安積郡への旅は、曾祖父へのお墓参りのようだった

吉田 由起子

曾祖父である有馬氏弘と祖母が安積郡長橋にある故郷を見たい目的でドライブしました。
前は磐梯熱海にある常圓寺(郡山市熱海町)の住職様からのご返答では個人情報の為に教えられない状態で血の繋がりのある先祖なのに何故かしらと心に残っています。磐梯熱海ICを出て、閑静な常圓寺へ行ってみたところ、住職様にお会いして筆談対応しました。以前お話ししたように本来であれば、お応え出来かねる訳ですが、現在、そのような墓所は確認されておりませんとのことです。100年以上の墓所を探していることが難解のようで理解しています。

磐梯熱海駅の近くにある安積疏水と丸守発電所を見て来ました。安積疏水は安積平野(郡山市)の水不足を解消すべく明治政府が士族授産・殖産興業の政策のもとに、1879年(明治12年)から国営事業第1号として猪苗代湖の水を導水した事業だそうです。磐梯熱海温泉街から見える丸守発電所は大正10年に建設され、当時は大峰発電所と呼ばれていたそうです。有馬氏弘の戸籍は安積郡丸守村大字長稿字館92番地ですが、現在は変わっていてないようです。丸守発電所は丸守村という同じ名前が残っている感じです。

熱海町長橋、熱海町上伊豆島、熱海下伊豆島等の広く美しい田園風景を支える母なる水路、安積疏水。高低差を生かして猪苗代湖から郡山盆地へと流れ下るその水路は市内西部一帯に広範囲に張り巡らされたそうです。
郡山市熱海町長橋字反田にある長橋の種蒔き桜を見て来ました。市指定天然祈念。樹高17メートルの推定樹齢350年から400年のエドヒガン。曾祖父である有馬氏弘も祖母も満開の種蒔き桜を見たかもしれません。

郡山市の地図(NJ-54-22-12)に乗せる安積郡下伊豆島屋敷が周りを探しても見当たらないです。
有馬氏弘が校長先生としての勤務は、熱海町長橋から熱海下伊豆島までの距離が遠くない感じです。有馬氏弘は馬で通っていることを推測しています。故郷の味を知って良かったです。

郡山ICに入って、猪苗代磐梯高原ICを出て、裏磐梯高原ホテルへ泊まりに行きました。

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個人情報の件は最近は色々と悪い輩も多く、実際に確認が取れないと教ないのかもですね。
色々と巡られて雰囲気を感じられたなら素敵な事です。安積疏水、種蒔き桜はたぶん曾祖父様も見た事でしょう。

吉田 由起子

安積郡は広々とした田園風景がとても美しいでした。有馬氏弘は静かな環境で暮らしているようです。
明治維新後、多くの士族が禄を失い、新たな生活の場を求めて地方に移住しました。安積郡も士族の入植が行われた場所の一つです。有馬氏弘は安積開拓に加わったかどうかわかりませんが、士族たちとの交流があったと思います。祖母の養父は士族、祖母の主人の父は士族ではと考えれらます。

インターネットでは明治2年には藩立の教育機関「学聚館」が設立され、藩士だけでなく一般の人々にも教育の機会を提供しました。これは有馬氏弘が藩の近代化や人材育成にも意識を向けていた表れと言えるそうです。「学聚館」ということを初めて知りました。熱海町長橋、熱海町上伊豆島、熱海下伊豆島は辺鄙なところに氏弘は経験上で教育の力を入れたようです。

インターネットで目の留まりました。祥雲寺には、久留米藩有馬家の墓所があり、有馬氏弘もここに葬られています。かつては広大な墓域でしたが、昭和29年の本堂火災後に改葬され、現在は合葬墓となっていますとのこと、初めて知りました。前は祥雲寺へFAXで問い合わせたところ、「参考のため、お書込み頂きました有馬氏弘の前歴及び墓所に関しまして、確認いたしましたが、時代が過ぎており、残念でございますが、当寺では不明の事でございました。また遺骨につきまして、現住職に確認いたしました」ということを納得しています。祥雲寺の墓碑銘があるならば立派な墓だとのこと、有馬氏弘の功績が大きいと思います。

