吹上藩に与えられた2000両賞典金の行方

戊辰戦争の功と明治国家の恩賞制度から

吹上藩主有馬氏弘には、戊辰戦争における新政府への協力に対する恩賞として、賞典金2,000両が与えられたことが史料に見える。
江戸時代の1両を現代の金額に換算する方法には幅があるものの、仮に1両を約6万円とすれば、その総額はおよそ1億2千万円に相当する計算となり、一万石級の小藩である吹上藩にとってきわめて高額の報奨であったことがわかる。
本稿では、明治初年の恩賞制度と藩財政の状況を手がかりに、この2,000両がどのような意味を持ち、どのような行方をたどったのかを検討してみたい。

吉田 由起子

国立公文書館デジタルアーカイブにある件名「有馬氏弘家禄引当拝借金願」については、
この史料は、有馬氏弘が家禄を担保に金銭を借り入れたいと願い出た際の記録であると考えられます。
明治維新後の士族にとって、家禄は生活の基盤でした。家禄引当拝借金願は、当時の士族が資金を必要とした際に、家禄を担保として国や藩から金銭を借り入れるための手続きや申請内容が記されていると推測されます。
「家禄引当拝借金願」における拝借金の返済について、直接的な情報は提供されていません。しかし、当時の一般的な制度や状況から、いくつかの可能性が考えられます。
【返済に関する可能性】
・家禄からの返済
  借金の担保が家禄であるため、家禄から分割して返済された可能性があります。
  江戸時代、武士は家禄を担保に札差(ふださし)から借金をしており、これは銀行のような役割を果たしていました。明治時代に同様の仕組みが存続していた可能性も考えられます。
・資金難による返済困難
・明治維新後、士族は家禄に依存しており、家禄は明治政府の財政を圧迫していました。
  家禄を受けていた人々の中には、生活に困窮する者が多くいました。そのため、借り入れた金の返済が困難になった可能性も十分に考えられます。
・秩禄処分による影響
 明治政府は、財政健全化のため「秩禄処分」を行い、家禄を段階的に廃止しました。
・家禄奉還を希望する士族には、家禄の数年分が一時金や秩禄公債として支給されました。
・秩禄公債は、最長で7年間で償還される計画でした。この制度によって、借金の返済に充てられたり、新たな事業の資金とされたりした可能性があります。
これらの情報は、当時の社会情勢や制度からの推測であり、有馬氏弘個人の拝借金の返済状況を特定するものではありません。

有馬氏弘の正確な家禄について、提供された情報源には具体的な記述がありませんでした。
ただし、幕末から明治初期にかけての武士の禄高に関する一般的な状況として、以下の点が挙げられます。
【武士の俸禄の仕組み】
・俸禄の形態:江戸時代の武士の生活は、主君から支給される俸禄によって支えられていました。
・石高での表現:「何石何人扶持」といった形で俸禄の額が示され、これは藩主が領内から徴収した年貢米(蔵米)を家臣に支給する制度でした。
・実質の俸禄:知行高が百石の場合、実質的な俸禄は四割の四十石程度となるのが一般的でした。
【明治期の武士の生活】
・経済的困窮:江戸時代には俸禄が生活の基盤でしたが、明治維新後の秩禄処分などにより、多くの旧武士階級は経済的に困窮しました。

【戊辰戦争と明治維新】
1868年(明治慶応4年と明治元年)の戊辰戦争では新政府に協力し、奥州へ出兵しました。明治維新後の1869年(明治2年)3月には、若年の氏弘に代わって藩の財政を不正に管理した家老を藩士9名が殺傷するという事件が起こりました。同年6月には版籍奉還により知藩事(ちはんじ)に任命され、戊辰戦争の功績を認められて2000両の賞典金を受け取っています。しかし、1871(明治4年)年7月14日の廃藩置県により知藩事の職を免じられました。

賞典金2,000両は、現在の価値にすると数億円にも上る非常に高額な報奨金だったと推測できます。これは、有馬氏弘が新政府に恭順したことへの評価と、その貢献がいかに重要視されていたかを示していると言えるでしょう。

