祥雲寺と曹渓寺――舊野州吹上藩有馬家累代之墓建立者をめぐる一考察曾祖父・有馬氏弘の墓と「二つの菩提寺」

華族有馬家の墓所をたどるなかで、私は二つの寺の名前に何度も行き当たりました。
一つは、東京・広尾にある祥雲寺の「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」。もう一つは、麻布の曹渓寺に残る有馬家ゆかりの墓です。
曾祖父・有馬氏弘の遺骨はどこに納められたのか。吹上藩有馬家の累代の墓を、いったい誰が、どのような思いで建立したのか。
史料と現地の聞き取りを重ねるうちに、「二つの菩提寺」と有馬家のあいだにある、いくつかの「分からないこと」が浮かび上がってきました。
本稿では、祥雲寺と曹渓寺に残る手がかりをたどりながら、「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」の建立者をめぐる小さな考察をまとめてみたいと思います。(shouunji.or.jp)

吉田 由起子

曹渓寺の墓を守る方は有馬氏弘の子か養子と言う事になるわけであるとのこと、戸籍上で氏弘の子は長男猛が早く亡くなられています。「有馬頼之」さんは旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継がれたことが分かっています。氏弘の弟がいるかどうか分かりませんが、残りは養子だと思います。

有馬頼之には、以下の3人のお子さんがいらっしゃいます。
【有馬頼之のお子さん】
• 有馬聰頼(ありま としより)
長男で、吉之助とも呼ばれ、子爵を継ぎました。
• 有馬宗嗣(ありま むねつぐ)
二男です。
• 慈光寺宗英(じこうじ むねひで)
三男で、慈光寺仲敏さんの養子となりました。
有馬頼之ご自身は、久留米藩主・有馬頼咸の七男として生まれ、旧吹上藩有馬家の養子となり家督を継ぎました。明治時代から大正時代にかけて貴族院子爵議員を務めた政治家でもあります。
【有馬頼之の政治家としての歩み】
• 貴族院子爵議員
1902年(明治35年)6月13日に貴族院子爵議員の補欠選挙で当選し、1917年(大正6年)5月1日に亡くなるまでその職を務めました。
会派としては「研究会」に所属していました。
• 華族
久留米藩主・有馬頼咸の七男として生まれ、旧吹上藩有馬家の養子となり、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵されました。
【 補足情報】
有馬家には、有馬頼之以外にも政治家として活躍された方がいらっしゃいます。 例えば、有馬頼寧(ありまよりやす)(有馬頼之から見ると甥にあたります)は、衆議院議員や貴族院議員、農林大臣などを歴任された政治家、農政学者です。有馬頼寧は、農民運動や部落解放運動を支援し、「革新華族」とも呼ばれました。彼の功績を称えて「有馬記念」という競馬のレースが設けられています。

有馬頼之の所属会派「研究会」とは「研究会」は、大日本帝国憲法下で設置されていた貴族院において、最も大きな勢力を持っていた会派の一つです。
【 貴族院「研究会」について】
• 貴族院最大の会派: 貴族院には様々な会派がありましたが、「研究会」は最大勢力を誇っていました。
• メンバー構成: 多くの勅選議員(天皇によって任命された議員)や多額納税者議員、そして子爵・男爵議員が会派に加わっていました。
• 影響力: 貴族院内で非常に大きな影響力を持っており、政府の政策決定にも深く関わることが多かった会派です。
有馬頼之の甥にあたる有馬頼寧も「研究会」に所属されていた時期があったことが確認できます。

有馬氏弘の養子である頼之は氏弘の遺骨を納骨しているかということを気になっていますが、頼之が、氏弘の遺骨を納骨されたかという情報は見当たりませんとのことでした。
調べましたところ、有馬頼之は旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継がれたことが分かっています。しかし、その養父が有馬氏弘であるという記述や、遺骨の納骨に関する情報は見つかりませんとのことでした。
吹上藩有馬家の墓所がある祥雲寺の関係者によると、有馬氏弘さんの遺骨は墓所にはなく、墓誌に名前があるにも関わらず、どのような事情で遺骨が見つからないのかは不明とのことです。
この情報からは、遺骨がどこに行ったのか、あるいはもともと納骨されていなかったのかどうかは判断できません。しかしながら祥雲寺にある有馬頼之の墓所があります。

有馬氏弘に遺骨がある安積郡の寺院についても、FAXや通訳電話が不通で、所在や状況の確認が進んでいない状態ですが、近いうちに手紙を出すのを考えています。有馬頼之は安積郡の寺院か東京の寺院に氏弘の遺骨を納骨していることを想像しています。