※修正依頼によりコメント修正しました。
人は皆土に帰るといいますが、その通りであると思います。
骨壺に入れられているものも、年月が経ては割れたりしているものもあり、殆ど無い場合もあったりします。
何らかの理由で墓を改葬する場合、掘り返しても遺骨が見つからない場合もあり、
そういう場合はその周辺の土を遺骨替わりとし、墓碑とその少しの土を改葬するらしい。
墓碑はそこに埋葬したという印でもありますが、
最終的には遺骨が土に帰るという前提で、被葬者の形代とされるものたと思います。
精神的な話ではありますが、墓碑銘が刻まれているのであれば、
それはやはりその方のお墓であるので、当ブログでも遺骨墓、遺髪墓、遺品墓、
拝墓、供養塔と色々ありますが、全てその人の墓であるとしています。
安積郡に埋葬されていると仮定すれば、
曾祖父様は安積郡の土となったのでしょうし、また祥雲寺の墓も正式な墓といえます。
そういう意味では安積郡のご旅行も、お墓参りと同様だったのかもしれませんね。

吉田 由起子

今回の郡山の旅では、有馬氏弘さんが安積郡でどのように暮らし、地域にどのような影響を与えたかという目的で故郷を見に行って来ました。時間が足りないほど心残りがあります。次回の目的は有馬氏弘の死亡場所の周辺、郡山市街地にある開成館、安積歴史博物館などへ行ってみたいと考えています。

有馬氏弘の戸籍上は「福島県安積郡前澤字對面原番地未定」「福島安積郡山野井村高倉字對面原番地未定」で
「未定」のことを前から気になっています。
明治12年(1879年)には、郡区町村編制法により安積郡役所が設置され、行政組織が整備されていきました。郡山村は宿場町として栄え、多くの商人が活躍していました。彼らが汗水流して切り拓いた土地は、まさに現在の郡山市の農業、工業、商業の発展の礎となっています。不毛の原野を豊かな大地に変え、現代の繁栄の基礎を築いた功績は、計り知れませんということをインターネットで調べました。
二つの住所は不毛の原野だったかもしれません。実父の有馬則篤と有馬氏弘は安積開拓に関わる協力した形ではと考えられます。明治12年以降は、行政組織が整備された「福島県安積郡丸守村大字長橋館92番地」とのこと、有馬氏弘は結婚、校長先生が就任の生活面が落ち着いて、立派な屋敷が出来たことを推測しています。

有馬氏弘の戸籍上では、明治8年3月1日相續、前戸主の有馬三敬、有馬氏弘の二男と記載してありますが、氏弘の兄は早く死なせたと考えられます。残念ながら、氏弘の兄弟についての記録がありませんでした。氏弘が何処で生まれたか知りたいと思っても市役所戸籍課へ行った結果としては、有馬氏弘の戸籍謄本は明治3年からとのことでした。

祖母の前主人はどんな職業にしているかと気になっています。従姉に聞いてみたら、前主人の職業が分からないとのことでした。前主人の二男の戸籍は、出生 明治43年1月、住所 安積郡郡山町字稲荷51番地と記載してあります。地理を調べたところ、郡山駅の近くに生まれたことが分かりました。二男の父は明治45年に他界されたようです。
安積疏水は農業用水だけでなく、水力発電にも利用され、郡山の工業化に大きく貢献しました。安価な電力が供給されたことで、紡績会社などが進出し、郡山は東北有数の都市へと発展して行ったそうです。明治時代の郡山市にある紡績業の写真では女性が自立出来るほど盛んであったことを見て驚きました。二人の主人(兄、弟)の父は紡績業ではないか、氏弘は紡績業の応援しているではないかと想像しています。子供の頃は伯父の家へ遊びに行って婦人服縫製業を営業していることを記憶しています。伯父の祖先の血が繋がっているのではないかと考えられます。

