有馬氏弘「家禄引当拝借金願」を読む──家禄引当拝借金と秩禄処分をめぐる一考察

国立公文書館デジタルアーカイブにある件名「有馬氏弘家禄引当拝借金願」については、
この史料は、有馬氏弘が家禄を担保に金銭を借り入れたいと願い出た際の記録であると考えられます。
明治維新後の士族にとって、家禄は生活の基盤でした。

吉田 由起子

「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」を建立した人物は、有馬頼之である可能性が高いです。
【時期】
•「有馬頼之」は旧吹上藩有馬家の養子となり、家督を継ぎました。
• これをもって、累代の墓が建立されたと考えられます。
〈補足〉
• 吹上藩有馬家は、久留米藩初代有馬豊氏の三男である有馬頼次を祖としています。
• 有馬氏倫が加増され大名となり、西条藩、五井藩を経て吹上藩に移りました。
• 有馬氏郁が吹上藩の初代藩主です。
吹上藩有馬家の祖は、有馬頼次(ありま よりつぐ)です。
【概要】
• 馬頼次は久留米藩初代藩主である有馬豊氏の三男です。
• その後、頼次の子孫は紀州徳川家に仕えました。
• 4代目の有馬氏倫が徳川吉宗の将軍就任に伴い幕臣となり、大名に取り立てられました。
• 有馬氏倫の系統が譜代大名として扱われることになります。
• その後、有馬氏郁が上総五井藩から下野国吹上(現在の栃木県栃木市吹上)に移り、吹上藩を立藩しました。

祥雲寺にある「舊野州吹上藩有馬家累代之墓」の隣に「貴族院議員(従三位、勲三等)子爵有馬頼之墓」という墓所があります。氏弘の養子である有馬頼之は氏弘の遺骨をこの墓所に納骨しないか、それと付き合いがあったかという疑問がありますが、この把握することが難しいです。