【 明治初期の有馬氏弘の波乱に満ちた生活】
有馬氏弘は、明治4年から明治9年の間に、彼の人生において重要な転換期を迎えました。
・廃藩置県と知藩事の免官
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により有馬氏弘は知藩事の職を免じられました。これにより、下野吹上藩主としての彼の役割は終わりを告げました。
・養母への家督譲渡と離縁
明治9年(1876年)12月14日、有馬氏弘は養母である鎮(瑶光院)に家督を譲り、有馬家との離縁をしています。これは彼の人生における大きな節目となりました。
・過去の事件への関与と拘留
明治10年(1877年)、有馬氏弘は知藩事在職中に家臣に重傷を負わせ、死に至らしめたとして拘留されることになります。これは、明治2年(1869年)に藩士が家老を殺傷した事件に彼自身も関わっていたためと推測されています。しかし、この事件から5年以上が経過していたため、処罰を免れました。

廃藩置県後の有馬氏弘は、まさに激動の時代を生きていたと言えるでしょう。
【廃藩置県後の有馬氏弘の生活】
廃藩置県により藩主の身分を失った有馬氏弘は、知藩事の職を免じられ、その後は複雑な状況に置かれました。
【士族としての新たな生活】
明治維新で廃藩置県が施行された明治4年(1871年)から、日本の社会構造は大きく変化しました。旧藩主たちは、かつてのような領地や権力を持つことはなくなりました。有馬氏弘も例外ではなく、吹上藩知藩事の地位を解かれた後は、多くの旧藩主がそうであったように、士族としての生活を送ることになりました。大久保利通や西郷隆盛、桐野利秋といった当時の要人たちも、この激動の時代の中心にいました。
家族との関係の変化
明治9年(1876年)には、養母へ家督を譲り、有馬家との離縁をしています。これは、これまで彼を支えてきた家族との関係にも大きな変化が生じたことを示しています。
【過去の事件による拘留】
明治10年(1877年)には、知藩事時代に関わった事件で拘留されるという、試練に直面しました。これは、廃藩置県後も、過去の出来事が彼の人生に影響を与え続けたことを物語っています。
これらの出来事から、廃藩置県後の有馬氏弘の生活は、これまでの藩主としての生活とは大きく異なり、不安定で波乱に満ちたものだったことが想像できます。

有馬氏弘は明治5年から明治8年迄にどんな生活を送ったかということを気になっていますが、
有馬氏弘の明治5年から明治8年までの具体的な生活については、残念ながら、提供された資料の中には、この期間の有馬氏弘氏の活動や生活に直接言及しているものはありませんでした。
しかし、明治時代初期という時代背景と、彼が廃藩置県後に知藩事を免じられた状況から、いくつかの推測はできます。
【明治初期の旧藩主たちの状況】
• 身分の変化: 廃藩置県(明治4年)で旧藩主たちは、それまでの領地と人民に対する支配権を失いました。有馬氏弘も例外ではなく、知藩事という公的な役割からは解放されたと考えられます。
• 東京への移住: 多くの旧藩主は、東京への移住を促され、新たな生活様式に適応する必要がありました。有馬氏弘も東京で生活をしていたことが分かっています。
• 華族としての立場: 旧藩主たちは華族という新たな身分を与えられましたが、その経済基盤はこれまでとは異なり、政府からの給与や旧藩からの家禄に頼ることが多くなりました。新たな事業を始めたり、投資を行ったりする者もいましたが、生活は多様化していたでしょう。
【家督譲渡と離縁の準備期間】
明治9年(1876年)には養母への家督譲渡と離縁が行われていますので、明治5年から明治8年までの期間は、そのような決断に至るまでの準備期間であったとも考えられます。自身の立場や今後の生き方について、深く考えていた時期だったのかもしれません。
【情報の限界】
現時点では、この期間の有馬氏弘氏の具体的な日記や交友関係、事業活動などの詳細な情報が確認できないため、一般的な旧藩主の生活からの推測となります。