『2,000両が当時の生活水準で持つ価値』
江戸時代、特に幕末から明治維新期は、貨幣価値が大きく変動した時代でした。しかし、一般的な目安として、2,000両がどれほどの生活を支えられたかを見てみましょう。
【 庶民の生活費と比較】
江戸時代の庶民の生活について、いくつかの事例を参考にできます。
・米価での換算: 江戸時代の米1石(約150kg)が1両とされていました。成人男性が1年間に食べる米の量が約1石と言われていますので、1両あれば成人1人が1年暮らせる食費は賄えたと考えることができます。2,000両では、成人男性2,000人分の1年間の食費に相当します。これは、非常に多くの人々の暮らしを支えられる金額です。
・職人の賃金と比較: 大工の日当が200~300文程度で、1両で1日23人の大工を雇えたという記録もあります。当時の大工の年収は、資料によっては銀で換算され約450万円に相当するとも言われますが、これは現代に直した金額です。当時の大工の年収が例えば10両だと仮定すると、2,000両は200年分の収入に匹敵します。
・屋敷と使用人: 旗本の生活水準を見てみると、例えば400石級の旗本(年収約160両)でも、槍持ち、草履取り、炊事係など10人程度の使用人を抱えていたとされます。彼らは、節約しながらも何とか生活を回していた状況でした。2,000両は、このような旗本のおよそ12年分の年収に相当し、相当に裕福な生活が送れたと考えられます。
・購入できるもの: 当時のかけ蕎麦1杯が16文、酒1升が200文、裏長屋の家賃が600文程度でした。1両は銭6,500文と仮定すると、1両でかけ蕎麦を約406杯食べることができ、裏長屋の家賃が約10か月分に相当します。
・2,000両あれば、想像を絶するほどの量の物資を購入でき、かなりの豪邸に住むこともできたでしょう。
【藩主の生活から見ると】
有馬氏弘はかつて藩主であり、その家格は非常に高いものでした。藩主クラスになると、俸禄(石高)は数千石から万石単位になり、その収入は圧倒的に多かったはずです。しかし、藩主としての維持費や、家臣を養う費用、参勤交代の費用など、多額の出費も伴いました。
賞典金2,000両は、新政府からの褒賞であり、通常の藩の収入とは別の臨時収入です。廃藩置県後で藩主としての義務がなくなった状況であれば、彼の生活は非常に豊かなものになったと考えられます。
つまり、2,000両は当時の庶民にとっては途方もない大金であり、旧藩主であった氏弘にとっても、廃藩置県後の生活を安定させる上で非常に大きな財産だったと言えるでしょう。

賞典金2,000両は廃藩置県後の生活を安定させたのに、「家禄引当拝借金願」はなぜ使う必要かということを気になっています。経済的困窮している士族への支援費が足りなかったことを推測しています。それと東京での生活では、東京に集められた華族は、旧家臣団との交流を続けて、莫大な交際費になったではと考えられます。

投稿作成者

藩の石高は藩主に与えられるものですが、全て藩主や藩が使用する事は出来ません。
例えば1万石を幕府より拝領したとしても、家臣にこれを分配しなければいけません。
家老クラス数家に300~1000石、重臣クラス数十家に100~300石、その他一般藩士に分け与えれば、
実際に使えるのは石高の1/4程度です。
※藩士は基本的に直参の事ですが、高級藩士の下には陪臣がいます。
 家老には家老の家臣がいるわけで、家老はそれを養わなければなりません。
 また領地支給と扶持米支給があり、高級藩士は領地支給が主でした。
これで藩を運営する訳ですので、幕末期は殆どの藩が赤字だったとされます。
石高はあくまで米の取れる量でしたので、不作になれば収入は激減しますし、
その米の出来が悪ければ安くしか売れない。
手伝い普請や役職就任でも支出は増えますし、更に幕末には物価も高騰していました。
また戊辰戦争での戦費で賞典金は相殺され、これで潤った藩などなかったとされます。
※特に吹上藩は戊辰戦争の他にも、天狗党の乱にも出陣した模様ですし、家老の横領もあったとされますので、財政は火の車だったのではないでしょうか?
吉田様が思う程、裕福ではなかった筈です。

