安積郡対面原開墾者共同墓地における有馬氏弘墓発見報告と私の回想

2026.8.12 特報記事

安積郡での墓所発見の報告

2026年7月18日、歴史研究家の庄司一幸さんと安積町郷土史研究会会長の我妻幸光さんは、2人で安積郡対面原開墾の共同墓地を調査される予定であると伺っていた。この日のお天気や道中のことを案じつつ、どのような成果があるのか、私は一日中落ち着かない気持ちでその時を待っていた。夕方になると、我妻さんから「墓がありました。日和田町の水田地帯の中の共同墓地に、井上家の墓の一角として有馬氏弘の墓を確認しました」と、早急なFAXによる第一報が届いた。さらに夜になると続報のFAXが届いた。日和田の山清寺を訪ね住職さんとお母さまと話をしているうちに、お母さまから「寺から南西に2kmほどのところに共同墓地がある」とうかがい、濁池を手がかりに周辺で聞き込みをされたというのである。

田地帯の共同墓地には、およそ10軒分ほどの墓が並んでいたものの、「有馬家」の墓は見当たらなかった。そこで庄司さんと我妻さんは、一基一基をくまなく見て回られたという。そのうちに、井上家の墓所の一角に「有馬氏弘」の名を刻んだ墓石を見つけてくださったのである。
このたびお送りいただいた有馬氏弘の墓所略図を拝見し、そこに記された「有弘道英清信士 旧有馬藩士有馬氏弘 64歳 大正3年旧3月21日」という文字を確認した。戸籍記録とも照合した結果、これは間違いなく曾祖父・有馬氏弘の墓であると判断した。戸籍上の没年月日は大正3年4月と記載されているが、これは旧暦表記とのずれによるものと考えられる。この略図を目にしたとき、私は言葉にならないほど深く感動した。

鶴番共同墓地と井上家とのご縁

翌朝、庄司さんは本来メールで詳細をご報告くださるつもりであったが、私のメールアドレスがうまく届かず、FAXでのご連絡となった。FAXには、氏弘が亡くなったとされる濁池にも足を運ばれたことが記されていた。原野の只中で倒れたのではなく、日和田の山清寺を訪ねたのち、対面原の家へ戻る途中で亡くなったのではないかという見立てである。
墓所がある「鶴番」は対面原を一望できる小高い丘で、かつては鶴を観察するための見張り所が置かれていた場所だと考えられている。その鶴番の共同墓地の一角に、有馬氏弘の墓がひっそりと建っていた。
井上藤蔵は、有馬氏弘より先に明治13年7月には対面原に入植しており、開墾生活の中で氏弘は井上家に大変お世話になったのではないかと思われる。推測ではあるが、氏弘の妹セイが井上家に嫁いでいたために、有馬氏弘の墓が井上家の墓所の一角に建立された可能性が高い。略図には井上家の二基の墓石と並んで、氏弘の墓が描かれている。その後、井上家は北海道へと移り成功をおさめ、鶴番の共同墓地では二区画にわたる広い墓所を構えるに至ったという。

井上家の墓所には、今も関係者の方々が命日にお参りされているようすがうかがえる。墓石の銘や寺院との関係から、井上家は天台宗であったらしく、日和田の天台宗寺院である西方寺の檀家であったと考えられる。この記録を読み進めるうちに、「これからも井上家が有馬氏弘の墓を守ってくださるに違いない」と、私はようやく一安心することができた。
その夜には、我妻さんから再びFAXが届いた。共同墓地の写真や資料一式に加えて、有馬氏弘の墓所略図を追送してくださったのである。略図には「有弘道英清信士」に加え、「◯◯院華上遊魂居士」「◯◯妙念信女」と記されており、「この2人はおそらく井上家の方々でしょう」と教えてくださった。
いま振り返ると、今回の墓探しは、歴史研究家の庄司一幸さんと郡山地方の郷土史家である我妻幸光さんのお二人と「コラボ」しなければ、決してたどり着けなかった場所であった。2年前の11月に戸籍謄本を入手し、その翌年1月から曾祖父・有馬氏弘についてのブログを書き始めたが、今回のご報告によって、その探求は大きく次の段階へと踏み出したと感じている。

