳派遣事務所へ行って正仙寺に照会するつもりでいます。
正仙寺は例の家老を殺害した藩士らの墓がある筈。
事件の真相はもちろん不明ですが、彼ら藩士は氏弘派であると思われますので、あり得ない話ではありません。
「有馬氏弘嫡男」というのは「有馬氏弘の嫡男」?夭折したと思われる長男「猛」の事かもです。
もちろん「有馬氏弘と嫡男」かもしれませんし、確かめるべき価値はあるでしょうし、
「猛」の墓だけでも発見できるかもですので、非常に期待したいところです。
有馬氏弘の戸籍謄本に記載している住所の周辺のお寺に葬られる可能かと思って、5件のお寺に問い合わせた結果は、氏弘の墓所が見つかりませんでした。亡き義兄(聴覚障がい者)の同期生である小和田哲男という日本の歴史学者からメールでアドバイスして頂いたのは「自治体の市史(区史)編纂室や教育委員会に問い合わせてみていただければわかることもあるのでは」とのことですので、郡山市役所へFAXを送信しました。しばらくしてから返信がありました。
「文化振興課に問い合わせましたが、有馬氏弘様のご遺骨に関する内容等は確認出来なかった旨連絡がありました。この度はお力になれず、申し訳ございませんでした」とのことでした。「有馬氏弘嫡男」というのは「有馬氏弘の嫡男」もしくは「有馬氏弘と嫡男」を確かめるべき価値があるというアドバイスを頂き、ありがとうございます。
社会福祉協議会手話通訳派遣事務所へ行って、正仙寺へ電話通訳で照会しました。
「有馬氏弘の墓所があります。」と聞いて、期待が高まりましたが
「有馬家から除籍後、安積郡で暮らしている氏弘とその息子(猛)の遺骨が移行したか」
「氏弘の遺骨がありませんでした」と聞いてがっかりしていました。
「細かいことがありますので、FAXを送信します」
正仙寺へ有馬氏弘の戸籍を添付してFAXを送信しました。
「正仙寺西側墓地は侍墓地と呼ばれていますが、昭和63年当時クマザサに覆われて荒れた状態で除草したところ、多数の墓標が見つかりました。また、過去帳があります」という返信内容です。
「有馬氏弘嫡男」という結果は、猛ではなくて、吹上藩知事出産の嫡男 明治3年7月
(法名 読めない漢字、俗名 名前無)
他の子がいたことを初めて知りました。
除籍前は後妻の敏の子ではと考えられます。明治2年3月年家老を殺傷する事件が発生した後は赤ちゃんができたことを推測しています。家老で権小参事だった堀内爲太郎を、殺害したという罪で裁判となった記録があるとのことですが、「矛盾では」と思います。
堀内為太郎の親友と親の墓所がありますが、他は名前が沢山あります。
FAXで西側墓地整備前石塔配置、過去帳などの資料を送信したいと思いますので、FAX番号を教えていただけますでしょうか。曾祖父について前より知って良かったと思います。歴史は知れば知るほど面白いです。
別の子もいたのですね。新しい発見です。
資料を送信して頂けるとの事、ウチにFAXが無いのでPDFか写真で頂けたら助かります。
メール送りましたのでそちらにお願い致します。
「歴史は知れば知るほど面白いです」ホントですね。
これも戸籍という制度、また過去帳というものが、日本に習慣としてあった事が幸いしています。
現在議論されている夫婦別姓が導入されてしまうと、この戸籍制度が壊れてしまいます。
できればこのままで置いておいて頂きたいですね。お墓を見つけるのはなかなか大変な事です。
但し意外なところで見つかったというのも、結構よくある話ではあります。
地元史家が何年も掛けて探し出した例は、思い付くだけでも数件ありますので、
