有馬則篤と氏弘をつないだ“養子”という運命

有馬家の近代史をたどるとき、親子二代にわたる「養子」という選択が、家の進む道を大きく変えていったことが見えてきます。
大名家の次男として旗本有馬家に入った有馬則篤と、その子として生まれ、のちに吹上藩主家の養子となった有馬氏弘。
二人はともに生まれ育った家を離れ、別の有馬家の跡継ぎとなる道を歩みました。
本稿では、この父と子の養子縁組を対比しながら、当時の大名家・旗本家における養子の意味と、そこから開けた有馬家の「近代への道筋」をたどっていきます。(kotobank.jp)

吹上藩は久留米藩有馬家の支流であり、氏郁の養子として氏弘が家督を継いで明治維新を迎えていますが、この「本家・分家」「大名・旗本」「親子二代の養子」が絡み合う関係を、一言で指し示せるタイトルになっていると思います。(pedia.3rd-in.co.jp)

吉田 由起子

今年1月19日に高祖父である有馬則篤のお墓に足を運んできたことで、私自身のルーツを肌で感じました。高祖父のお墓を訪れることは、単に故人を偲ぶだけでなく、私自身が今ここに生きていることへの感謝の気持ちを再認識させてくれる貴重な機会になりました。
高祖父が命をつないでくださったからこそ、今の私が存在しています。墓所の前で手を合わせることで、遠い過去から現在の自分へと続く、途切れない命のバトンを感じ、深い感謝の気持ちが湧き上がりました。特に激動の時代を生きた高祖父が、時には命懸けで命を繋いでくれたことに思いを馳せると、その感謝はひとしおです。日頃の忙しさから離れ、静かにご先祖様と向き合う時間は、心が落ち着き、まるで自分の心が浄化されたかのような清々しい気持ちになることがありました。高祖父の前で手を合わせることで、心が穏やかになったり、新たな活力が湧いてきたりする体験になりました。
【 歴史との対話】
有馬則篤が生きていた時代は、どのような社会だったでしょうか。高祖父が明治時代に生きていたとすれば、それは日本が大きく変わっていった激動の時代です。そのような時代をたくましく生き抜いてこられた高祖父の墓所を前にすると、歴史の重みを感じ、まるで高祖父と心の会話をしているかのような気持ちになって良かったです。
「有馬家」のお墓は2つありますので、遠い親戚がいることが分かりました。会えるかどうか分かりませんが、成り行きに任せます。氏弘の兄弟がいるかどうか分かりませんが、氏弘は「有馬家」が跡絶えてしまったことは分かっています。遺骨がある氏弘の墓所を守る方を探すことは困難です。

有馬則篤は幕末に幕府の要職を歴任した重要な旗本です。
有馬則篤は、文政9年(1826年)に信濃岩村田藩主の内藤正縄の次男として生まれました。その後、旗本有馬家の有馬則国の養子となり、家督を継ぎました。
【経歴と職歴】
則篤は、旗本として3500石の石高を持つ大身旗本でした。幕府の要職を数多く経験し、幕末の動乱期に重要な役割を果たしました。彼の主な役職は以下の通りです。
• 使番(しばん):情報を伝達する重要な役職です。
• 目付(めつけ):幕府の監察を行う役職です。安政5年(1858年)に就任しました。
• 大坂東町奉行(おおさかひがしまちぶぎょう):文久3年(1863年)に就任し、大坂の行政・司法を担いました。
• 勘定奉行(かんじょうぶぎょう):元治元年(1864年)に就任し、幕府の財政を担当しました。
• 江戸南町奉行(えどみなみまちぶぎょう):元治元年(1864年)に就任し、江戸市中の行政・司法を担いました。
• 大目付(おおめつけ):元治元年(1864年)に就任し、諸大名や旗本の監視、罪人の取り調べなどを行いました。これは幕府の中でも特に重要な役職の一つです。
これらの役職を見るだけでも、則篤が幕府内でいかに信頼され、重要な役割を担っていたかがわかります。