有馬氏弘さんの東京での華族としての具体的な仕事については、残念ながら詳しい記録が見つかりませんでしたとのことです。
しかし、廃藩置県以降の旧大名や華族の多くは、新しい時代の中でさまざまな役割を担っていました。
【 華族の東京移住と役割】
廃藩置県により、知藩事となった旧大名たちは職を免じられ、東京への居住を命じられました。これは約260以上もの旧大名にとって大きな転換点でした。
・華族としての身分:明治政府は、江戸時代の大名を「華族」という特権階級に位置づけました。これにより、かつてのような領地や領民を直接支配する役割はなくなりましたが、政府から家禄(給料)が支払われました。
・東京での生活:東京に集められた華族は、旧家臣団との交流を続け、家令(家政を取り仕切る役職)などに旧家臣を雇用して家政を運営することも珍しくありませんでした。
【 旧大名・華族の活動例】
旧大名である華族がどのような活動をしていたかは、個々人で異なりますが、いくつかの傾向が見られます。
・政府の要職:政治の世界から離れた旧大名の中には、外交官や天皇の側近として新政府に貢献する者もいました。
・地域経済への貢献:旧領地における産業経営や、地方の歴史資料の収集・保存など、地域の発展に尽力する華族もいました。
・文化・学術活動:中には、趣味に没頭したり、学術的な活動を行ったりする者もいました。例えば、徳川慶喜は赦免後、静岡で鷹狩りや乗馬、和歌などを楽しむ隠居生活を送っています。
・慈善事業・教育事業:華族は、国民の模範となるべき存在とされ、学習院への入学が必須とされていました。教育や社会貢献活動に力を入れる者もいました。
有馬氏弘さんの場合、知藩事免官後に家督を養母に譲り離縁しているため、有馬家としての公的な活動からは距離を置いていた可能性も考えられます。
華族が東京へ移住した背景には、明治維新後の日本の社会制度の大きな変化が関係しています。
【新政府の政策と華族制度の確立】
明治新政府は、封建的な身分制度を廃止し、新たな国家体制を築くために華族制度を設けました。
・旧公家と旧大名の統合:明治2年(1869年)に、それまでの公卿(公家)と諸侯(大名)の呼称を廃止し、「華族」と改めました。これにより、旧来の貴族階級が一つに統合され、新たな特権階級として位置づけられたのです。
・「皇室の藩屏」としての役割:華族は天皇の一族である皇族の下位に位置づけられ、国民の模範となる存在、つまり「皇室の藩屏」として皇室を守る役割を担うことが期待されました。
・爵位制度の導入:明治17年(1884年)に華族令が制定され、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵制が定められました。これにより、華族内部にも明確な序列が生まれました。
【廃藩置県と知藩事の解任】
廃藩置県は、旧大名たちが東京に移住する直接的なきっかけとなりました。
・政治的役割の喪失:当初、旧諸侯華族は各藩の藩知事を兼ねるという政治的役割を持っていましたが、明治4年(1871年)の廃藩置県により全ての旧大名華族が藩知事を解任されました。これにより、旧大名としての政治的役割は失われました。
・東京への居住指示:政治的役割を終えた旧藩主たちは、東京への居住を命じられました。これは新政府が中央集権体制を確立する上で、旧藩主たちの地方での影響力を排除する意図もあったようです。
【 華族に与えられた特権】
東京に移住した華族には、いくつかの特権が与えられました。
・経済的特権:明治19年(1886年)に公布された華族世襲財産法により、華族の財産は特別な保護を受けました。これにより、負債の抵当として差し押さえられない世襲財産を設定できるようになりました。
・政治的特権:有爵者は貴族院の有爵議員(華族議員)に選出される特権を持っていました。貴族院は日本の政治に大きな影響を及ぼすことができました。
・教育的特権:華族の子どもたちは、東京に開校された学習院に入学し、質の高い教育を受けることができました。
これらの政策により、多くの旧大名や公家が東京に移り住み、華族として新たな生活を始めることになったのです。
華族の財産管理は、明治政府によって特別な配慮がなされていました。華族は「皇室の藩屏」としての役割を期待されていたため、その生活基盤は保護されるべきだと考えられたためです。
【華族の財産管理の仕組み】
華族の財産は、主に以下の特権と制度によって管理されていました。
・華族世襲財産法:明治19年(1886年)に公布されたこの法律により、華族は差押えができない「世襲財産」を設定することができました。世襲財産は土地や公債証書などが対象で、年間500円以上の純利益を生み出すものは宮内大臣が管理しました。これにより、華族の財産は法的に保護され、世襲されることになりました。
・宮内省による監督と管理:宮内省には、華族部長局・華族局・爵位局(寮)・宗秩寮といった部署が置かれ、華族の監督・統制・保護を行っていました。家範と呼ばれる家政内規の認可も宮内大臣が行い、華族の財産状況は厳しく管理されていたのです。
・恵恤賜金(けいじゅつきん):特に経済的に困窮した旧公家華族や奈良華族などに対しては、明治天皇の御手許金から「旧堂上華族恵恤賜金」が創設されました。この資金で公債証書を購入し、その利子を華族に下賜することで、財政的な支援が行われました。管理は宮内省内蔵寮が行い、貯蓄額が増加すると奈良華族や神官華族にも支給されるようになりました。
【財産管理の課題と華族の没落】
しかし、これらの制度があっても、全ての華族が裕福な生活を送れたわけではありませんでした。
・経済的格差:多額の金禄公債を得た旧大名出身の華族に比べて、公家出身の華族の資産は少なく、厳しい生活を送る者もいました。
・金融恐慌の影響:1927年(昭和2年)の金融恐慌では、有力な華族が出資していた十五銀行が破綻し、多くの華族が財産を失う大打撃を受けました。
・戦後の財産税:第二次世界大戦後、昭和21年(1946年)に施行された財産税は、多くの華族の没落を招きました。高額な財産税の課税により、土地を売却せざるを得ない華族も少なくありませんでした。
そして、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条第2項によって、華族制度自体が廃止されました。これにより、華族の身分とそれに付随する財産管理の仕組みも完全に消滅しました。