長い目で探していくのも大切。
絶対見つかる!と無責任な事は言えませんが、頑張って頂きたいと思います。
栃木県栃木市にある正仙寺で「有馬氏弘の嫡男」の墓所お参りに行って来ました。二人の姉も一緒です。この墓所の前に供え花を置きました。吹上藩知事出産の嫡男は観蓮知成童子(かんれんちじょうどうじ)いう旧字のため読み難いです 明治3年(1870)7月24日 没年です。出産嫡男の墓所との出会いは私達の大伯父だったことが判りました。昭和62年当時クマザサに覆われて荒れた状態で縁あって除草したところ多数の墓標が見つかり、それに対応した過去帳の記録を突きあわせたところ、この中で有馬氏弘出産の嫡男を大発見されたとのことでした。有馬氏弘19歳の時の死亡嫡男となったそうです。この妻は継室美濃岩村藩主 松平乗喬の娘 敏ですが、1873年(明治6年)に離縁された記録に記載してあります。
正仙寺の住職は手話通訳者を伴い、有馬氏弘の嫡男の墓所を案内説明、吹上藩陣屋と他の墓所等の歴史説明をさせて頂き、興味深く拝聴いたしました。吹上藩の本陣は吹上城址地の吹上中学校敷地、藩士の居住地は本陣南と東に平地で字元陣屋という字名になっており、公図では細かい長屋が連続していますが、現在では一般家屋と畑等になっていて特に見るべきものはありませんでした。有馬氏弘の最後藩主はどのような人生を送ったかというイメージがありました。
氏郁(1831~1862)-氏弘(1851~1914)と在封しましたが、明治4年(1871)7月廃藩置件のより吹上藩は吹上県となり、氏弘は吹上県知事に任命されますが、同年11月廃県により吹上県は栃木県及び宇都宮県の統合され、氏弘は東京に移り、華族(子爵)列せられるに至るのであります。このように吹上藩の存在は僅か30年という短期間でありました。氏弘の華族は1871年(明治4年)から除籍までにどのような生活を送ったかということを知りたいと思っても、デジタルアーカイブがある「華族家記」の簿冊は、残念ながら解説がない為に読めませんでした。「華族家記」を読めば、意味や内容等がはっきりわかると思います。
除籍際には東京府華族従位五位有馬氏弘より四肢痙攣麻痺等の病気の為に家督を返上され、實家士族有馬士族有馬則篤(実父)の帰籍願されたとのことが分かりました。氏弘は吹上藩斬奸事件とか出産死亡嫡男とか離婚などの重圧に耐えられないほど四肢痙攣麻痺等の病気を発症されたことを推測しています。デジタルアーカイブがある「華族有馬氏弘位記返上隠居ノ上実家ヘ帰籍并故氏郁妻酒井瑶光院ヘ家跡相続ノ儀伺」で参照になりました。氏弘は有馬則篤(実父)の戸籍に復籍となった意味です。有馬則篤は幕府大目付の役目が終わってから隠居生活になり、氏弘は実父と一緒に安積へ行ったと考えられます。戸籍上では前戸主亡有馬三敬(有馬則篤)と記載してあります。
長男の墓石の発見は、除草した際の偶然だったのですね。
「華族家記」を見てみましたが読めませんでした。
最低でも活字化されていれば、
なんとなく訳す事も可能なのですが、残念ながら筆文字は読めません。
ひとつ疑問があるのですが、
氏弘は吹上有馬家から除籍した筈ですが、祥雲寺の吹上有馬家の墓には碑銘があるとのこと。
除籍されたのなら碑銘は無い筈ですが、何故碑銘があるのでしょう。
除籍された人物が刻まれる事もありますが、基本的に〇〇家の墓には〇〇家籍の人が刻まれ、
除籍したならば刻まれない筈。
例外として親族の名を刻む事もありますが、それ相当の理由があったりします。
復籍の可能性は無いですか??