旗本有馬家がどこに住んでいたか、明確な情報は見つけることが出来ませんでした。
ただ、有馬則篤の養父である有馬則国は旗本であり、旗本は江戸幕府に仕える武士でした。そのため、彼らの居住地は江戸が主であったと考えられます。有馬則国が所属する旗本有馬家は、久留米藩有馬家の分家として、江戸幕府に仕える家柄でした。旗本は将軍直属の家臣であり、有馬則国もその一員として幕府の支配体制を支える役割を担っていました。
則篤が内藤正縄の次男であったことから、彼が学識や才能に富んでいた可能性も考えられます。則国は、則篤が旗本次第である有馬家の家運をさらに隆盛させ、幕府内でより高い地位に就くことを期待したのかもしれません。実際に則篤は、使番、目付、大坂東町奉行、勘定奉行、江戸南篤は内藤正縄の次男として生まれました。大名家の子息は幼い頃から学問や武術の教育を受けており、その才能は周囲に知られていた可能性が高いです。則国が則篤を養子に迎える際、内藤家と有馬家の間で、則篤の器量や学力に関する情報交換があったかもしれません。
【 家柄と人脈】
則篤の実家である内藤家は、信濃岩村田藩主を務める大名家でした。則国のような旗本が、大名家の子息を養子に迎えることは珍しいことではありませんでした。これは、単に才能だけでなく、内藤家という家柄が持つ「信頼性」や「将来性」といった総合的な評価が含まれていた可能性があります。当時の養子縁組は、家同士の信頼関係や人脈が重要でした。
【 将来性への期待】
則国は、跡継ぎを定めるにあたり、有馬家の将来を託せるかどうかを慎重に判断したことでしょう。
町奉行、大目付といった幕府の要職を歴任しており、則国の期待に応える活躍を見せたと言えるでしょう。

氏弘が養子になる前に、養父となる有馬氏郁と面識があったかどうかは、残念ながら定かではありません。
【養子縁組の背景】
当時の大名家や旗本家では、血筋を絶やさないため、また才能のある人物を後継者とするために、養子縁組はごく一般的なことでした。氏弘が養子となった背景には、吹上藩の跡継ぎ問題があったと考えられます。
【養子と面識】
一般的に、養子縁組は家と家との間で決められることが多く、当事者同士が事前に面識がなかったとしても不思議ではありません。特に氏弘は旗本の次男という立場でしたので、大名である氏郁と直接会う機会は少なかった可能性が高いです。
【記録の限界】
当時の個人の交流に関する詳細な記録はあまり残されていないことも多く、氏弘と氏郁の個人的な交流について正確な情報を得ることは難しいのが実情です。

既存記事の推敲

則篤の養子入り ― 旗本有馬家を託された大名家の次男

有馬則篤は、信濃岩村田藩主内藤正縄の次男として生まれました。大名家の子息は幼い頃から学問や武術の教育を受けるのが通例であり、則篤もまた、そのような環境のなかで育ったと考えられます。大名家の次男という出自からすれば、若い時分からその才能や器量は周囲にも知られていた可能性が高いでしょう。

やがて則篤は、江戸幕府に仕える旗本有馬家の当主・有馬則国の養子となります。則国の家は、久留米藩有馬家から分かれた旗本家で、江戸を拠点として将軍家に近侍してきた家柄でした。ここで行われた養子縁組には、則篤個人の資質だけでなく、岩村田藩主内藤家という家柄そのものが持つ信頼性や将来性も、あわせて評価されていたと考えられます。

実際に則篤は、江戸幕府のなかで使番、目付、大坂東町奉行、勘定奉行、江戸南町奉行といった要職を歴任していきます。町奉行や大目付は、町方行政と裁判を担う重職であり、旗本のなかでも限られた者だけが任じられる地位でした。則国は跡継ぎを選ぶにあたり、有馬家の将来を安心して託せる人物かどうかを慎重に見極めたはずですが、則篤のその後の歩みは、まさにその期待に応えるものだったと言えるでしょう。