【旧藩主は東京でどう暮らした?】
廃藩置県後、多くの旧藩主たちは東京での生活を余儀なくされましたが、その暮らしぶりは様々でした。
【東京への転居と住まい】
廃藩置県によって知藩事を免じられた旧藩主たちは、政府から東京への移住を命じられました。これは、新たな政府の下で中央集権体制を確立するための一環でした。
• 住居の確保: 東京には武士の屋敷が多く存在し、明治維新以前から人々が暮らしてきた歴史がありました。旧藩主たちは、これらの屋敷や新たに用意された邸宅で生活を始めました。中には、旧来の藩の施設を東京での滞在所として利用するケースもありました。
• 華族としての移行: 旧藩主たちは「華族」という身分を与えられ、新たなエリート層として東京での生活を送ることになりました。徳川慶喜のように、明治に入ってから公爵の爵位を得る者もいました。
【 経済状況と暮らし向き】
旧藩主たちの経済状況は一様ではありませんでしたが、一般的には政府からの俸禄や旧藩からの家禄によって生計を立てていました。
• 財産の活用: 旧藩主の中には、東京への移住に際して家財を売却したり、土地を献上したりする者もいました。これにより得た資金を元手に、新たな事業を始める者もいたようです。
• 生活様式の変化: かつての藩主時代とは異なり、政治的な権力は失われたものの、多くの旧藩主は引き続き一定の社会的地位と経済力を保ち、東京での生活を享受していました。例えば、勝海舟のような幕臣出身の人物も、明治政府の要職に就き、東京を拠点に活躍しました。

投稿作成者

なるほど。
ならは曹渓寺の墓に遺骨はあるべきでしょうが、
それが無いのならば何等かの理由(災害等)で、遺骨が失われたのかもしれませんね。

吉田 由起子

【追記】
〈2025年7月21日記載の中からです。〉
遺骨の納骨等については、曹渓寺さんにお訪ねられるのが一番かとのことですが、曹渓寺へのFAXで問い合わせました。「頂いたFAXでもおっしゃられているとおり、有馬憲篤(三敬)殿は弊寺墓所に眠られているようです。しかしながら、氏弘殿に関しての記載は見つけることが出来ませんでしたので、おそらく弊寺の墓所にはおられないと考えられます。以上、お力になれずすみませんがご報告申し上げます」との回答を頂きました。また、寺院は過去帳をはじめ様々な情報を有しておりますが、近年寺院ではプライバシー保護と人権尊重の立場から、また、戒名などの情報から意図せずとも差別に加担してしまうことがあるため、ご親族といえども過去帳の情報を見せたり身元調査の依頼をするもお断りすることがありますとのことです。

曹渓寺にある墓所に有馬三敬の遺骨を納骨されたことは、彼の家族、特に彼の次男である氏弘(うじひろ)である可能性が高いと考えられます。
氏弘の養子である有馬頼之は祥雲寺にある墓所に氏弘の遺骨を何故か納骨しないかという疑問があります。

投稿作成者

これほど探して無いのであれば、別コメントの遺骨が残らなかった説も含め、
災害等で流されてしまったとか、遺言で散骨したとか、
何等かの原因で失われた可能性は高いのかもしれませんね。

吉田 由起子

「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」を建立した人物は、有馬頼之である可能性が高いです。
【時期】
•「有馬頼之」は旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継ぎました。
• これをもって、累代の墓が建立されたと考えられます。
〈補足〉
• 吹上藩有馬家は、久留米藩初代有馬豊氏の三男である有馬頼次を祖としています。
• 有馬氏倫が加増され大名となり、西条藩、五井藩を経て吹上藩に移りました。
• 有馬氏郁が吹上藩の初代藩主です。
吹上藩有馬家の祖は、有馬頼次(ありま よりつぐ)です。
【概要】
• 馬頼次は久留米藩初代藩主である有馬豊氏の三男です。
• その後、頼次の子孫は紀州徳川家に仕えました。
• 4代目の有馬氏倫が徳川吉宗の将軍就任に伴い幕臣となり、大名に取り立てられました。
• 有馬氏倫の系統が譜代大名として扱われることになります。
• その後、有馬氏郁が上総五井藩から下野国吹上(現在の栃木県栃木市吹上)に移り、吹上藩を立藩しました。

祥雲寺にある「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」の隣に「貴族院議員(従三位、勲三等)子爵有馬頼之墓」という墓所があります。氏弘の養子である有馬頼之は氏弘の遺骨をこの墓所に納骨しないか、それと付き合いがあったかという疑問がありますが、この把握することが難しいです。

既存記事の推敲

曹渓寺の墓を守る方は、有馬氏弘の実子か、あるいは養子ということになります。しかし戸籍上、氏弘の子である長男・猛は早くに亡くなっており、「有馬頼之」さんが旧吹上藩有馬家の養子となって家督を継いだことが分かっています。氏弘に弟がいたかどうかは分かりませんので、残る可能性は、いずれも養子であったと考えられます。