📍 有馬氏弘の墓所について
- 祥雲寺(東京都渋谷区広尾):有馬氏弘の墓所は東京都渋谷区広尾にある祥雲寺にあります。祥雲寺には吹上藩有馬家の累代墓があり、「旧野州吹上藩有馬家累代之墓」としてまとめられています。
- 遺骨の有無と伝承:有馬氏弘の碑銘はありますが、明治9年(1876年)に養母の鎮(瑶光院)に家督を譲り、有馬家から離縁したため、彼の遺骨はこの墓には納められていないとされています。その後、氏弘の消息は不明でしたが、ご子孫の方の情報によると福島県安積郡に住んでいたようです。
👦 有馬氏弘の嫡男の墓所に関する伝承
- 正仙寺(栃木県栃木市):栃木県栃木市にある正仙寺には、「有馬氏弘の嫡男」の墓所があるとされています。嫡男の観蓮知成童子(かんれんちじょうどうじ)は明治3年(1870年)7月24日に亡くなったと記されており、有馬氏弘が19歳の時の嫡男と考えられています。
- 大伯父との縁:この墓所は、昭和62年(1987年)当時に荒れた状態だったクマザサに覆われた場所から発見され、過去帳の記録と照合した結果、発見者たちの大伯父であったことが判明したという伝承があります。この嫡男の母親は、氏弘の継室である松平乗喬の娘である敏とされていますが、1873年(明治6年)には離縁の記録があります。
有馬氏弘の嫡男である観蓮知成童子(かんれんちじょうどうじ)の母親は、氏弘の継室である松平乗喬(まつだいらのりたか)の娘、敏(とし)とされています。
🪦 嫡男の墓所について
- 栃木県栃木市にある正仙寺には、有馬氏弘の嫡男である観蓮知成童子の墓所があります。
- 観蓮知成童子は明治3年(1870年)7月24日に亡くなったと記されており、有馬氏弘が19歳の時の嫡男と考えられています。
- この墓所は、昭和62年(1987年)に荒廃した状態から発見され、過去帳と照合した結果、発見者たちの大伯父であることが判明したという伝承があります。
👨👩👧👦 氏弘と敏の離縁
- 有馬氏弘と敏は、観蓮知成童子が亡くなった後、1873年(明治6年)に離縁しています。
氏弘と敏の離縁理由については、明確な記録が残されていません。
💔 離縁の背景
- 一般的な時代背景: 当時は、家柄や政治的状況が婚姻に大きく影響した時代です。また、離縁も現在より一般的で、特定の理由は公にされないことも多くありました。
- 息子の死: 嫡男である観蓮知成童子が亡くなった時期と、離縁の時期が近いことから、何らかの関係がある可能性も考えられます。しかし、これも推測の域を出ません。
- 氏弘の境遇: 有馬氏弘は、家督を養母に譲り、自身も有馬家を離れるという複雑な状況にありました。このような個人的な事情も、離縁に影響した可能性はあります。
📜 記録の限界
残念ながら、歴史上の人物の離縁については、夫婦間の個人的な事情であるため、公的な記録として詳細に記されることは稀です。そのため、具体的な離縁理由を特定することは難しいのが現状です。
嫡男の死が離縁の直接的な原因であったかどうかは、明確な記録がないため断定できません。しかし、当時の社会背景や氏弘夫婦の状況からいくつかの可能性が考えられます。
🧐 離縁の可能性
- 精神的な影響:大切な息子を失った悲しみや喪失感は、夫婦関係に大きな影響を与えかねません。精神的な負担から関係が悪化し、離縁に至った可能性はあります。
- 家督問題への影響:嫡男が亡くなったことで、有馬氏弘の家督継承における不安定さが増した可能性も考えられます。家督を誰が継ぐのかという問題が、夫婦関係に間接的に影響を与えた可能性も否定できません。
- 当時の慣習:当時の武家社会では、跡継ぎを失ったことが離縁の原因となることもありました。特に、家を存続させるための跡継ぎは非常に重要視されていたためです。
⚖️ 直接原因の特定は困難
- 記録の不在:上記はあくまで推測であり、嫡男の死と離縁の因果関係を示す明確な史料は見つかっていません。
- 複雑な要因:夫婦間の関係は常に複雑であり、さまざまな要因が絡み合って離縁に至ることも少なくありません。嫡男の死だけでなく、他の個人的な事情や、当時の社会情勢なども影響した可能性もあります。
夫婦関係への精神的影響は、推察の域を出ませんが、嫡男を亡くした悲しみは計り知れないものであったと想像できます。当時の夫婦にとっては、現代以上に大きな意味を持っていました。
💔 喪失の深い悲しみ
- 子の死の衝撃: 幼い子を亡くすことは、現代でも深い悲しみをもたらします。当時の医療水準を考えると、子の死はより身近な悲劇であり、夫婦にとって精神的に非常に大きな打撃を与えたでしょう。
- 夫婦間の関係: 悲しみを共有し、支え合えた夫婦もいれば、悲しみの表現の違いや、喪失感からくるストレスが原因で関係が悪化してしまう夫婦もいたかもしれません。
