2026.8.13 特報記事
今回の曾祖父・有馬氏弘の墓石発見について、調査の記載責任者である庄司一幸さんから、調査の経緯と調査協力者の皆様への御礼の文をいただきました。以下、庄司さんの原文のまま掲載いたします。
有馬氏弘の対面原入植と墓石の発見の経緯について
郡山地方史研究会会員庄司一幸
吉田由起子さんから調査依頼を受けた郡山市安積町徳成寺(曹洞宗)さんが、地元の安積町郷土史研究会会長我妻幸光氏に調査を託しました。我妻氏は私をはじめ地元の歴史研究家約10名に調査を依頼しました。その調査資料をもとに、氏弘氏が対面原の久留米藩士の共同墓地にあると推測した私は、7月18日、我妻氏とともに、山清寺(日和田高倉、真言宗豊山派)を訪れました。それは、吹上潘の菩提寺正仙寺が同じ真言宗豊山派であったからであり、対面原と氏弘氏が亡くなった農業用水池である濁池(にごりいけ)も近くにあったからです。「濁池」は、山清寺と同じ奥州街道沿いにあり、氏弘氏は山清寺を訪れ、対面原の家に戻る途中で亡くなったと思われます。そして、山清寺の住職熊田氏から教えていただいた「鶴番」に行きました。共同墓地は、対面原を一望できる小高い丘にありました。この墓地が久留米藩士の墓地であるのは、入植に入った久留米藩士横溝庄作の墓を発見したことから分かりました。そして、井上家の墓所から、我妻氏の「墓があった!」という大きな声が聞こえました。まさに奇跡です!
かって、氏弘氏は父三敬(則篤)とともに、四肢痙攣麻痺の治療のために岩代熱海温泉(現在の磐梯熱海温泉)に湯治にきたと思われます。氏弘氏は近くに住む長橋村長渡邉家と懇意になり、妻敏と離縁していた氏弘氏は、明治7年1月13日に渡邉村長の娘ナヲと結婚し、翌年3月1日父三敬から家督を相続しました。その後東京麻布区で平穏に暮らしていましたが、明治14年2月に対面原に家族をともない入植したのです。入植者に対する政府の旅費の支給人数をみると大人3人となっていて、氏弘(数え31歳)、妻ナヲ(数え23歳)、妹セイ(数え27歳)、小人1人(氏名不詳、7歳未満)の4人です。困難を承知でなぜ入植したのか、病気完治の御礼、妻ナヲの古里、そして同族の久留米藩が国営の開墾事業のために対面原に入植(明治13年7月)などが考えられます。開墾をするには男手が必要であることから、多くは一族、親類縁者とともに入植しています。男手は氏弘だけ、しかも元吹上潘主、「刀を鍬へ」に替え、開墾は困難をきわめたはずです。そんな氏弘氏の世話をしてくれたのが大蔵壇原の増えた入植者を対面原へ率いてきた指導者久留米藩士井上藤蔵でした。そして、明治12年に独立校として開校していた下伊豆尋常小学校の校長(訓導)の話が出て、19年に廃校になるまで務めました。その間は生活が安定していましたが、校長をやめると、生活は一変し困窮をきわめ、明治25年頃から、ツル、カネ、亨と次々と養女に出しました。氏弘氏の墓は、井上家の墓所に井上家の2人とともに合祀されていました。氏弘氏(大正3年旧3月21日 64才歿、戒名:有弘道英清信士)の墓は6年後に建てられていました。氏弘氏は墓探しをしてくれた曾孫の三姉妹(奈津子、千恵子、由起子)に感謝をしているはずです。
(2026年7月22日 文責 庄司一幸)
安積開拓の調査に長年携わってこられた郡山在住の郷土研究者・庄司一幸さんのご教示に基づき、庄司さんの文責の下、私が一部加筆したものである。
私は、2024年11月に曾祖父・有馬氏弘の戸籍を新たに見出し、2025年1月からは試撃手ブログ「東京都渋谷区 祥雲寺/吹上藩有馬家墓所」にて、その驚きと戸惑いを含めた調査の過程を書き始めた。
そして2026年4月、本ブログ「曾祖父・有馬氏弘の足跡」と題して場をあらため、これまでの記事を見直しながら、新たな史料との出会いと小さな発見を重ねてきた。
本ブログ「曾祖父有馬氏弘の足跡」は、このメールをもちまして、ひとまずここで一区切りとさせていただきます。
しかし、有馬氏弘の墓所を見つけることができた以上、西方寺からの手紙や、郡山地方史研究会会長からいただいた資料を手がかりに、まだ書き続けたいことがあります。
有馬氏弘が勤務した下伊豆島小学校や日和田小学校などには、学校に保存された「学校沿革史」のような資料に、在職当時の様子が記されているかもしれないと教えていただきました。また、有馬ナヲとセイのことを、もっと詳しく知りたいという思いも募るばかりです。
そのため本ブログは、有馬氏弘の妻ナヲと妹セイの足跡を少しでも追い、曾祖父の生涯を見届けるために、今後も続けていきたいと考えています。
遠い時代に生きた曾祖父・氏弘に、ここまでたどり着いたことを、静かに報告できる日を心待ちにしています。

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