華族の財産が保護されたのは、明治政府の確立と円滑な国家運営において、彼らが重要な役割を担うとされていたためです。
【 明治政府における華族の位置づけ】
明治維新後、明治政府は旧来の身分制度を再編し、華族という新たな特権階級を創設しました。
・旧大名・公家の不満抑制:廃藩置県により領地と人民を失った旧大名や、長きにわたり朝廷に仕えてきた公家たちの不満を抑えるため、新たな身分と特権を与える必要がありました。華族制度は、彼らの高い身分を別の形で保障する妥協策でもあったのです。
・「皇室の藩屏」としての役割:華族は、天皇の一族である皇族の下に位置づけられ、「皇室の藩屏(はんぺい)」、つまり皇室を守り支える存在として期待されました。国民の模範となる存在として、その地位が確立されたのです。
・中央集権化の推進:廃藩置県によって、各藩主が持っていた徴税権や軍事権が明治政府に統合されました。この中央集権化をスムーズに進めるためにも、旧藩主である華族を政府の統制下に置き、経済的基盤を保障する必要があったと考えられます。
【 財産保護の具体的な措置】
これらの役割を果たす上で、華族の経済的安定は不可欠とされ、様々な形で財産保護が図られました。
・華族世襲財産法の制定:明治19年(1886年)には華族世襲財産法が制定され、華族は負債の差し押さえ対象とならない「世襲財産」を設定することが可能となりました。これにより、家財が守られ、華族としての生活を維持できる仕組みが作られました。
・宮内省による監督・保護:宮内省には華族を監督・統制・保護するための部署が置かれ、爵位の授与や陞爵(昇進)、さらには華族各家からの届け出などが管理されました。また、経済的に困窮した華族に対しては、天皇からの「恵恤賜金」といった財政支援も行われました。
・教育の優遇:華族の子息は、学習院への入学が保証されるなど、質の高い教育を受ける機会が優遇されていました。これは、将来的に国の要職を担う人材を育成するという側面もありました。
このように、華族の財産保護は、明治政府が目指す近代国家の確立と、天皇を中心とする国家体制を支える上で不可欠な政策として位置づけられていたのです。
華族の財産は、個々の華族が自身で管理する部分と、宮内省が監督・管理する部分がありました。
【 宮内省による管理と監督】
明治政府は「皇室の藩屏」として華族を位置づけ、その生活基盤を保護するため、宮内省が財産管理に深く関与していました。
・担当部局:宮内省には、華族部長局、華族局、爵位局(寮)、宗秩寮といった部局が置かれ、華族の監督・統制・保護を行っていました。
・家範の認可:有爵者(爵位を持つ華族)は、宮内大臣の認可を得て「家範(かはん)」と呼ばれる家政内規を定めることができました。この家範には、家の心構えから家督相続、財政・会計に至るまで、家政全般に関する細かな規定が含まれていました。
・世襲財産の監督:明治19年(1886年)に公布された華族世襲財産法により、華族は負債から差し押さえられない「世襲財産」を設定することが可能になりました。年間500円以上の純利益を生み出す世襲財産は、宮内大臣が管理しました。
【華族自身の管理と課題】
一方で、華族は自らの財産を管理し、家政を切り盛りする必要がありました。
・金禄公債:廃藩置県の後、旧大名や旧公家には家禄に代わる金禄公債が支給されました。これを元手に、金融業や会社経営に乗り出す華族もいました。
・家政の運営:華族は、多くの使用人を抱え、華やかな生活を維持するために多額の費用を必要としました。家令などの旧家臣を雇用して家政を取り仕切らせることも珍しくありませんでした。
・経済的苦境:しかし、すべての華族が裕福だったわけではありません。特に、公家出身の華族は、旧大名出身者に比べて資産が少なく、生活に苦しむケースもありました。また、世襲財産は自由に運用できないなど、華族自身も不便を感じることがあったようです。
このように、華族の財産は宮内省による監督の下、各華族自身が管理するという形態でしたが、その実情はそれぞれの家によって大きく異なっていました。
国立公文書館デジタルアーカイブでは、件名「有馬氏弘家禄引当拝借金願」のことを前から気になっています。
藩主としての地位を失った後、彼の生活には大きな変化があったと推測されます。藩主の特権や収入源が失われたことで、経済的にも影響を受けた可能性があります。この時期、多くの旧藩主たちが新たな時代に適応するための生活を送っていました。  
  当館所蔵の公文録中にある件名「有馬氏弘家禄引当拝借金願」
  https://www.digital.archives.go.jp/item/2350699.html
この公文録は明治4年です。明治4年(1871年)の廃藩置県により全ての旧大名華族が藩知事を解任されました。氏弘は藩知事を解任された後、「どうして金が必要か」ということを知りたいです。

