有馬氏弘 家史に残された歴史的ミステリー

吉田 由起子

有馬氏弘の墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺にあります。祥雲寺には、吹上藩有馬家の累代墓があり、有馬氏弘の石碑も存在しますが、明治9年に隠居・離籍したため、この墓には遺骨がないとされているそうです。
福島県郡山市湖南町三代にある正福寺住職に「氏弘の遺骨があるかどうか」とFAXで問い合わせました。
「郡山市の歴史として昭和40年に安積郡と合併しております。安積郡と申しますのは、東西で4~50㎞、南北に3~40㎞あり、とても広大な範囲の9町村を指す総称として「安積郡」と呼ばれておりました。
安積永盛駅は当山より40㎞ほど西にある駅でございます。その近辺にお尋ねの正福寺(正確には田村郡守山に位置している)は廃寺となっております。
また、頂いた死亡時の戸籍に書かれていた「安積郡山野井村高倉市日和田高倉」となっており、現在の「郡山市日和田町高倉」となっており、田村郡守山から北に20㎞離れた場所に位置しております。
そのため、当山及び廃寺となっている正福寺には有馬氏の墓所があることは考えにくいかと思います。
 福島県郡山市日和田町高倉にある寺院や神社にお尋ね頂いたらわかるかもしれません」という回答がありました。前は死亡場所の近くに福田寺と延命寺がありますが、情報がないとのことでした。細かい地図があればわかるかもです。この情報を教えて頂けば助かります。

歴史上では、没年は「不詳」とされていますが、有馬氏弘の没年の戸籍上では「安積郡山野井村高倉」、大正3年4月(1914年4月)の 死亡届に記載してあります。享年は63歳です。現住所は「郡山市日和田町高倉」です。

有馬氏弘の遺骨がある墓所については、今もって不明なままです。墓所の謎は 現在も解明されてないそうです。歴史のミステリーの一つとして、現在も多くの人々の関心を集めているようです。

投稿作成者

返事が遅れて申し訳ありません。
出張中でちょっと見れてませんでした。
吹上藩有馬家の墓碑に名があるのは、墓が無いと知ったからではないでしょうか?
没年が不詳だということは、行方不明になったのかもしれません。
この為に遺骨が無いという事もありえます。
災害に遭ったか事故に遭ったか、神隠しのようなものもあり得ます。
高齢者の行方不明者は現在も多くいるようで、当時でも多くあったと考えられます。
あくまで可能性の話ですが、それなら見つからないのも合点がいきます

既存記事の推敲

祥雲寺に石碑がありながら、そこには遺骨がないとされる有馬氏弘。では、その遺骨はいったいどこに眠っているのか。東京・広尾の菩提寺から視線を北へ移すと、明治のはじめに安積原野へ渡った士族たちの足跡とともに、福島の寺々が次の手がかりとして浮かび上がってきます。私は、その一つとして福島県郡山市湖南町三代の正福寺に問い合わせてみることにしました。

正福寺住職からのご返事により、私が探している「安積郡内の正福寺」は、現在湖南町三代にある寺院とは別の、安積永盛駅の近くに存在した田村郡守山の寺であり、すでに廃寺となっている可能性が高いことが見えてきました。

ここから先、氏弘の遺骨の行方を追う道筋は、おおまかに三つに分かれます。
ひとつは、安積永盛駅周辺に今も残る寺院のうち、明治初期から続く寺を洗い出し、過去帳に「有馬氏弘」あるいは有馬姓の記録がないかを一つずつ確かめていくこと。
もうひとつは、田村郡守山にあった旧正福寺の跡地と沿革を、地籍図や文化財調査の報告などから探り、氏弘の遺骨が一時的にでもここに迎えられた可能性を検討すること。
そして最後のひとつは、東京都渋谷区広尾の祥雲寺に残る吹上藩有馬家の累代墓について、離籍後の氏弘の墓碑と遺骨の扱いが寺側の記録にどのように記されているのかを、改めてたどっていくことです。
この三つの細い道が、どこかで一本につながり、氏弘の最期の居場所へと導いてくれるのではないか。そう信じて、私は少しずつ手繰り寄せていくつもりです。