有馬頼之には、次の三人のお子さんがいらっしゃいます。 ・有馬聰頼(ありま としより)
 長男で、吉之助とも呼ばれ、子爵を継ぎました。
・有馬宗嗣(ありま むねつぐ)
 二男です。
・慈光寺宗英(じこうじ むねひで)
 三男で、慈光寺仲敏の養子となりました

有馬頼之は、久留米藩主・有馬頼咸の七男として生まれ、旧吹上藩有馬家の養子となって家督を継ぎました。明治から大正にかけては、貴族院子爵議員を務めた政治家でもあります。

【有馬頼之の政治家としての歩み】

  • 貴族院子爵議員
    1902年(明治35年)6月13日、貴族院子爵議員の補欠選挙で当選し、1917年(大正6年)5月1日に没するまでその職を務めました。会派は「研究会」でした。
  • 華族
    久留米藩主・有馬頼咸の七男として生まれ、旧吹上藩有馬家の養子となり、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵されました。

有馬家には、有馬頼之以外にも、政治家として活躍した人物がいます。例えば、有馬頼寧(ありま よりやす)は、有馬頼之から見ると甥にあたり、衆議院議員や貴族院議員、農林大臣などを歴任した政治家・農政学者です。頼寧は農民運動や部落解放運動を支援し、「革新華族」とも呼ばれました。彼の功績を記念して、競馬のレース「有馬記念」が設けられています。

有馬頼之が所属した会派「研究会」は、大日本帝国憲法下の貴族院において、子爵議員を中心に構成された会派の一つで、時期によっては最大勢力の会派と位置づけられていました。華族議員の有力な結集軸となり、政党勢力との力関係を調整する役割を担っていたとされます。

「研究会」は、大日本帝国憲法下の貴族院における主要な会派の一つで、子爵議員を中心に組織されました。勅選議員や多額納税者議員、男爵議員なども加わり、大正期には最大勢力の会派とみなされるようになります。(ndl.go.jp)
貴族院内で非常に大きな影響力を持ち、政府の政策運営や法案審議において重要な役割を果たした会派でした。有馬頼之の甥にあたる有馬頼寧も、この「研究会」に所属していた時期があったことが知られています。

有馬氏弘の養子である頼之が、曹渓寺の墓をどのように扱っていたのか、すなわち氏弘の遺骨を同寺に納骨したのかどうかは、私自身も強い関心を抱いている点です。しかし現時点で確認できた範囲では、頼之が氏弘の遺骨を曹渓寺に納めたかどうかを示す直接の記録は見当たりません。

有馬氏弘の養子である頼之が、氏弘の遺骨をどこに納骨しているのかという点は、私自身も気になっているところです。しかし、現在までに確認した範囲では、頼之が氏弘の遺骨を納骨したことを示す具体的な記録は見当たりませんでした。

調べたところによると、有馬頼之は旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継いだことは明らかになっています。ただし、その養父が有馬氏弘であると断定できる記述や、遺骨の納骨場所に関する資料は見つかっていません。(archives.nijl.ac.jp)

吹上藩有馬家の墓所がある祥雲寺の関係者のお話では、有馬氏弘の遺骨は墓所にはなく、墓誌に氏名が刻まれているにもかかわらず、どのような事情で遺骨が見つからないのかは不明だということでした。

  • 頼之が吹上藩有馬家の養子であること自体は、旧華族家史料などから確認される事実として書いてよい内容です。(archives.nijl.ac.jp)
  • ただし、「養父が氏弘である」という一点については、今の段階では「確認できない」とはっきり書いておくことで、読み手にも調査状況が伝わります。

「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」を建立した人物は、有馬頼之であった可能性が高いと考えています。

有馬頼之は、旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継ぎました。吹上藩主家の当主としての立場に立ったこの時期に、一族の系譜を示す「累代之墓」があらためて建立されたとみるのが自然でしょう。

〈補足〉
吹上藩有馬家は、久留米藩初代藩主・有馬豊氏の三男である有馬頼次を祖とします。その後、有馬氏倫が加増を受けて大名となり、西条藩、五井藩を経て下野吹上藩へと移りました。吹上藩の初代藩主は、有馬氏郁です。