👑 子孫を繋ぐ重圧
- 家の存続の重圧: 特に武家の当主とその妻にとって、嫡男は家を繋ぐ大切な存在でした。その嫡男を失ったことは、個人的な悲しみだけでなく、「家」という共同体の存続に対する重い責任感も伴いました。
- 夫婦への期待と失望: 子を授かり家を繋ぐという当時の夫婦に課せられた期待は大きく、それが叶わなかったことは、夫婦関係に心理的な重圧を与えた可能性があります。
⏳ 時間の経過と変化
- 回復の難しさ: 悲しみからの回復には個人差があり、夫婦間で回復のペースが異なることもあります。これが関係に亀裂を生じさせる原因になることもあります。
- 関係性の変化: 嫡男の死は、夫婦がお互いをどう見ているか、そして自分自身をどう見ているかという根源的な部分にまで影響を及ぼし、夫婦関係を根本的に変化させた可能性もあります。
このような精神的な影響が、離縁という結果に繋がったのか、それとも他の要因があったのかは、残念ながら歴史からは読み解くことができません。
子孫を残すという重圧は、当時の夫婦にとって非常に大きなものであり、それが有馬氏弘と敏の夫婦関係にいくつかの影響をもたらしたと考えられます。
😟 心理的な負担
- 期待の重さ: 嫡男を残し家系を存続させることは、武家にとって最も重要な使命の一つでした。この期待は、夫婦双方に大きな心理的プレッシャーを与えたでしょう。
- 喪失の悲しみ: 観蓮知成童子の死は、夫婦間の絆だけでなく、それぞれが抱いていた未来への希望も打ち砕くものだったと推測されます。
- 夫婦間のすれ違い: 喪失の悲しみに対する向き合い方や、その後の家制度への考え方の違いが、夫婦間の精神的な距離を生む原因になった可能性も考えられます。
🏠 家督継承への影響
- 後継者問題: 嫡男の死は、有馬家にとって後継者問題を再燃させる出来事でした。これは、氏弘と敏の夫婦関係に直接的ではないにしろ、間接的な重圧として作用したかもしれません。
- 氏弘の立場: 氏弘は、文久2年(1862年)に養子として迎えられ、家督を継いでいます。そのような状況下で嫡男を失ったことは、氏弘自身の立場を不安定にさせ、それが夫婦関係にも影響を与えた可能性があります。
残念ながら、これらの重圧が具体的にどのように夫婦関係に作用し、最終的に離縁に至ったのかを示す詳細な記録は残されていません。当時の家制度や社会情勢を背景とした一般的な推測となります。
有馬氏弘と敏の離縁に至った直接的な原因について、明確な記録は残されていません。歴史資料を通して詳細を特定することは困難です。
🕊️ 不明な点が多い理由
- 個人の事情:離縁はきわめて個人的な事柄であり、当時の公的な記録や歴史書に詳細が記述されることは稀でした。特に、名誉や家柄に関わることほど、公にされない傾向にあります。
- 時代の変化:氏弘が生きた時代は、江戸時代末期から明治維新へと大きく社会が変動した時期です。そのような激動の中で、個人の私生活に関する記録が失われたり、重要視されなかったりした可能性もあります。
- 証言の不足:直接の当事者や関係者の証言が残されていないため、後世の私たちが具体的な原因を探ることは非常に難しい状況です。
📚 歴史研究における限界
歴史研究において、断片的な情報から推測を重ねることはできますが、決定的な証拠がない限り、「直接の原因」を断定することはできません。これまでにお話した内容(嫡男の死、家を継ぐ重圧、氏弘の境遇など)は、離縁の背景にある可能性のある要素ですが、それが直接の原因であったか否かは、あくまで推測の域を出ません。
👵 義母との不和が原因か
有馬氏弘の嫡男の妻である敏(みつ)が離縁した具体的な理由は、当時の資料からは明確には読み取れません。しかし、有力な説として、義母の有馬鎮(しず)との不和が挙げられます。
📜 背景としての有馬家
有馬家は、氏弘が家督を継いだ後、義母の鎮が実権を握っていました。鎮は非常に強い性格の女性で、有馬家の財政や運営にまで口出しをしていたと言われています。
- 政治的な影響力: 鎮は藩の政治にも深く関与していました。
- 私的な干渉: 家臣や家族の私生活にも影響を与えた可能性があります。
このような状況下で、嫡男の妻である敏が、実権を握る義母と良好な関係を築くことが難しかったのかもしれません。
🕵️♀️ その他の可能性
他にも、以下の要因が離縁に関わった可能性も考えられます。
- 嫁姑問題: どの時代にもあるように、嫁と姑の関係が悪化することも離縁の原因となりえます。
- 嫡男の健康状態: 嫡男自身が若くして亡くなっているため、その病気や死が敏の立場を弱めた可能性もあります。
これらの要因が複合的に絡み合い、結果として離縁に至ったのかもしれませんね。
👉️ 有馬鎮の人物像や彼女が有馬家に与えた影響について詳しく説明しましょうか?