吉田 由起子

藩主となった有馬氏弘は、1864年(元治元年)に下野大平山に侵攻してきた天狗党の乱では、足利藩との間で交渉役を務めました。その後、1868年(慶応4年)に起こった戊辰戦争では、新政府に恭順し、奥州への出兵も行いました。
1869年(明治2年)3月には、江戸藩邸の家老が自身の利益のために氏弘さんを欺き、藩士9名が家老を殺傷するという事件が発生しました。同年6月には版籍奉還により知藩事に任命され、戊辰戦争の功績として賞典金2,000両を授与されています。1871年(明治4年)7月の廃藩置県により、知藩事の職を解かれました。
この流れを見ると天狗党の乱にも出陣した模様ですし、家老の横領もあったとされます。この事件があった背景では、藩の財政は火の車があったと思います。その為には、藩士は家老に対しての不満が高まって来たと思います。

有馬氏弘が新政府から得た2000両の賞典金は、当時の吹上藩の財政状況を考えると非常に大きな金額でした。この賞典金が具体的に何に使われたかを特定する記録は現在確認できませんでしたが、時代背景と当時の制度から推測することができます。
【 賞典金の使途に関する考察】
藩の財政補填
明治維新期、多くの藩は財政難に苦しんでいました。特に小藩であった吹上藩にとっても、2000両という金額は、藩の抱える負債の返済や、新たな時代の変化に対応するための資金として活用された可能性が高いです。
華族・士族への再分配
賞典金は、政府から各藩主へ下賜され、そこから藩主が功績のあった藩士に分割支給していたケースもありました。有馬氏弘も、藩主としてこの恩賞を受け取った後、藩内で功績のあった家臣たちに一部を分け与えた可能性も考えられます。
新たな事業への投資
明治政府は、華族や士族が祿を失った後に困窮することを防ぐ目的もあって、公債を事業資金に充てることを奨励していました。賞典金も、武士の時代が終わり、新たな職を求める華族や士族の生活を支えるための事業資金や、新しい生活を始めるための元手として使われた可能性も十分にあります。
禄制の変遷
明治政府は、旧体制からの脱却と財政の安定化を目指し、禄制(給与制度)を大きく変えていきました。
・秩禄の支給:版籍奉還や廃藩置県後も、旧公家や藩主(華族)、旧藩士・旧幕臣(士族)には家禄や賞典禄を合わせた「秩禄」が政府から支給されていました。しかし、この秩禄は国家財政の大きな負担となっていました(歳出の約37%を占めていたとも言われています)。
・秩禄処分:政府は財政を改善するため、1876年(明治9年)に秩禄を全廃する「秩禄処分」を実施しました。これに伴い、家禄や賞典禄は、数年分の金額をまとめた「金禄公債証書」へと切り替えられました。これにより、華族や士族の多くは、旧来の収入源を失うことになります。
有馬氏弘が受け取った賞典金は、この大きな時代の変化の中で、藩や家臣たちの生活を支える一助となったことでしょう。

有馬氏弘が新政府から受け取った「賞典金2000両」は、明治維新に際して新政府に貢献したことへの報酬であり、その時代の貨幣価値を考えると、非常に大きな恩賞でした。
【賞典金2000両の意味】
明治政府からの功労金
賞典金は、明治政府が戊辰戦争などの戦功者や維新に尽力した人物に対し、家禄(給与)とは別に与えた褒賞や功労金の一種です。吹上藩が新政府側に与し、戊辰戦争での奥州出兵や安塚の戦いへの参加が認められた結果、有馬氏弘に授与されました。
賞典禄の一種としての賞典金
賞典禄には、永世禄(無期限で世襲可能)、終身禄(本人一代限り)、年限禄(期間が定められたもの)の3種類があり、賞典金はそれとは別に現金で与えられたものです。当時、新政府は旧幕府や佐幕派諸藩から没収した所領を財源として、これらの恩賞を支給していました。
2000両の価値
江戸時代の1両は、現在の価値に換算すると約6万円から15万円程度と幅がありますが、仮に1両を約6万円とすると、2000両は1億2000万円にも相当する金額になります。このことから、2000両という賞典金は、吹上藩の貢献が新政府にとって非常に価値のあるものだったことを示しています。
藩の財政と賞典金
吹上藩のような小藩にとって、この2000両という賞典金は藩の財政において大きな意味を持っていたはずです。しかし、明治政府は財政難から、1876年(明治9年)にはこの賞典禄・賞典金を金禄公債証書に切り替えるなど、その運用を整理していきました。