投稿作成者

ご質問の「どうしてお金が必要か」ですが、「有馬氏弘家禄引当拝借金願」では、
アメリカ留学の生活費が足りなかった為、拝借を願い出たとなっています。
たぶんその通りなのではないでしょうか?
幕末期より藩士等が留学してますが、大概は長州、薩摩等の潤沢な資金を持つ藩で、
藩より生活費が支給される訳です。
更に氏弘は華族という立場上、苦学生のような暮らしも出来ず、
社交場に顔を出さなければならなかったり、積算より多くの資金が入用だったのでしょう。
もしかしたらぼったくられたりしたかもですし、無駄使いもあったかもしれませんね。

吉田 由起子

国立公文書館デジタルアーカイブにある件名「有馬氏弘家禄引当拝借金願」については、
この史料は、有馬氏弘が家禄を担保に金銭を借り入れたいと願い出た際の記録であると考えられます。
明治維新後の士族にとって、家禄は生活の基盤でした。家禄引当拝借金願は、当時の士族が資金を必要とした際に、家禄を担保として国や藩から金銭を借り入れるための手続きや申請内容が記されていると推測されます。
「家禄引当拝借金願」における拝借金の返済について、直接的な情報は提供されていません。しかし、当時の一般的な制度や状況から、いくつかの可能性が考えられます。
【返済に関する可能性】

・家禄からの返済
  借金の担保が家禄であるため、家禄から分割して返済された可能性があります。
  江戸時代、武士は家禄を担保に札差(ふださし)から借金をしており、これは銀行のような役割を果たしていました。明治時代に同様の仕組みが存続していた可能性も考えられます。
・資金難による返済困難
・明治維新後、士族は家禄に依存しており、家禄は明治政府の財政を圧迫していました。

  家禄を受けていた人々の中には、生活に困窮する者が多くいました。そのため、借り入れた金の返済が困難になった可能性も十分に考えられます。
・秩禄処分による影響
 明治政府は、財政健全化のため「秩禄処分」を行い、家禄を段階的に廃止しました。
・家禄奉還を希望する士族には、家禄の数年分が一時金や秩禄公債として支給されました。

・秩禄公債は、最長で7年間で償還される計画でした。この制度によって、借金の返済に充てられたり、新たな事業の資金とされたりした可能性があります。
これらの情報は、当時の社会情勢や制度からの推測であり、有馬氏弘個人の拝借金の返済状況を特定するものではありません。

有馬氏弘の正確な家禄について、提供された情報源には具体的な記述がありませんでした。
ただし、幕末から明治初期にかけての武士の禄高に関する一般的な状況として、以下の点が挙げられます。
【武士の俸禄の仕組み】
・俸禄の形態:江戸時代の武士の生活は、主君から支給される俸禄によって支えられていました。
・石高での表現:「何石何人扶持」といった形で俸禄の額が示され、これは藩主が領内から徴収した年貢米(蔵米)を家臣に支給する制度でした。
・実質の俸禄:知行高が百石の場合、実質的な俸禄は四割の四十石程度となるのが一般的でした。
【明治期の武士の生活】

・経済的困窮:江戸時代には俸禄が生活の基盤でしたが、明治維新後の秩禄処分などにより、多くの旧武士階級は経済的に困窮しました。

【戊辰戦争と明治維新】
1868年(明治慶応4年と明治元年)の戊辰戦争では新政府に協力し、奥州へ出兵しました。明治維新後の1869年(明治2年)3月には、若年の氏弘に代わって藩の財政を不正に管理した家老を藩士9名が殺傷するという事件が起こりました。同年6月には版籍奉還により知藩事(ちはんじ)に任命され、戊辰戦争の功績を認められて2000両の賞典金を受け取っています。しかし、1871(明治4年)年7月14日の廃藩置県により知藩事の職を免じられました。

賞典金2,000両は、現在の価値にすると数億円にも上る非常に高額な報奨金だったと推測できます。これは、有馬氏弘が新政府に恭順したことへの評価と、その貢献がいかに重要視されていたかを示していると言えるでしょう。

