氏弘・頼之・頼寧――華族有馬家の流れ

本稿では、久留米藩主家から華族へと身分を移した時代に生きた有馬氏弘、その子として欧米留学を通じて政治や経済、社会制度などを学び、近代的な教養を身につけた頼之、そして頼之の甥として伯爵家を継ぎ、農政や貴族院での活動を経て日本中央競馬会第二代理事長として有馬記念創設に関わった頼寧という、三世代の歩みをたどる。
氏弘・頼之・頼寧という三人の動きを追うことで、旧大名家である有馬家が、明治以降の日本社会の中でどのように役割を変え、「華族有馬家」として近代化していったのか、その大まかな流れを描き出したい。(pedia.3rd-in.co.jp)

有馬氏弘は、筑後久留米藩主家有馬氏の支流である吹上藩主有馬家の第2代藩主であり、久留米有馬家と血縁的につながる一方で、下野吹上藩一万石の当主として幕末・維新期を生きた人物である。(kotobank.jp)

吉田 由起子

有馬氏弘が隠居・離籍後も葬儀に参列できたということは、彼が完全に社会から隔絶された生活を送っていたわけではなく、何らかの形で情報が伝わり、移動できる状況にあったことを把握出来ました。
明治9年(1876年)に隠居になった際には、家督を、養母である鎮(しずか)に譲っています。これは、有馬家との離縁後も、養母とのつながりが完全に絶たれたわけではないことを示唆しているかもしれません。しかし、その後の交流が頻繁であったかどうかは分かりません。
有馬頼之は、筑後久留米藩主有馬頼咸の七男であり、有馬氏弘の養子として有馬家を継承しました。彼は元々、筑後有馬家の血筋であり、氏弘が隠居した後に、氏弘の養母である鎮が頼之を養子として迎え、氏弘が務めた下野吹上藩主の座を継ぎました。氏弘は養子である頼之との交流があったかどうか分かりません。

隠居していることから、この時期までには病状がかなり進行していたと推測されます。手足の麻痺という具体的な症状も出ていたため、公務を継続するのが困難になったことが、隠居の大きな要因となったのでしょう。
【 隠居と離籍の理由】
1. 手足の麻痺による病気
もっとも有力な理由として、氏弘自身が手足の麻痺を患っていたことが挙げられます。病気の療養のため、安積郡(現在の福島県)の温泉地で湯治をしていた可能性もあります。
2. 知藩事在任中の事件関与
もう一つの理由として、知藩事(旧藩主)だった明治2年頃に、家老殺傷事件への関与が挙げられます。この事件で氏弘自身も家臣に重傷を負わせ、後に謹慎処分を受けています。隠居と離籍は、この事件の責任を取る形だった可能性も考えられます。

手足の麻痺があれば、日常生活で立つ、歩く、物を持つといった基本的な動作も困難になります。このような状態では、藩主としての激務をこなすことは非常に難しかったでしょう。
隠居になった有馬氏弘は25歳で若すぎると珍しいと思います。
母の話では福島県にある立派な家でどんな仕事にしているかと気になっていますが、今になって、 隠居後、静かな環境で落ち着いた生活を送ることで精神的な安定を取り戻そうとした休養していることを把握出来ました。それと校長先生としての仕事はやりがいあると思います。

頼之はイギリスに留学され、学問を修めました。明治10年(1877年)に家督を相続し、明治17年(1884年)の華族令が施行された際には、子爵を叙爵されています。
頼之は妻の銓子との間に徳重(明治18年生まれ)と美子(明治23年生まれ)を設けました。 頼之は最終的に久留米有馬家の家督も継承し、宗家である久留米有馬家の第13代当主として、その生涯を終えられました。頼之は、明治期に盛んになった海外留学の波に乗り、若くしてイギリスへと渡りました。当時の日本は、西洋の文化や制度を積極的に学び、国の近代化を進めている最中でした。
• 留学の目的: 欧米の進んだ学問や文化を学び、将来の日本の発展に貢献すること。
• 学んだこと: 政治、経済、社会制度など、多岐にわたる分野。
留学中に得た知識や経験が、その後の頼之の人生や、久留米有馬家を継ぐ上での基盤になったと考えられます。これらの学びは、頼之が帰国後、華族として、そして久留米有馬家の当主として社会に貢献していく上で、大きな役割を果たしたことでしょう。
氏弘は手足の麻痺が無ければ、貴族院議員になるに決まっています。