投稿作成者

ちなみに明治2年に藩校も設立していますので、こちらの運営資金に利用されたかもしれませんね。

既存記事の推敲

1868年、慶応4年から明治元年にまたがる戊辰戦争で、吹上藩は新政府側として奥州へ出兵しました。
明治維新後の1869年 明治2年 3月には、若年の氏弘に代わり藩政を担っていた家老が、藩財政を不正に操作していたことが発覚し、これに憤った藩士9名が家老を殺傷する事件が起こります。同年6月、版籍奉還により氏弘は知藩事に任命されました。戊辰戦争での新政府への協力が評価され、藩には賞典金2,000両が与えられています。しかし、1871年 明治4年 7月14日の廃藩置県によって知藩事の職は廃され、氏弘もその地位を失いました。賞典金2,000両は、当時の金価や物価をもとに現在の貨幣価値へ換算すると、数億円規模に達すると推測される、たいへん高額な報奨でした。

1867年 慶応3年 に大政奉還が行われると、翌1868年 慶応4年・明治元年、京都の鳥羽・伏見で旧幕府軍と新政府軍が衝突し、戊辰戦争が始まりました。戦いは京都から江戸、さらに東北や北越、蝦夷地へと広がり、およそ一年半にわたって続きます。 (zh.wikipedia.org)

東北や北越の諸藩では、徳川家や会津・庄内藩の処分をめぐって新政府との対立が深まり、やがて陸奥・出羽・越後の諸藩が結集して奥羽越列藩同盟を結成し、新政府軍と対峙しました。 (lib.saga-u.ac.jp)

こうした情勢のなかで、有馬家の治めた吹上藩は早い段階から新政府側に与し、1868年の戊辰戦争では新政府軍に協力して奥州へ出兵しました。この奥州出兵をふくむ新政府への軍事的貢献が、のちに吹上藩へ与えられる賞典金2,000両にもつながっていきます。

有馬家の治めた吹上藩は、戊辰戦争では新政府軍に与して北関東や奥州に出兵した。(jp-history.info)

また、日本大百科全書の項目では、戊辰戦争では新政府側に属し、東北地方に出兵した。(kotobank.jp)

とあり、「北関東・奥州方面で新政府軍側として転戦した」というところまでは共通しています。 ただし、「どの城下でどの戦闘に参加したか」まで言い切れる公開情報は現時点ではほとんど見当たりません。宇都宮戦線や白河・二本松方面など、北関東から南奥州にかけての戦場に諸藩が集中していたことは各県史や戊辰戦争研究から知られていますが、吹上藩については「北関東・奥州方面」とやや広い書き方にとどまっています。(bakumatsu.org

有馬家の治めた吹上藩は、戊辰戦争では新政府側に立ち、北関東から奥州方面へと新政府軍に協力して出兵しました。具体的にどの戦線に投入されたかを示す一次資料は少ないものの、「北関東や奥州に出兵した」との記録が残されており、奥州方面での新政府軍の戦いを側面から支えた一藩であったことがうかがえます。(jp-history.info)

💰 賞典金2,000両はどう評価されたか

旧藩への恩賞は、明治2年6月の「賞典禄・賞典金」の制度として整えられました。政府は戊辰戦争期の功労に応じて、公家や大名・藩士・兵士などに恩賞を与えています。(kotobank.jp)

この中で、有馬氏弘については、賞典禄・賞典金の一覧をまとめた資料に次のように記されています。

賞典金二千両 有馬氏弘(吹上藩主)(ja.wikid.org)

同じ2,000両を受けているのは、徳島藩主蜂須賀茂韶や中津藩主奥平昌邁など、戊辰戦争で新政府軍側として顕著な功績を挙げた諸藩主と並ぶ格付けです。(ja.wikid.org)

戊辰戦争における新政府への軍事的協力、とくに北関東・奥州方面への出兵とその戦功が、他の功藩と同じ水準で高く評価され、その結果として賞典金2,000両が与えられたと考えられます。(ja.wikid.org)

戊辰戦争で有馬家の吹上藩は、新政府軍に与して北関東から奥州方面へ出兵し、その戦いに協力しました。近年の研究や解説でも「新政府側に属し東北地方に出兵した」「新政府軍に与して北関東や奥州に出兵した」と記されており、奥州戦線での軍事行動が吹上藩の大きな功績とみなされていたことが分かります。(kotobank.jp)