『2,000両が当時の生活水準で持つ価値』
江戸時代、特に幕末から明治維新期は、貨幣価値が大きく変動した時代でした。しかし、一般的な目安として、2,000両がどれほどの生活を支えられたかを見てみましょう。
【 庶民の生活費と比較】
江戸時代の庶民の生活について、いくつかの事例を参考にできます。
・米価での換算: 江戸時代の米1石(約150kg)が1両とされていました。成人男性が1年間に食べる米の量が約1石と言われていますので、1両あれば成人1人が1年暮らせる食費は賄えたと考えることができます。
  2,000両では、成人男性2,000人分の1年間の食費に相当します。これは、非常に多くの人々の暮らしを支  えられる金額です。
・職人の賃金と比較: 大工の日当が200~300文程度で、1両で1日23人の大工を雇えたという記録もあります。
  当時の大工の年収は、資料によっては銀で換算され約450万円に相当するとも言われますが、これは現代に直した金額です。当時の大工の年収が例えば10両だと仮定すると、2,000両は200年分の収入に匹敵します。
・屋敷と使用人: 旗本の生活水準を見てみると、例えば400石級の旗本(年収約160両)でも、槍持ち、草履取り、炊事係など10人程度の使用人を抱えていたとされます。彼らは、節約しながらも何とか生活を回していた状況でした。
  2,000両は、このような旗本のおよそ12年分の年収に相当し、相当に裕福な生活が送れたと考えられます。
・購入できるもの: 当時のかけ蕎麦1杯が16文、酒1升が200文、裏長屋の家賃が600文程度でした。1両は銭6,500文と仮定すると、1両でかけ蕎麦を約406杯食べることができ、裏長屋の家賃が約10か月分に相当します。
・2,000両あれば、想像を絶するほどの量の物資を購入でき、かなりの豪邸に住むこともできたでしょう。
【藩主の生活から見ると】
有馬氏弘はかつて藩主であり、その家格は非常に高いものでした。藩主クラスになると、俸禄(石高)は数千石から万石単位になり、その収入は圧倒的に多かったはずです。しかし、藩主としての維持費や、家臣を養う費用、参勤交代の費用など、多額の出費も伴いました。
賞典金2,000両は、新政府からの褒賞であり、通常の藩の収入とは別の臨時収入です。廃藩置県後で藩主としての義務がなくなった状況であれば、彼の生活は非常に豊かなものになったと考えられます。
つまり、2,000両は当時の庶民にとっては途方もない大金であり、旧藩主であった氏弘にとっても、廃藩置県後の生活を安定させる上で非常に大きな財産だったと言えるでしょう。

賞典金2,000両は廃藩置県後の生活を安定させたのに、「家禄引当拝借金願」はなぜ使う必要かということを気になっています。経済的困窮している士族への支援費が足りなかったことを推測しています。それと東京での生活では、東京に集められた華族は、旧家臣団との交流を続けて、莫大な交際費になったではと考えられます。

既存記事の推敲

国立公文書館デジタルアーカイブにある件名「有馬氏弘家禄引当拝借金願」は、以前から気になっている史料である。
この史料は、有馬氏弘が家禄を担保に金銭を借り入れたいと願い出た際の記録であったと考えられる。

明治維新後の士族にとって、家禄は依然として生活の基盤であった。
「家禄引当拝借金願」とは、そうした家禄を担保として、国や藩から資金を借り入れるための手続きや申請内容を記した文書だと推測される。収入の柱である家禄を、いわば将来分まで見込んで前借りするような仕組みである。

この「家禄引当拝借金願」のなかで、拝借金の返済がどのように扱われていたのかについては、手元の情報だけでは直接的なことは分からない。ただし、当時の一般的な制度や、ほかの士族がたどった事例から、いくつかの可能性を考えることはできる。

氏弘は藩知事を解任されたのち、なぜこれほどまでに金銭を必要としたのか。
その手がかりとして、国立公文書館デジタルアーカイブに残る「有馬氏弘家禄引当拝借金願」という公文書がある。この史料によれば、拝借金を願い出た理由は、アメリカ留学の生活費が不足したためだとされている。まずは、この記載の通りに受け取ってよいだろう。