有馬記念2025のテレビを見て思い出したことは、有馬氏弘の孫は調教師の仕事にしていたそうです。伯父はなかなか会えないほど忙しいです。子供の頃、詳しく聞けばよかったと後悔しています。

1年間 お世話になりました。よいお年をお迎えください。

投稿作成者

色々と人間像が見えてきたのだろうと推測します。
調べれば調べる程真相に近づけますし、
更に更に謎は深まるものですが、これもまた素晴らしい事だと思います。
沢山のコメント頂き誠にありがとうございます。
良いお年をお迎え下さいませ。

既存記事の推敲

頼之は若くしてイギリスに留学し、そこで学問を修めました。明治初年の日本は、西洋の文化や制度を積極的に学び、近代国家としての体制づくりを急いでいた時代であり、頼之もまた、その「海外留学の波」に乗った世代の一人でした。

明治10年(1877年)、頼之は有馬家の家督を相続します。その後、明治17年(1884年)に華族令が施行されると、頼之は子爵に叙せられました。

頼之は、妻・銓子との間に徳重(明治18年生まれ)と美子(明治23年生まれ)をもうけました。のちに頼之は久留米有馬家の家督も継承し、宗家である久留米有馬家の第13代当主として、その生涯を終えることになります。

有馬頼之が欧米に留学した目的は、欧米の進んだ学問や文化を学び、将来の日本の発展に貢献することにありました。留学先では、政治や経済、社会制度など、多岐にわたる分野を学んだと考えられます。
こうした留学中の知識や経験は、その後の頼之個人の人生だけでなく、久留米有馬家を継いでいくうえでの重要な基盤となりました。帰国後の頼之が、華族として、そして久留米有馬家の当主として社会に関わっていく際、この留学経験は大きな役割を果たしたとみてよいでしょう。

もし氏弘に手足の麻痺がなかったなら、貴族院議員として活動していたに違いない、と私は感じています。健康上の制約によって表舞台に立つ機会を失った一方で、その子孫がそれぞれの場所で役割を担っていったことも、有馬家のもう一つの歴史だと思われます。

日本の競馬ファンにとって、有馬記念は1年を締めくくる華やかなグランプリレースです。中山競馬場の芝2500メートルで行われるこのレースは、ファン投票で出走馬が選ばれる仕組みを持ち、年末の楽しみとして長く親しまれてきました。有馬記念の前身は1956年に創設された「中山グランプリ」で、日本中央競馬会の理事長であった有馬頼寧が、中山競馬場にも日本ダービーに匹敵する大レースをつくろうとして提案したものとされています。翌1957年に有馬頼寧が急逝したことから、その功績を記念して「有馬記念」と改称されました。(jra.go.jp)

この有馬頼寧は、久留米有馬家の流れの中に位置づけられる人物であり、その前の世代には、私の曾祖父にあたる有馬氏弘がいます。氏弘は、もし手足の麻痺がなければ、貴族院議員として活動していたに違いないと感じさせる経歴の持ち主でした。実際には健康上の事情から表舞台に立つことはなく、その代わりに、子や孫の世代がそれぞれの場所で役割を担っていきました。欧米留学で政治や経済、社会制度などを学んだ頼之の世代が、華族としての教養や視野を広げていったことも、こうした流れの一部として見ることができます。

2025年の有馬記念のテレビ中継を見ていたとき、私はふと、一族の中に競馬の調教師をしていた人がいたことを思い出しました。氏弘の孫の一人が調教師として競馬の世界で働いていたと聞いています。ゲートに馬が収まっていく映像を眺めながら、「あの伯父は、このレースをどんな気持ちで見ていただろうか」と、画面の向こう側にかつての家族の姿を重ねずにはいられません。忙しい方で、私自身はなかなかお会いする機会がないまま年月が過ぎてしまいました。もっと早く、時間のあるときに、調教師としての仕事のことや、有馬記念というレースについての思いを聞いておけばよかった。年末の有馬記念は、競馬界にとっての大一番であると同時に、私にとっては「聞きそびれてしまった話」をそっと思い出させる、少しほろ苦い番外編の時間でもあります。