「庄司さん・我妻さんへの謝辞」

今回の墓所発見は、私一人の力では決してたどり着けなかった成果である。安積開墾と対面原の歴史を長年追い続けてこられた歴史研究家・庄司一幸さん、安積町郷土史研究会会長として地域の資料と地理に通じた我妻幸光さんのお二人が、炎天下の水田地帯を歩き、濁池や山清寺、鶴番の丘を一つ一つ確かめてくださったからこそ、「井上家墓所の一角にある有馬氏弘の墓」にたどり着くことができた。FAXと写真、略図、そして丁寧なメモを通じて、その一日を私に共有してくださったおかげで、安積郡での曾祖父の最晩年は、単なる戸籍上の一行ではなく、具体的な地名と風景をともなった物語として立ち上がってきた。この場を借りて、あらためて深く感謝をお伝えしたい。

相続手続きから始まった曾祖父探し

回想すると、2024年11月下旬頃のことである。銀行から母の相続手続きに関する依頼書が届いたため、私は埼玉県川口市役所を訪ね、母の出生から死亡までの戸籍謄本を取得した。その中に、見慣れない一つの名前を見つけた。「有馬氏弘」である。
子どもの頃、母から「曾祖父は華族だったそうだ」「祖母は祖父と駆け落ちして平民になった」といった話を、断片的に聞かされていたものの、曾祖父の名前をきちんと知るのはこれが初めてだった。戸籍の文字を前に、ようやく曾祖父が一人の人物として立ち上がってきた瞬間だった。
さっそくインターネットで「有馬氏弘」を検索してみると、「有馬氏弘は下野吹上藩の藩主であった」といった説明が見つかった。幼少で家督を継いだために藩政を主導できず、家老による藩政運営が続いたこと、やがて家老による藩費横領の疑いから、家臣団の一部が東京の藩邸を襲撃し家老を殺害するという事件が起こったこと、その責任をとって謹慎と十日間の閉門を命じられたことなどが簡潔に記されていた。
1876年(明治9年)には華族に列せられたものの、その後、曾祖父がどのような人生を歩み、どこで亡くなったのかまでは、当時の私にはまだ見えていなかった。ただ、「相続手続きのための戸籍」から始まったこの一件が、やがて曾祖父・有馬氏弘の足跡をたどる長い旅路の出発点になるとは、まだ想像もしていなかったのである。

消息不明とされた最後の吹上藩主

1876年(明治9年)、曾祖父・有馬氏弘は義母の有馬鎮に家督を譲り、有馬家から除籍された。その後の消息は不明とされてきた。多くの紹介文では「生誕は1850年(嘉永3年)、死没は不詳」とだけ記されている。
しかし戸籍をたどると、最後の吹上藩主であった氏弘は、有馬家から除籍されたのち福島県安積郡で暮らしていたことが分かる。この事実を知ったとき、「消息は不明」「死没は不詳」といった言葉とのあいだに横たわる大きな溝に、私は激しい衝撃を受けた。
その後、インターネット上で試撃行ブログ「東京都渋谷区 祥雲寺/吹家墓所」の記事に行き当たった。そこには「明治9年には義母の有馬鎮に家督を譲り、有馬家から除籍していますので、最後の藩主氏弘の碑銘はあるものの、遺骨はこの墓には入っておらず、その後の消息は不明のようです」といった趣旨の記述があった。この一文は、かつての私と同じように「その後の氏弘」の姿を探してこられた方の到達点でもあり、同時に、私にとっては「安積郡で暮らしていた氏弘」の足跡をどう位置づけるかという大きな課題を突きつけるものでもあった。