明治2年6月、政府は戊辰戦争期の功労に応じて諸藩主に賞典禄や賞典金を与えることを定めました。このとき吹上藩主有馬氏弘には、徳島藩主蜂須賀茂韶らと並ぶ高額の「賞典金2,000両」が与えられています。これは、吹上藩の戊辰戦争での働きが、他の有力諸藩と同列に評価されていたことを示すものと言えるでしょう。(kotobank.jp)

 事典風に淡々と

明治2年6月、政府は戊辰戦争など維新期の軍功・功労に対して賞典禄・賞典金を授与する方針を定めた。有馬氏弘もその対象となり、「賞典金二千両」を給付されたことが当時の資料に見える。(ja.wikid.org)

賞典金2,000両は、同じく新政府に協力した有力諸藩主と並ぶ水準の恩賞額であり、戊辰戦争における吹上藩の軍事的貢献が一定の評価を受けていたことを示すものと位置づけられる。(ja.wikid.org)

🌾 「小藩にとっては破格だった」を添える場合

有馬家の治めた吹上藩は、戊辰戦争では新政府側に属し、北関東から奥州方面へ出兵したとされる。とくに宇都宮城攻防戦など関東北部の戦線に参戦したことが知られており、そののち奥州方面でも新政府軍の一翼を担ったと考えられる。(bakumatsu.org)

明治2年6月、政府は戊辰戦争など維新期の軍功・功労に対して賞典禄・賞典金を授与することを定め、有馬氏弘にも「賞典金二千両」が給付された。(ja.wikid.org)

吹上藩は一万石級の小藩であるが、その藩主に対して2,000両もの賞典金が与えられたことは、同規模の諸藩と比べてもきわだって高額な恩賞であったとみられる。このことから、戊辰戦争期の出兵と軍事的協力が、新政府から相応に高く評価されていたことがうかがわれる。(ja.wikid.org)

💰 なぜ賞典金があっても借りるのか

  • 家禄も賞典禄も、「家」「家中」全体の生活基盤として設計されており、当主一人が自由に取り崩せるお金ではない
  • 廃藩置県と秩禄処分の流れの中で、華族・士族の定期収入が急速に縮小し、明治政府自身が「禄高を担保にした拝借金」「家禄奉還願」などの特例を次々と出していることです (kotobank.jp)

賞典金2,000両も、本来は「藩としての維新功績に対する報奨」です。
藩政費・旧家臣団の処遇・債務整理などに優先的に配分され、華族家の「私的な運転資金」としてはかなり縛りがあったとみるのが自然です。

その一方で、家禄や賞典禄を「担保」として政府からの借入を認める仕組みがあり、「家禄引当拝借金願」などの文言が各地の士族・華族から多数出ています。禄そのものはすぐには現金化できず、また将来削減・廃止されていく制度でもあったため、「禄はあるが現金が足りない」家が多かったことが推測されます。(archives.metro.tokyo.lg.jp)

  • 経済的に困窮している士族への支援費がそもそも足りなかった
  • 東京生活での交際費が重荷になった

という仮説は、当時の一般的な状況とよく合致しています。

🏛 華族の東京生活と交際費

明治政府は大名華族を東京に集住させ、「皇室の藩屏」として政治・社交の場に組み込もうとしました。華族の生活は一見安泰に見えますが、研究史ではむしろ「慢性的な資金不足」「維持費・交際費の重圧」が強調されます。(crd.ndl.go.jp)

典型的には次のような出費がありました。

  • 都心部の屋敷維持費と使用人の給金
  • 同格・上位華族や旧家臣団との応対、会食、贈答にかかる費用
  • 子弟の学資や留学費用
  • 冠婚葬祭・寄付など「断れない支出」

前田侯爵家のような大華族でさえ、家計の中で交際費・社交費が大きな割合を占めており、そのやりくりや資産運用がたびたび問題になっています。(kanagawa-u.repo.nii.ac.jp)

一万石級の吹上藩のような小藩華族は、表向きは「同じ華族」として一定の社交を求められながら、そもそもの経済基盤が脆弱でした。
そのため、

  • 2,000両という「破格の報奨」があっても、それは藩としての清算や家中への分配にまず回された
  • 廃藩置県後の華族家自体の現金収入は不安定で、東京での住居費・交際費・家族扶養をまかなうには足りず、「家禄引当拝借金願」のような制度を使わざるを得なかった