筑後久留米藩主有馬家は、幕末・維新期に藩主頼永、そののち華族となってから伯爵頼万らの代を経て近代を迎えました。その流れの中で、本稿で扱う系譜は、まず旧藩主家から華族有馬家への転換期に生きた有馬氏弘、その子として欧米留学を経験した頼之、さらに頼之の甥にあたる頼寧へとつながっていきます。頼寧は伯爵家を継ぎ、農政学者・政治家として活動したのち、日本中央競馬会の第二代理事長となり、有馬記念の創設を提案した人物として知られています。(keibatsugaku.com)

🏯 「一 有馬氏弘と華族有馬家の出発点」

明治維新以前、有馬家は筑後久留米二十一万石の大名として、外様ながら有力藩のひとつに数えられていた。幕末に最後の藩主となった有馬頼咸は、版籍奉還・廃藩置県ののち、華族に列して伯爵を授けられ、旧藩主家として近代国家の枠内に組み込まれていくことになる。華族令によって旧大名家に与えられた伯爵という爵位は、単に家格の継続を意味するだけでなく、将来は貴族院で政治を担うことが期待された身分でもあった。

こうした転換期に生きた一人が、有馬氏弘である。氏弘は、旧久留米藩有馬家の一員として、江戸(のち東京)と地方のあいだを行き来しつつ、旧藩主家から華族有馬家への移行のただ中を経験した世代にあたる。東京では愛宕下町や麻布周辺に屋敷を構え、他の華族と同じく、都心の華族社会のなかで生活を営んだ。氏弘の人生をたどることは、地方大名としての有馬家が、明治国家のもとで「華族」としてどのように位置づけられ、どのような日常を送っていたのかを考える手がかりとなる。(suginamigaku.org)


🎓 「二 頼之の欧米留学と学んだ分野」

明治期の華族子弟にとって、欧米留学は新しい時代の学問と教養を身につけるための重要な機会であった。有馬頼之もその一人であり、欧米への留学によって、当時の日本が「文明開化」の目標とした先進国の社会を、直接目にする経験を得ている。留学先で頼之が学んだのは、単なる語学や一般教養にとどまらず、政治制度や議会運営、国家財政や産業政策といった経済分野、さらには地方自治や社会保障など、近代国家を支える社会制度に関わる幅広い内容であったと考えられる。

こうした学びは、帰国後の頼之が、華族として、そして久留米有馬家の一員として社会と関わっていく際の重要な基盤となった。欧米で目にした議会政治や官僚制、市民社会の在り方は、日本の貴族院や行政組織をどのように位置づけるべきかを考える上で、具体的な比較対象を与えてくれたはずである。欧米留学で、政治や経済、社会制度などを学び視野を広げた頼之の世代が、旧大名としての伝統を保ちながらも、近代日本の制度と折り合いをつけていこうとした、その一つの姿であった。(access21-co.xsrv.jp)


🐎 「頼寧と有馬記念創設」の前に置く説明文

欧米留学で視野を広げた頼之のあと、その甥にあたる有馬頼寧の世代が続く。久留米有馬家伯爵家を継いだ頼寧は、農政学者・政治家として活動し、大正・昭和期には衆議院・貴族院双方の議員を務めたのち、日本中央競馬会の第二代理事長に就任した。中山競馬場に日本ダービーに匹敵する年末の大レースを創設するという頼寧の構想は、のちに自らの名を冠した「有馬記念」として結実することになる。華族有馬家の近代化を、氏弘・頼之・頼寧という三世代の動きの中で見ていくとき、有馬記念の創設もまた、その延長線上にある一つの出来事として捉えることができるだろう。(ndl.go.jp)

以上のような史料からは、吹上藩主有馬家が「華族有馬家」として東京に生活の場を移していくおおよその経緯をたどることができる。ただし、当時の東京で有馬氏弘がどのような日常を送っていたのかについては、公文書や地図だけでは十分に見えてこない部分も多い。そこで最後に、当時の都市空間と他家の例を手がかりにしながら、氏弘の東京での暮らしの一端を情景として描いてみたい。
明治の初め、吹上藩主家として江戸に出入りしていた有馬氏弘は、維新後しばらくのあいだ、他の旧藩主家と同じように愛宕下一帯の華族屋敷の中に身を置いていた。……

明治の初め、吹上藩主家として江戸に出入りしていた有馬氏弘は、維新後しばらくのあいだ、他の旧藩主家と同じように愛宕下一帯の華族屋敷の中に身を置いていた。愛宕山の麓には、かつての大名屋敷と新政府の官庁が入り混じり、近くの通りを行き交うのは役人や軍人の姿が多かったと想像される。かつて参勤交代で「登城」していた江戸とは違い、氏弘が目にしたのは、官庁街として整備されつつある「東京」の始まりだった。