弘の遺骨の行方は、いまもはっきりとは分かっていません。それでも、今回の正福寺住職からのご返事によって、私の中では三つの方向性が見えてきました。
ひとつは、安積永盛駅の周辺に残る古い寺々の過去帳をあたり、有馬姓の記録を探すこと。ひとつは、すでに廃寺となった田村郡守山の旧正福寺について、その跡地と歴史を資料からたどること。もうひとつは、広尾・祥雲寺に残る吹上藩有馬家の累代墓の記録から、離籍後の氏弘の扱いを読み解くことです。
どれも時間のかかる小さな手さぐりですが、その先に、曾祖父の祖である氏弘がどこで眠っているのかを知る手がかりが、ひっそりと埋もれているように思えてなりません。

籍の記録を一枚ずつさかのぼっていくことで、私はついに、曾祖父・氏弘が大正三年四月、安積郡山野井村高倉、現在の福島県郡山市日和田町高倉で亡くなったのだというところまで確かめることができました。享年は六十三歳と記されています。

近代以降の歴史書や系図の中では、曾祖父・有馬氏弘の没年はしばしば「不詳」とされています。しかし、改製原戸籍や大正期の戸籍といった一次資料を丹念に追うことで、没年と死亡地については、少なくとも「大正三年四月・安積郡山野井村高倉」という具体的な記録を確認することができます。

それでも、曾祖父・有馬氏弘の遺骨がどこに葬られているのか、その墓所の所在は現在も判然としていません。戸籍上の記載は「安積郡山野井村高倉」、現行の住所表記では「郡山市日和田町高倉」と場所を特定し得るにもかかわらず、肝心の墓所だけが空白のまま残されているのです。

私の曾祖父・有馬氏弘の墓所をめぐるこの空白は、家族史のレベルを超えて、地域の近代史の一端にも関わる小さな「未解決事件」のように思われます。没年不詳とされてきた人物の戸籍上の没年が判明している一方で、墓所はなお不明なままであるというこのギャップが、ささやかながら歴史的なミステリーとして、今も静かに読み手の関心を引き寄せているのかもしれません。

このような状況を踏まえると、今後の手掛かりとしては、郡山市日和田町高倉に所在する寺院や神社、とりわけ高倉地区に古くからある寺院の過去帳や墓地の配置図を確認することが、一つの現実的なアプローチであるように感じています。

🗺 高倉・山野井村・日和田町のつながり説明


かつて曾祖父・氏弘の死亡地として戸籍簿に記された「安積郡山野井村高倉」は、現在の行政区分では「福島県郡山市日和田町高倉」に相当する。郡山市が公表している文化財解説でも、江戸時代に「安積郡山ノ井村高倉(現日和田町高倉)」で人形浄瑠璃が行われていたことが記されており、高倉という地名が、山野井村から日和田町への移行を経ても一貫して同じ地区を指してきたことがうかがえる。(city.koriyama.lg.jp)

近世には「山ノ井」「山野井」などと表記されたこの一帯は、のちに「日和田」と書かれるようになり、現在は郡山市日和田町の一部となっている。郡山市教育委員会がまとめた地名資料では、「郡山の地名」の中に「日和田町」の章が置かれ、その下位区分として「高倉」が一つのまとまりある地区として取り上げられており、地名の連続性が行政資料の上でも確認できる。(city.koriyama.lg.jp)

また、現代の通学区域や農業振興地域の指定図をみると、「日和田町高倉」の内部には「字中舘」「字町裏」「字高倉」「字墓所前」など多数の小字が含まれており、かつての山野井村高倉が、現在も農地と集落が混在する一体の農村地域として存続していることが読み取れる。(gurutto-koriyama.com)

江戸期にはこの高倉地区で上演されていた人形浄瑠璃が「高倉人形」と呼ばれ、その人形や道具一式は明治二十六年ごろの廃絶後も長く保存されてきたという。こうした地域の芸能史においても、「高倉」は山野井村時代から日和田町時代にかけて連続した生活圏として位置づけられており、曾祖父・氏弘の死亡地としての「安積郡山野井村高倉」も、そうした歴史的な高倉地区の中に重ね合わせて考えることができる。(city.koriyama.lg.jp)

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