子孫として名乗り出る決心

試撃行ブログ「東京都渋谷区 祥雲寺/吹上藩有馬家墓所」の記事を読むと、「最後の藩主氏弘の碑銘はあるものの、遺骨はこの墓には入っておらず、その後の消息は不明のようです」と記されていた。私はしばらく、この記述にコメントを寄せるべきかどうか迷い続けた。
そうした迷いのなかで迎えた年明け、私はあらためて渋谷・祥雲寺の有馬家墓所を訪れ、正月の墓参りを行った。そのとき、「ここで氏弘の子孫である自分の情報を名乗り出よう」と心を決めた。帰宅した翌日、ついに試撃行の記事にコメントを投稿したのである。
実は、氏弘の除籍後の人生に関する「子孫からの情報」については、すでに同じウェブサイト「試撃行」の当該記事の末尾で触れられている。そこには、先ほど引用した一文に続けて、「ご子孫の方の情報によると、福島県安積郡で暮らしていた」といった趣旨の追記がなされている。ここに記された「ご子孫の方」とは、まさに私自身のことであり、コメントを通じてお伝えした、安積郡での曾祖父の暮らしと死没に関する情報である。

相続手続きから始まった曾祖父探し

きっかけは、母の相続手続きだった。
2024年11月下旬、銀行から届いた書類に従い、私は埼玉県川口市役所で母の出生から死亡までの戸籍謄本を取り寄せた。その紙片の中に、見覚えのない一つの名前があった。「有馬氏弘」と記されていた。
子どもの頃、祖母から「曾祖父は華族だった」「祖母は祖父と駆け落ちして平民になった」といった話を、断片的に聞かされてはいた。しかし、曾祖父の実名を知ったのは、このときが初めてだった。
戸籍に印字された「有馬氏弘」という四文字を前に、私はすぐにインターネットでこの名前を検索した。そこで初めて、氏弘が下野吹上藩の最後の藩主であり、家老による藩政、藩邸襲撃事件、華族編入といった出来事のただ中を生きた人物であったことを知ることになる。

『消息不明』とされた最後の吹上藩主

インターネット上で「有馬氏弘」を検索すると、多くの記事は同じところで筆をとめている。「生誕は1850年(嘉永3年)、死没は不詳」「明治9年に義母の有馬鎮へ家督を譲り、有馬家から除籍されたのち、その消息は不明」といった一文である。相続手続きの戸籍から曾祖父の名を知ったばかりの私は、この「消息不明」「死没不詳」という言葉に、強い衝撃を受けた。
しかし、同じ戸籍が示していたのは、「最後の吹上藩主」であった氏弘が、その後福島県安積郡で暮らしていたという、まったく別の風景だった。一般の紹介文が「その後は不明」と結ぶその先に、どのような人生が広がっていたのか。ここから先は、子孫としての私自身がたどるほかなかった。

「井上家によって守られる氏弘の墓」

今回の墓所発見は、私1人の力では決してたどり着けなかった成果である。安積開墾と対面原の歴史を長年追い続けてこられた歴史研究家・庄司一幸さん、安積町郷土史研究会会長として地域の資料と地理に通じた我妻幸光さんのお2人が、炎天下の水田地帯を歩き、溜池や山清寺、鶴番の丘を一つ一つ確かめてくださったからこそ、「井上家墓所の一角にある有馬氏弘の墓」にたどり着くことができた。FAXと写真、略図、そして丁寧なメモを通じて、その一日を私に共有してくださったおかげで、安積郡での曾祖父の最晩年は、単なる戸籍上の一行ではなく、具体的な地名と風景をともなった物語として立ち上がってきた。この場を借りて、あらためて深く感謝をお伝えしたい。

「おわりに これからの課題」

こうして「消息は不明」「死没は不詳」とされてきた曾祖父・有馬氏弘が、安積郡日和田の鶴番共同墓地で眠っていることが確かめられた。川口市役所で戸籍を手にした相続手続きの一日から、祥雲寺の墓所、試撃行ブログへのコメント、そして庄司さん・我妻さんによる現地調査へと続いたこの二年あまりは、一基の墓石へ向かう道のりでもあったと言える。とはいえ、氏弘がどのような思いで安積郡へ移り、対面原や井上家とどのような日々を過ごしたのかは、まだ十分には見えていない。濁池や山清寺、鶴番の丘をめぐる記録、公文書の中のわずかな一行をたどりながら、曾祖父の最晩年をもう一歩だけ具体的な姿へ近づけていきたい。