幕末から明治にかけて、多くの藩士たちが海外留学に送り出されたが、その多くは長州や薩摩など、比較的財政に余裕のある藩の出身者であった。彼らには藩から生活費が支給されるのが通例であり、経済的な基盤をある程度は保障されたうえでの留学だった。

しかし氏弘の場合、事情はもう少し複雑だったと考えられる。華族という身分上、表向きには「苦学生」のような暮らしをすることは難しく、一定の生活水準や体面を保つことが求められただろう。社交の場に顔を出す必要もあったはずで、そのたびに衣服や交際費など、見積もり以上の出費が重なった可能性が高い。

あるいは、土地勘もない異国で不利な条件の契約を結ばされたり、割高な支払いを強いられることもあったかもしれない。そこには、単なる浪費だけでは説明しきれない、華族としての体面と留学生活とのギャップが生んだ出費が折り重なっていたのではないか。

「家禄を引き当てに拝借金を願う」という行為の背景には、こうした事情が静かに横たわっていたように思われる。

まず考えられるのは、家禄からの返済である。
拝借金の担保が家禄である以上、一定額を家禄から天引きする形で、分割返済が行われた可能性が高い。江戸時代には、武士が家禄を担保として札差から金を借りる慣行があり、札差は現在の金融機関のような役割を担っていたとされる。同様の仕組みが、明治初年にも形を変えながら存続していた可能性は十分に考えられる。

一方で、資金難による返済困難という可能性も否定できない。
明治維新後、多くの士族は依然として家禄に生活を依存していたが、その家禄の支給自体が、新政府の財政を圧迫していたことが知られている。家禄受給者のなかには、生活に困窮する者も少なくなかった。そうした状況のなかで、借り入れた金銭の返済が滞ったり、猶予を願い出たりする事例も想像しうる。

「有馬氏弘家禄引当拝借金願」が、その後どのように処理され、どのような条件で返済されたのかは、現在手元の情報だけでは断定できない。それでも、家禄を引き当てに拝借金を願い出るという行為の背後には、こうした制度的な枠組みと、士族階層の逼迫した生活事情が重なり合っていたと考えられる。

さらに、秩禄処分の影響も見逃せない。
明治政府は財政健全化を進めるため、家禄や賞典禄を段階的に廃止する「秩禄処分」を実施した。家禄奉還を希望した士族には、家禄の数年分をまとめて一時金と秩禄公債のかたちで支給する制度が設けられたとされる。秩禄公債は、一定期間据え置いたのち、最長七年程度で償還を完了する計画で設計されており、その利子と元金は、多くの士族にとって新たな現金収入源となった。(kotobank.jp)

こうした一時金や公債は、当時の士族にとっては、借金の返済に充てたり、新しく事業を起こすための元手としたりするための、貴重な資金となった可能性がある。

ここまで見てきたような家禄引当拝借金や秩禄処分の制度は、当時の一般的な社会状況や政策から復元できる枠組みにすぎない。国立公文書館デジタルアーカイブに残る「有馬氏弘家禄引当拝借金願」は重要な手がかりではあるものの、現時点の手元資料だけでは、氏弘個人の拝借金が実際にどのような条件で返済され、どのように処理されたのかを特定することはできない。

それでも、この制度的な背景を押さえておくことで、氏弘が「家禄を引き当てにしてまで資金を求めた」という行為の重みと、その背後にあったであろう生活上の切実さを、少しだけ具体的に想像することができるように思う。

位置小見出し役割
直前家禄引当拝借金と返済の枠組み制度と返済可能性の整理
直後秩禄処分後の氏弘の暮らし個人の生活像へのズームイン

こうした家禄引当拝借金と返済の枠組みを考えるうえで、秩禄処分の影響も見逃せない。

それでも、この制度的な背景を押さえておくことで、秩禄処分後の氏弘の暮らしぶりや、家禄を引き当ててまで資金を求めたという選択の重みを、少しだけ具体的に想像することができるように思う。

こうした家禄引当拝借金と返済の枠組みを考えるうえで、秩禄処分の影響も見逃せない。明治政府は財政健全化を進めるため、家禄や賞典禄を段階的に廃止する「秩禄処分」を実施した。家禄奉還を希望した士族には、家禄の数年分をまとめて、一時金や秩禄公債として支給する制度が設けられていたとされる。秩禄公債は一定期間の据え置きの後、最長で七年程度かけて償還する設計になっており、その利子や償還金は、多くの士族にとって新たな現金収入源となった。