吹上藩有馬家の祖は、有馬頼次(ありま よりつぐ)とされています。頼次は、久留米藩初代藩主である有馬豊氏の三男にあたる人物です。のちにその子孫は紀州徳川家に仕え、四代目の有馬氏倫の代になると、徳川吉宗の将軍就任にともなって幕臣となり、大名に取り立てられました。ここから氏倫の系統が譜代大名として扱われていくことになります。

その後、有馬氏郁が上総国五井藩から下野国吹上、現在の栃木県栃木市吹上に移り、吹上藩を立藩しました。こうして、久留米藩初代・有馬豊氏の三男頼次を祖とし、氏倫の系統へと続く「吹上藩有馬家」が形成されていきます。(kotobank.jp)

祥雲寺にある「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」は、吹上藩有馬家の歴代を示す大切な墓所です。もともと有馬家の墓所については、曹渓寺との関わりも考えられますが、現時点では氏弘の遺骨や納骨の経緯を示す確かな記録は見つかっていません。そのため、曹渓寺は前史として触れるにとどめ、実際の墓所としては祥雲寺に注目するのが自然でしょう。

吹上藩有馬家の祖は有馬頼次で、久留米藩初代藩主・有馬豊氏の三男にあたります。その子孫は紀州徳川家に仕え、のちに有馬氏倫の代で大名として取り立てられました。さらに有馬氏郁が上総五井藩から下野国吹上へ移り、吹上藩を立藩します。こうした家の流れを受けて、祥雲寺の「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」は、吹上藩有馬家の系譜を今に伝える墓所として位置づけられるものといえます。

吹上藩有馬家の墓所として、いま私が特に注目しているのが、渋谷広尾にある祥雲寺の「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」です。ここには、吹上藩主有馬家の歴代を示す墓がまとまっており、有馬家の江戸における拠点の一つが、たしかにこの地にあったことを感じさせてくれます。(shouunji.or.jp)

一方で、有馬氏弘の遺骨について考えるとき、もう一つ気になるお寺が曹渓寺です。曹渓寺は、江戸時代の有馬家とゆかりがあるとされる寺院で、江戸での「菩提寺」としての役割を一時期担っていた可能性があります。ただ、いまのところ私が確認できている範囲では、氏弘の遺骨が曹渓寺に納められていたことを示す、はっきりした記録には出会っていません。

これに対して祥雲寺は、福岡藩黒田家をはじめ、久留米藩主有馬家や吹上藩主有馬家など、複数の大名家の墓地が集まる「江戸の菩提寺」として知られています。境内には黒田家の墓域と並んで、有馬家の墓所も配されており、江戸での有馬家の姿をいまに伝えてくれています。(shouunji.or.jp)

こうして見ていくと、曹渓寺は文献上の手がかりとして「氏弘の行方」を考えるうえで重要な前史を示してくれるお寺であり、実際に現在たどることのできる墓所としては、祥雲寺の「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」が中心的な舞台になっている、と整理できそうです。私自身も、曹渓寺と祥雲寺のあいだを行き来しながら、どのような経緯で墓所が移り変わっていったのかを、少しずつ追いかけているところです。

1章 吹上藩有馬家のルーツにさかのぼる

  • 吹上藩有馬家の祖・有馬頼次
  • 久留米藩初代有馬豊氏から、紀州徳川家に仕える子孫たち
  • 有馬氏倫の大名取り立てと、譜代大名としての位置づけ
  • 有馬氏郁の吹上立藩と、「舊野州吹上藩有馬家」のできあがり

2章 氏弘と頼之――「累代之墓」を建てたのは誰か

  • 曹渓寺の氏弘の墓と、遺骨が見つからないという証言
  • 氏弘の戸籍と、長男猛の早世
  • 有馬頼之が吹上藩有馬家の養子となり家督を継いだこと
  • 「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」を建立した人物としての頼之像
  • 「誰が氏弘の墓を守ってきたのか」という問いをここでいったん提示

3章 祥雲寺という舞台――有馬家の江戸の姿

  • 祥雲寺の概要と、大名家の墓地が集まる「江戸の菩提寺」としての性格 (shouunji.or.jp)
  • その中に位置づけられる「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」
  • 祥雲寺の墓所から見えてくる吹上藩有馬家の「江戸の拠点」
  • 有馬頼之とその子どもたち(聰頼・宗嗣・宗英)の紹介
  • 頼之の系譜と政治家としての歩み
  • 子ども三人の紹介