やがて有馬家が麻布へと生活の場を移すと、周囲の景色は少しずつ変わっていく。坂の多い麻布台や飯倉のあたりには、皇族・華族、政財界の邸宅が点在し、高い塀と門の内側に、和館と洋館、そして庭を備えた屋敷が並んでいた。ここでは、日中に主人が霞が関や永田町方面の官庁や議会へ通い、夕刻になると麻布の邸に戻ってくるという、「通勤する華族」の暮らしが形づくられていく。屋敷は、公務の拠点であると同時に、家族が静かに日常を営む私的な空間へと変わりつつあった。

もし氏弘がこの変化をどう感じていたのだろうかと想像すると、愛宕下の屋敷では、まだどこか「藩主として江戸にいる」感覚を引きずりながら暮らし、麻布の高台に立ったときには、「これからは一人の華族として東京に住まうのだ」という、ささやかな覚悟のようなものを胸に抱いていたのかもしれない。江戸の大名屋敷から東京の高級住宅地へ、氏弘の生活空間の移り変わりは、そのまま吹上藩主有馬家が「華族有馬家」へと姿を変えていく過程を映す鏡でもあった。

やがて有馬家が麻布へと生活の場を移すと、周囲の景色は少しずつ変わっていく。坂の多い麻布台や飯倉のあたりには、皇族・華族、政財界の邸宅が点在し、高い塀と門の内側に、和館と洋館、そして庭を備えた屋敷が並んでいた。ここでは、日中に主人が霞が関や永田町方面の官庁や議会へ通い、夕刻になると麻布の邸に戻ってくるという、「通勤する華族」の暮らしが形づくられていく。屋敷は、公務の拠点であると同時に、家族が静かに日常を営む私的な空間へと変わりつつあった。

以上のように、欧米留学は有馬頼之にとって、政治や経済、社会制度に関する近代的な知識と視野を身につける重要な機会であったと考えられる。ただし、具体的な日程や科目、日々の行動については、現時点で確認できる史料が限られており、詳細をたどることは難しい。そこでここでは、同時期の華族子弟の留学記録や当時のロンドン・パリの様子を参照しながら、頼之も経験していたであろう一日の情景を、あくまで推測の域を出ないものとして描いておきたい。
有馬頼之の欧米留学について、詳細な日記や書簡は手元にないものの、同時期の華族子弟の留学記録をたどると、彼がどのような一日を過ごしていたか、およその姿は思い描くことができる。……

有馬頼之の欧米留学について、詳細な日記や書簡は手元にないものの、同時期の華族子弟の留学記録をたどると、彼がどのような一日を過ごしていたか、およその姿を思い描くことができる。朝のうち、頼之は大学近くの下宿から石畳の道を歩き、霧雨の残る街路樹の下を抜けて講義へ向かっただろう。講義室では、国家財政や議会制度について語る教授の英語を聞き取りながら、慣れない専門用語を必死にノートへ書き留めていく。税制や予算案をめぐる議論が、当時の日本ではまだ見慣れない、公開の場での政治論争として展開される様子に、強い刺激を受けたに違いない。

午後、頼之は留学生仲間とともに議会の傍聴席へ向かった。石造りの重い扉をくぐると、広い議場の奥では、政府の方針に対して与野党の議員たちが立ち上がり、時にヤジを交えながら激しく応酬している。予算案の一項目をめぐっても容赦のない質問が飛び、閣僚が答弁で言いよどむと、たちまちどよめきが起こる。その光景を高い傍聴席から見下ろしながら、頼之は、日本で議論が想定されている貴族院の姿との違いを、肌で感じていたのではないかと思われる。

議会を出るころには、窓ガラス越しに夕暮れの街灯が灯り始めている。路面電車が金属音を響かせながら交差点を曲がり、石畳の上を馬車と自動車が行き交う。頼之は、そんな景色を眺めつつ、近代ヨーロッパの都市生活と、自分が暮らしてきた東京・麻布の屋敷町とを心の中で重ね合わせていたかもしれない。ここで見聞きした政治や経済、社会制度の具体的な姿が、帰国後、日本の華族として、そして久留米有馬家の一員としてどのように振る舞うべきかを考える際の、静かな手がかりになっていったと想像される。