こうした一時金や公債は、当時の士族にとって、借金の返済に充てたり、新しい事業を起こすための元手としたりするための、貴重な資金となった可能性がある。「家禄引当拝借金願」によって生じた負債も、こうした秩禄処分に伴う給付や公債の利子・償還金によって、段階的に整理されていった事例があったとしても不思議ではないだろう。

もっとも、ここで見てきた内容は、あくまで当時の制度や社会情勢から導きうる一般的な推測にとどまる。国立公文書館デジタルアーカイブに残る「有馬氏弘家禄引当拝借金願」は重要な手がかりではあるものの、現時点の手元資料だけでは、氏弘個人の拝借金が実際にどのような条件で返済され、どのように処理されたのかを特定することはできない。それでも、この制度的な背景を押さえておくことで、秩禄処分後の氏弘の暮らしぶりや、家禄を引き当ててまで資金を求めたという選択の重みを、少しだけ具体的に想像することができるように思う。

こうした家禄引当拝借金と返済の枠組みを考えるうえで、秩禄処分の影響も見逃せない。明治政府は財政健全化を進めるため、家禄や賞典禄を段階的に廃止する「秩禄処分」を実施した。家禄奉還を希望した士族には、家禄の六年分(終身禄の場合は四年分)が、一時金と秩禄公債によってまとめて支給される制度が設けられていたとされる。秩禄公債は年八パーセントの利付きで、発行から三年後に償還を開始し、七年間での完済を予定していた。この利子や償還金は、多くの士族にとって、新たな現金収入源となった。(kotobank.jp)

こうした一時金や公債は、当時の士族にとって、借金の返済に充てたり、新しい事業を起こすための元手としたりするための、貴重な資金となった可能性がある。「家禄引当拝借金願」によって生じた負債も、秩禄処分に伴う給付や秩禄公債の利子・償還金によって、段階的に整理されていった事例があったとしても不思議ではないだろう。(adeac.jp)

もっとも、ここで見てきた内容は、あくまで当時の制度や社会情勢から導きうる一般的な推測にとどまる。国立公文書館デジタルアーカイブに残る「有馬氏弘家禄引当拝借金願」は重要な手がかりではあるものの、現時点の手元資料だけでは、氏弘個人の拝借金が実際にどのような条件で返済され、どのように処理されたのかを特定することはできない。それでも、この制度的な背景を押さえておくことで、秩禄処分後の氏弘の暮らしぶりや、家禄を引き当ててまで資金を求めたという選択の重みを、少しだけ具体的に想像することができるように思う。(kotobank.jp)

曾孫の私にとって、「有馬氏弘家禄引当拝借金願」という題名には、どこか胸の奥がざわつくような響きがある。曾祖父の名と「家禄」「拝借金」という言葉が、同じ一行のなかに並んでいることへの、言いようのない戸惑いである。

藩主から華族となり、さらにアメリカへと留学していった氏弘は、どのようなお金のやりくりのなかで、その道を選び取っていったのだろうか。国立公文書館デジタルアーカイブに残された一枚の公文書は、家禄を引き当てにしてまで求められた留学費用と、その背後にある明治初年の制度や生活の現実を、静かに映し出しているように思える。

この章では、曾孫としてのささやかな戸惑いを抱えたまま、「家禄引当拝借金願」という史料を入り口に、アメリカ留学とお金、そして家禄と秩禄処分の世界をのぞいてみたい。

有馬氏弘がアメリカへ渡ったのは、明治初年、日本が近代国家として歩み始めたごく早い時期のことである。藩主から華族となったばかりの旧大名家の当主が、自ら欧米に留学する例は、当時としても決して多くはなかったはずだ。氏弘は、アメリカでの政治や産業のあり方を学ぶことを目的として渡航し、一定期間、現地での生活と学びを経験したと考えられる。その留学生活の裏側で、どのように資金が調達され、どのようなかたちで支出が積み重なっていったのかが、この「家禄引当拝借金願」という一枚の公文書から、かすかに浮かび上がってくる。

ビューア | 有馬氏弘家禄引当拝借金願

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