4章 曹渓寺という前史――「分からないこと」を書きとめる

  • 東京・麻布の曹渓寺に残る有馬家の痕跡(氏弘の墓の情報だけ簡潔に)(14109.jp)
  • 墓誌に名はあっても遺骨が見つからない、という祥雲寺側の証言
  • 曹渓寺と祥雲寺、二つの寺の役割の違い
  • 「曹渓寺は文献上の手がかり、祥雲寺は現に訪ねることのできる墓所」という整理

5章 有馬家の「その後」へ――頼寧たちへの視線

  • 頼之の甥・有馬頼寧の略歴と「革新華族」と呼ばれたこと
  • 頼寧が農民運動・部落解放運動を支援したこと、有馬記念とのつながり
  • 頼之が所属した貴族院「研究会」と、頼寧もその一員だった時期があること
  • 祥雲寺の墓所から、頼寧たちの時代の有馬家を振り返る、という締め方

 祥雲寺と「累代之墓」について

祥雲寺にある「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」は、吹上藩有馬家の歴代を今に伝える大切な墓所です。福岡藩主黒田家や久留米藩主有馬家など、いくつもの大名家の墓地が集まる祥雲寺の中で、この「累代之墓」は、とくに吹上藩主家の流れを示す標として建てられているように見えます。(shouunji.or.jp)

この墓碑を誰が、どのような思いで建てたのかを考えるとき、有馬頼之の存在が浮かび上がってきます。頼之は旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継いだ人物であり、その立場から一族の祖先をまとめて顕彰する「累代之墓」を建立した可能性が高いと考えられます。


🪦 曹渓寺と氏弘の遺骨について

一方で、曾祖父・有馬氏弘の遺骨がどこにあるのかという問いからは、東京・麻布の曹渓寺も見えてきます。曹渓寺には氏弘の墓があるとされますが、吹上藩有馬家の墓所がある祥雲寺の関係者によると、氏弘の遺骨そのものは祥雲寺の墓所にはなく、墓誌に名前が刻まれているにもかかわらず、遺骨がどこにあるのかは分からないということでした。(access21-co.xsrv.jp)

有馬氏弘の養子とされる頼之が、曹渓寺や祥雲寺で氏弘の遺骨をどのように扱ったのかについても、現時点で確認できる史料は見つかっていません。私自身も強い関心を持って調べている部分ですが、いまのところは「氏弘の墓と名は残っているが、遺骨の所在は不明」という段階にとどまっています。


🧑‍💼 有馬頼之・頼寧・研究会について

有馬頼之は、久留米藩主・有馬頼咸の七男として生まれ、のちに旧吹上藩有馬家の養子となって家督を継ぎました。明治から大正にかけては、貴族院の子爵議員として活動した政治家でもあります。1902年〈明治35年〉に子爵互選による補欠選挙で当選し、1917年〈大正6年〉に亡くなるまで、貴族院議員として在任しました。所属会派は、子爵議員を中心に構成された「研究会」でした。(jacar.go.jp)

有馬家には、頼之以外にも政治の世界で活躍した人物がいます。なかでも有馬頼寧〈ありま よりやす〉は、頼之から見ると甥にあたる人物で、衆議院議員、貴族院議員、農林大臣などを歴任した政治家・農政学者として知られています。頼寧は農民運動や部落解放運動を支援し、「革新華族」と呼ばれました。また、彼の功績を記念して創設された競馬のレースが、現在も続く「有馬記念」です。(kotobank.jp)

頼之と頼寧はいずれも、貴族院の会派「研究会」に所属していました。研究会は、華族議員を中心とする貴族院のなかで有力な会派の一つで、とくに大正期には最大勢力の会派とも評されました。勅選議員中心の会派「幸倶楽部」と並び、政府や政党とのあいだで貴族院の勢力バランスを左右する存在だったとされています。(kotobank.jp)

華族有馬家の墓所をたどっていると、私は思いがけず、祥雲寺と曹渓寺という二つの寺に行き着きました。とくに、祥雲寺にある「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」を目にしたときは、ここに一族の歴史が静かに刻まれているのだと知り、大きな驚きを覚えました。けれど同時に、曾祖父・有馬氏弘の遺骨がどこに納められたのかは、まだはっきり分かっていません。だからこそ、こうして少しずつ手がかりを集めながら、祖先の歩みに触れられることに感謝し、どうか安らかにと祈る気持ちで、この記録をまとめています。

曹渓寺(そうけいじ)は、東京都港区南麻布2丁目にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は日東山。

祥雲寺(しょううんじ)は、東京都渋谷区広尾五丁目にある、臨済宗大徳寺派の寺院。山号は瑞泉山(ずいせんざん)。

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