🔗 ウェブサイト・ブログ

  • 試撃行「東京都渋谷区 祥雲寺/吹上藩有馬家墓所」
    氏弘の碑銘と「遺骨は入っておらず消息不明」とする記述を知った記事。(access21-co.xsrv.jp)
  • 幕末維新写真館「吹上藩/有馬家一万石」
    吹上藩と有馬氏弘の略歴、戊辰戦争期の動向を確認。(jp-history.info)
  • 幕末ガイド「吹上藩の詳細、家紋、出身の志士」
    吹上藩の基本情報や藩主名の整理に利用。(bakumatsu.org)
  • 名字由来net「譜代 吹上有馬家」
    有馬家歴代と参考文献の一覧を確認。(mnk-news.net)
  • 国文学研究資料館アーカイブ「有馬家関係史料群概要」
    吹上有馬家の系譜と、氏弘家記に関する概要を把握。(archives.nijl.ac.jp)
  • 歴史調査ブログ「曾祖父 有馬氏弘の足跡」既存記事
    吹上藩陣屋跡や正仙寺の参拝記録など、これまでの調査の整理。(mainecoonyuki.blog)

📘 辞典・総覧等

  • コトバンク「有馬氏」
    吹上有馬家が久留米藩有馬氏の支流であることを確認。(kotobank.jp)
  • 百科・系譜サイトなど
    最後の藩主としての氏弘や、華族編入後の有馬家の位置付けを確認。(ja.wikid.org)

 安積郡日和田での墓所発見

  • 2026年7月18日、庄司さん・我妻さんによる現地調査
  • 「二〇二六年七月十八日の共同調査」「『墓がありました』夕方の第一報」などの中見出しを差し込み
  • 水田地帯の共同墓地の情景描写
  • 井上家墓所の一角で有馬氏弘の墓石を見つけた描写
  • 略図に記された「有弘道英清信士…」と戸籍との照合
  • 旧暦と戸籍上の没年月日のずれに触れる
  • 略図を受け取ったときの「言葉にならないほどの感動」の段落

鶴番共同墓地と井上家とのご縁

  • 溜池・山清寺・対面原の家を結ぶ「最期の道筋」の推定
  • 対面原を見渡す小高い丘「鶴番」の地形説明
  • 明治十三年に先に入植した井上藤蔵の存在
  • 妹セイが井上家に嫁いだ可能性と、それに基づく墓所の位置の解釈
  • 井上家二基の墓石と氏弘の墓の並びに触れる

井上家によって守られる氏弘の墓

  • 命日に参られている痕跡から、供養が続いていることへの安堵
  • 井上家が天台宗であること、西方寺の檀家であったと考えられること
  • 「井上家が氏弘の墓を守ってくれる」という安心感を述べた段落
  • 写真・資料一式・略図を送ってくれた我妻さんのFAXの描写
  • ここで、先ほどの「庄司さん・我妻さんへの謝辞」の一段落を配置

相続手続きから始まった曾祖父探し

  • 川口市役所での戸籍謄本取得
  • 「有馬氏弘」という名前との初対面
  • 子どもの頃に聞いた「華族」「駆け落ち」の記憶

「消息不明」とされた最後の吹上藩主

  • ネット検索で知った吹上藩主としての略歴
  • 一般的な紹介文における「死没不詳」「消息不明」
  • 試撃行「祥雲寺/吹上藩有馬家墓所」との出会い

子孫として名乗り出る決心

  • コメント投稿を迷っていた時間
  • 正月の祥雲寺参拝で「子孫として名乗り出る」ことを決心
  • 翌日のコメント投稿と、「ご子孫の情報として追記された」という説明

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