嫡男の妻、敏(みつ)の立場は、当時の有馬家において、非常に複雑で困難なものであったと考えられます。
👩👦👦 正室としての役割
敏は有馬氏弘の嫡男の妻ですから、「正室」という正式な妻の立場でした。当時の武家において、正室は家を継ぐ嫡男を生む重要な役割を担っていました。敏もまた、有馬家の血筋を繋ぐことが期待されていたでしょう。
- 家督継承の重圧: 嫡男の妻として、家督を継ぐ男児を産むことは大きな使命でした。
- 家の運営への関与: 大名家や旗本など身分の高い武家の妻は、料理や掃除といった家事のほとんどを女中に任せ、屋敷を円滑に運営する役割を担っていました。
⚖️ 義母・有馬鎮の影響
しかし、有馬家では嫡男の義母である有馬鎮が実権を握っており、敏は非常に厳しい立場に置かれていたと推測できます。
- 義母の権力: 鎮は藩の政治や家庭運営に深く関与しており、その強い影響力は敏に対するプレッシャーとなったでしょう。
- 不和の可能性: 義母と嫁の関係は、いつの時代も難しいものです。特に、鎮のような強い性格の人物のもとでは、敏の行動や発言が制限されることが多かったかもしれません。
💔 離縁後の厳しい現実
敏が離縁された後、彼女がどのような生活を送ったかは明確ではありません。しかし、当時の社会では、一度離縁された女性にとっては非常に厳しい現実が待っていたと考えられます。
- 社会的評価: 離縁された女性は、悪い評価を受けることが一般的でした。
- 経済的困窮: 自立した生活を送ることは難しく、親族を頼るしかなかったかもしれません。
敏の離縁は、単なる夫婦間の問題だけでなく、当時の有馬家の特殊な状況や社会的な背景が深く関わっていたと考えられます。
栃木県栃木市にある正仙寺には、有馬氏弘の嫡男の墓所があるとされています。このお寺は、真言宗豊山派のお寺で、別名「吹上不動尊」とも呼ばれています。
🌸 正仙寺の墓所の特徴
吹上藩ゆかりの墓所
- 有馬氏弘の嫡男:正仙寺には、吹上藩最後の藩主である有馬氏弘の嫡男の墓所があると言われています。
- 吹上藩士の墓:幕末の安塚の戦いで戦死した吹上藩士たちの官修墳墓や、吹上藩斬奸事件の墓碑もあります。
- 歴史的な背景:正仙寺は、中世から武家社会との関わりが深く、多くの武士たちが出入りしていたお寺です。
その他の種類の墓所
- 永代供養墓・樹木葬:近年では永代供養墓や樹木葬なども利用できるようです。
- 古代の五輪塔:敷地内には、鎌倉時代末期から室町時代の五輪塔や板碑も存在し、近隣で出土したものが供養されています。
📍 正仙寺の概要
- 所在地:栃木県栃木市吹上町1376
- 開山:応永年間(1394年~1400年)の初めに俊海によって開山されました。
- 別名:「吹上不動尊」と呼ばれ、北関東三十六不動尊霊場の第十五番札所でもあります。

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