養子縁組という選択

このように、則篤の養子入りには、才能のある人物を迎え入れて家を強めるという意図が色濃く見えてきます。同時に、岩村田藩主内藤家と旗本有馬家という、身分の異なる家どうしが養子縁組を通じて結びつくことで、両家のあいだに新たな人脈や信頼関係が築かれていったとも考えられます。

当時の大名家や旗本家では、血筋を絶やさないため、また有能な人物を後継者として迎えるために、養子縁組はごく一般的に行われていました。本人の才能だけでなく、その背後にある家の安定性や評判、人脈といった要素も含めて、「この家の将来を託せるかどうか」が慎重に判断されていたのです。

氏弘の養子入り ― 吹上藩を継いだ幕臣の次男

その次の世代にあたるのが、則篤の次男として生まれた有馬氏弘です。氏弘は幕臣である旗本有馬家の次男として育ちましたが、やがて同族である吹上藩主有馬氏郁の養子となり、下野吹上藩の第2代藩主に迎えられます。吹上藩は、久留米藩有馬家から分かれた一支流で、1万石の小藩として幕末維新期を迎えました。(kotobank.jp)

氏弘が養子になる前に、養父となる氏郁と直接の面識があったかどうかは、残念ながら史料からははっきりしません。一般に、養子縁組はまず家と家とのあいだで話がまとまり、当事者同士の面識は後から深まっていくことも珍しくありませんでした。特に氏弘は幕臣である旗本家の次男であり、大名である氏郁と日常的に顔を合わせる機会は多くなかったと考えられます。

吹上藩有馬家にとっては、維新前夜の不安定な時代にあっても、久留米本家とつながる同族の血筋から後継ぎを据えることが、藩と家の存続にとって大きな意味を持っていました。氏弘の養子入りには、氏郁の後を継ぐ者を定め、藩主家の家督を確実に次代へつなぐという意図があったと考えられます。(kojodan.jp)

記録の限界

もっとも、こうした養子縁組の場面で、氏弘と氏郁がどのような言葉を交わし、どのように関係を深めていったのかといった、個人同士の交流の細部については、史料に残されていないことがほとんどです。当時の人びとの日常的なやりとりは記録に上りにくく、吹上藩主とその養子であった氏弘の場合も例外ではありません。

そのため、氏弘と氏郁の個人的な交流について、具体的な場面を再現することは、いまの私たちにはできません。私たちがたどることのできるのは、吹上藩有馬家の系譜や家督相続の事実、そして大名家や旗本家における養子縁組の一般的な姿から、その関係の輪郭をそっと想像するところまでなのかもしれません。

二人の養子がつくった道

大名家の次男として旗本有馬家へ入った則篤と、旗本の次男として吹上藩主家へ入った氏弘。二人の歩みは、血筋の上では親子でありながら、その進む方向は「大名から旗本へ」と「旗本から大名へ」と、ちょうど交差する形をとっていました。

則篤の養子入りは、才能ある若者を迎え入れて旗本有馬家を支え、幕府のなかで重い役目を果たしていくための選択でした。一方で氏弘の養子入りは、維新を前にした不安定な時代に、吹上藩有馬家の家督を絶やさぬよう、同族の血筋から後継ぎを迎えるための選択でした。いずれも、ひとつの家の未来をつなぐために、「外から子を迎える」という決断をした点では共通しています。(pedia.3rd-in.co.jp)

私たちから見れば、二人は「養子になった人物」として並べて語られます。しかし当時の人びとにとって、養子とは家運と藩の行く末を左右する、きわめて現実的で切実な手段でもありました。則篤と氏弘のあいだには、父と子という血縁だけでなく、そうした時代の選択を引き受けた者どうしの、静かな連なりがあったように思えてなりません。

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