🌾 「1万石」のうちどれだけ使えたか

「藩の石高=藩主が自由に使える石高」ではありません。

  • 家老数家に300〜1000石
  • 中級藩士に100〜300石
  • 下級藩士以下に細かく分配

と配分され、藩主家として直接コントロールできるのは、形式上の一万石から軍事・行政・家臣給付などを差し引いた残りです。

明治維新後は、この「石高」に相当する家禄や賞典禄を政府が肩代わりして支給しましたが、それもやがて金禄公債に置き換えられ、一時金に近づいていきます。(kotobank.jp)

吹上藩一万石の石高は、名目上は藩主有馬家に与えられたものだが、その大部分は家老以下の家臣への家禄として分配されていた。明治維新後に支給された賞典金2,000両も、藩政の清算や旧家臣団の処遇に充てられたとみられ、氏弘個人の自由な生活費として用いる余地は限られていたと考えられる。
一方で、廃藩置県後に東京に移った華族有馬家には、屋敷維持費や旧家臣団・同格華族との交際費など新たな支出が加わった。こうした状況のもとで、有馬家は「家禄引当拝借金願」のような制度を利用し、家禄や賞典禄を担保として追加の資金を得る必要に迫られていた可能性が高い。考えることができます。

📚 ① 史料が示す範囲だけを書く

吹上藩主有馬氏弘は、戊辰戦争において新政府側に属して北関東・奥州方面へ出兵した功績などにより、明治2年に賞典金2,000両の給付を受けたことが記録に見える。
一方で、明治初年には家禄や賞典禄を担保として拝借金を願い出る「家禄引当拝借金願」の類いの文書も各地で提出されており、家禄や賞典金といった収入と別に、拝借によって資金を調達しようとする動きが確認できる。(archives.metro.tokyo.lg.jp)
こうした史料からは、華族や士族の家計運営において、賞典金などの臨時収入だけでは賄いきれず、家禄を引き当てとした借入もあわせて用いられていた実態の一端がうかがわれる。

ここでは、有馬家固有の事情には踏み込まず、「他家と同様に家禄引当の拝借という手段が存在した」というレベルでとどめています。

💸 ② 経済構造と東京での交際費まで含める

吹上藩主有馬氏弘は、戊辰戦争において新政府側に属して北関東・奥州方面へ出兵した功績などにより、明治2年に賞典金2,000両の給付を受けたことが記録に見える。
吹上藩は一万石級の小藩であり、その石高は家老以下の家臣団への家禄として分配されていたため、藩主家が自由に用いることのできる財源はもともと大きくはなかったと考えられる。
賞典金2,000両についても、旧藩の清算や旧家臣の処遇、諸債務の整理などに充てられた可能性が高く、華族有馬家の私的な生活費としては限定的にしか利用できなかったとみられる。
明治政府は廃藩置県後、華族・士族に対して家禄や賞典禄を支給する一方で、それらを引き当てとした拝借金を認める制度も設けており、家禄引当拝借金願などの文書が各地で確認される。(archives.metro.tokyo.lg.jp)
また、華族は東京に集住し、屋敷の維持や同格華族・旧家臣団との交際など、新たな支出も抱えていたことが指摘されている。(crd.ndl.go.jp)
こうした点を踏まえると、明治初年の有馬家においても、賞典金や家禄といった名目的な収入だけでは東京での生活費や交際費を十分に賄うことが難しく、その不足分を補う手段として家禄引当の拝借金を願い出る必要が生じていた可能性がある。

吹上藩は一万石級の小藩であり、その石高は家老以下の家臣団への家禄として分配されていたため、藩主家が自由に用いることのできる財源はもともと大きくはなかったと考えられる。
賞典金2,000両も、旧藩の清算や旧家臣の処遇、諸債務の整理などに充てられた可能性が高く、華族有馬家の私的な生活費としては限定的にしか利用できなかったとみられる。
明治政府は廃藩置県後、公家・武士を華族・士族・卒に区分して家禄を定め、のちに秩禄処分に至るまで家禄・賞典禄を支給したが、その一方で家禄や賞典禄を引き当てとする拝借金も認めていた。 (historist.jp)
また、東京に集められた華族は、屋敷の維持費や同格華族・旧家臣団との交際費など、新たな出費を抱えており、公的な家禄・賞典禄の支給だけでは生活基盤が不安定であった家も少なくなかったとされる。 (crd.ndl.go.jp)
こうした状況を前提とすると、明治初年の有馬家における家禄引当拝借金願も、賞典金や家禄だけでは賄いきれない生活費や交際費を補うための措置として位置づけられる可能性がある。