吹上藩主家の当主として幕末から明治への転換期を生き、東京へと生活の場を移した有馬氏弘、欧米留学を通じて政治や経済、社会制度の実際に触れ、近代国家のかたちを自らの目で確かめた頼之、そして頼之の甥として伯爵家を継ぎ、貴族院での活動や農政に携わりながら、戦後には日本中央競馬会の第二代理事長として有馬記念創設に関わった頼寧。三人の足跡を並べてみると、旧大名としての有馬家が、華族有馬家として都市の生活空間に身を置き、欧米型の制度や価値観を取り入れつつ、新しい日本社会のなかで役割を探っていった一つの流れが見えてくる。曾祖父氏弘の足跡をたどることは、その流れの中に自分自身の家族史をそっと置き直してみる試みでもある。

三世代が担った華族の役割

吹上藩主家の当主として版籍奉還と華族編成を迎えた氏弘、華族としての特権と責務を背負いながら欧米留学と貴族院を経験した頼之、そして華族制度そのものの揺らぎと終焉の中を生きた頼寧。三世代の歩みを通して見ると、有馬家は常に「華族」という政治的身分のあり方と向き合い続けてきた家であったことがわかる。

氏弘の世代では、旧藩主家として新政府に組み込まれ、東京と旧領とのあいだで家政を立て直しながら、近代国家の枠組みの中に自らの位置を探った。頼之の世代では、欧米留学を通じて近代国家の制度と議会政治を学び、貴族院という場を通して「皇室の藩屏」としての役割を果たそうとする姿が見えてくる。頼寧の世代になると、華族が政治の表舞台から退きつつあるなかで、旧来の家格と新しい社会運動や地域活動とのあいだで、自らの役割を問い直す局面が続いた。

こうした変化の中で、有馬家三世代の歴史は、一つの家の系譜であると同時に、明治憲法体制の成立から華族制度の廃止に至るまで、華族がどのように政治と社会のあいだに立たされていたかを映し出す鏡でもあったと言える。本稿ではこのあと、まず出発点となる氏弘の生涯に焦点をあて、吹上藩主家の末裔としてどのように新しい国家と向き合おうとしたのかを、具体的な場面からたどっていきたい。

吹上藩有馬家は、筑後国久留米藩主有馬家から分かれた一支流であり、江戸時代には譜代大名として一万石を領していた。藩主家の祖は久留米有馬家にさかのぼり、そこから分かれて下野国都賀郡吹上に陣屋を構えた家が、のちに吹上藩と呼ばれることになる。最後の吹上藩主となった有馬氏弘は、前代氏郁のあとを継いで藩主となり、幕末の政変と戊辰戦争を経て、明治二年の版籍奉還では知藩事に任じられたのち、明治四年の廃藩置県によって旧藩主としての役目を終え、東京に移り住むことになった。(kotobank.jp)

その後、明治十七年に華族令が公布されると、旧大名家や公家、維新後の勲功者などに対して公・侯・伯・子・男の五爵が定められ、吹上藩有馬家には子爵の爵位が与えられた。華族令にもとづく爵位は世襲とされ、男子の家督相続人がこれを継承する仕組みであったため、以後、有馬家は「子爵家」として近代国家の身分秩序の中に組み込まれていくことになる。久留米有馬家の本家が「伯爵家」として位置づけられたのに対し、吹上有馬家は支流として子爵に列せられた点にも、旧藩の規模や家格の違いが反映されている。(kojodan.jp)

こうして見てくると、氏弘の生涯は、藩主から知藩事、そして華族子爵家の当主へと、一人の人物が経験しうる身分の変化を連続して通過した例であったとも言える。吹上藩主家としての系譜と、華族令によって与えられた爵位の双方が、のちに頼之・頼寧の世代が背負うことになる「出発点」となっていったのである。(base5.nijl.ac.jp)

もしそのときの私が、自分の境遇を静かに振り返る言葉を残していたとしたら、こう記したかもしれない。かつて吹上で一万石の家中を預かっていた私は、いま東京で「子爵有馬家」の当主として暮らしている。藩主と呼ばれていた日々は遠くなり、役所から届く公文書の上では、数ある華族家の一つとして名前が並ぶだけだ。それでも、久留米から分かれた吹上有馬家の系譜と、領地を離れてなお共に東京へ移った家族や、各地に散っていった家臣たちの顔を思えば、この新しい身分を、ただ与えられた肩書としてではなく、どこかで応えなければならない問いのように感じていたのではないかと思う。

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