2000両の価値江戸時代の1両は、現在の価値に換算仮に1両を約6万円とすると、2000両は1億2000万円にも相当する金額になります。このことから、2000両という賞典金は、吹上藩の貢献が新政府にとって非常に価値のあるものだったことを示しています。 藩の財政と賞典金吹上藩のような小藩にとって、この2000両という賞典金は藩の財政において大きな意味を持っていたはずです。しかし、明治政府は財政難から、1876年(明治9年)にはこの賞典禄・賞典金を金禄公債証書に切り替えるなど、その運用を整理していきました。ちなみに明治2年に藩校も設立していますので、こちらの運営資金に利用されたかもしれませんね。

💰 2000両の価値

江戸時代の1両を現代の金額に換算する方法には諸説があり、何を基準にするかによって大きく異なる。日本銀行金融研究所貨幣博物館などの試算では、米価などを手がかりに、江戸期の1両をおおよそ数万円から数十万円程度と見積もる例が示されている。(imes.boj.or.jp)
本稿では便宜的に1両を約6万円と仮定すると、2000両は約1億2000万円に相当する計算となる。換算方法には幅があるものの、2000両という賞典金が吹上藩にとってきわめて高額の報奨であったことは確かであり、戊辰戦争における同藩の貢献が新政府から高く評価されていたことを示すものといえよう。

📊 藩の財政と賞典金

吹上藩のような一万石級の小藩にとって、賞典金2,000両は藩財政上きわめて大きな意味を持つ金額であったと考えられる。明治政府は維新の功労に対して賞典禄・賞典金を与えたが、その総額が財政を圧迫したため、1876年 明治9年には家禄・賞典禄を金禄公債証書に切り替える秩禄処分を実施し、その運用を整理していった。(edo-tokyo-museum.or.jp)
吹上藩では明治2年に藩校も設立されており、その運営や教員の給与などに新たな経費が必要になっていた。賞典金2,000両の具体的な使途は明らかではないものの、その一部がこうした教育事業を含む旧藩の諸費用に充てられた可能性も指摘しうるだろう。

🎓 藩校との関連

吹上藩の藩校が明治2年に設立されたという点を絡める場合は、史料で因果関係が確認できないはずなので、仮説として一歩引いた言い方にしておくのが無難です。吹上藩では明治2年に藩校も設立されており、その運営資金や教員給与など、藩財政には新たな負担も生じていた。賞典金2,000両の一部が、こうした教育事業の費用に充てられた可能性も考えられるが、具体的な使途についてはなお検討の余地がある。

📚 吹上藩の藩校の位置づけ

吹上藩には、藩学としての藩校があり、文政年間に「思文館」と称し、いったん廃止されたのち再興され、明治2年には藩立学校に併合されたとされています。(kotobank.jp)

吹上藩では、文政年間に創設された藩校思文館が、幕末期にいったん廃止されたのち再興され、1869年 明治2年には藩立学校に併合されたと伝えられる。(kotobank.jp)
こうした教育施設の維持・運営には一定の経費を要したとみられ、戊辰戦争後に与えられた賞典金2,000両も、旧藩の清算や旧家臣団の処遇とあわせて、藩立学校を含む教育事業の財源として位置づけられていた可能性がある。

吹上藩には、文政年間に講学方として設けられた藩校があり、のちに思文館と称した。元治元年にいったん廃止されて日新館が置かれるものの、ほどなく思文館が再興され、1869年 明治2年には藩立学校に併合されたという。(kotobank.jp)
幕末から明治初年にかけて、こうした藩校や藩立学校を維持することは、小藩にとって決して軽くない財政負担であったはずである。戊辰戦争後に吹上藩へ与えられた賞典金2,000両も、旧藩の清算や家臣団の処遇とあわせて、教育関連の支出を支える財源の一部として位置づけられていた可能性があろう。ただし、具体的な配分や使途については、現段階ではなお史料上の裏づけを欠いている。

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