投稿作成者

当時の紡績業は今でいえば半導体や特殊化学とか、世界に売り出せる大きな産業でしたので、
可能性は大いにあるでしょう。
戸籍に番地未定というのもあるのですね。これはご推測のように原野だったのでしょう。

満開の大木を目の前にして、曾祖父やお祖母さまも同じ風景を見たかもしれないと思うと、時間が一続きにつながる感じがします。

🌸 種蒔き桜と有馬家の時間

郡山市の「長橋の種蒔きザクラ」は、市指定の天然記念物で、エドヒガンの古木として郡山市の桜の中でも特に大切にされている存在ですね。案内によれば、地元では昔から生活や祈りと結びついた桜として親しまれてきたと紹介されています。(city.koriyama.lg.jp)

推定樹齢が三百五十年から四百年ほどということは、江戸時代前期からそこに立ち続けてきたということになりますから、曾祖父の氏弘や祖母が郡山・熱海方面とご縁のあった時期にも、すでに立派な老木だったはずですね。

満開の桜の下に立って「同じ桜を見上げたかもしれない」と想像できるのは、系譜や足跡をたどってこられたからこそ生まれる感覚だと思います。ブログでも、今日のご感想とともに「樹齢」「市指定天然記念物であること」「推定樹齢から見た先祖との時間的な重なり」を書き添えると、とても印象的な一篇になりそうです。


長橋の種蒔きザクラにまつわる伝承や地域の行事はありますか?

長橋のあの大きな木には、どんな物語が重なってきたのか気になりますよね。

🌸 言い伝えに近い性格

郡山市や熱海町の資料では、長橋の種蒔きザクラについて、特定の昔話や人物伝説ははっきりとは記されていませんが、「地域の人々が農事始めの指標にしている樹」として紹介されています。(city.koriyama.lg.jp)

種蒔き桜という名称自体が、「この桜が咲いたら田畑の種をまく」という農作業の合図になってきたことを示していて、それがこの木にまつわる一番大きな「伝承的な役割」と言えそうです。

🧑‍🌾 地域の行事との結びつき

郡山市や観光協会などの公開情報を見るかぎりでは、長橋の種蒔きザクラ単独で行われる祭礼や神事は特には記録されていないようです。(do-fukushima.or.jp)

ただし、

  • 種まきや田植えなど農作業の始まりを決める目安として
  • 地元の人がその年の作柄や天候を占うような気持ちで見上げてきた桜として

日常の中で自然に「行事と一体化してきた木」だったと考えられます。

✏ ブログに書くときのまとめ方

長橋の種蒔きザクラについては、次のように書くと事実にも沿って雰囲気も伝わりそうです。

長橋の種蒔きザクラは、熱海町長橋の農村の暮らしと結びついた古木である。樹高十七メートル、推定樹齢三百五十年から四百年のエドヒガンで、郡山市の市指定天然記念物となっている。村の人びとは、この桜の開花を目安に農事を始めたと伝えられ、「種蒔き桜」という名もそこから生まれた。曾祖父・氏弘や祖母も、種まきや田植えの季節に、この桜を見上げたかもしれない。


安積疏水と長橋の風景が、氏弘の時代と重なって見えてくるようです。

💧 安積疏水と氏弘の時代

安積疏水は、明治12年に起工され、明治15年8月ごろに幹線水路が完成し、その後同年10月に通水が行われた事業とされています。(maff.go.jp)
つまり、明治十年代のうちには、猪苗代湖から水が流れ、安積原野や郡山の新田開発が本格的に始まっていました。

曾祖父の有馬氏弘さんが明治・大正期に郡山や安積郡と関わりを持っていたのであれば、開成山周辺や田園地帯を通る安積疏水の流れを、実際に目にしていた可能性は十分にあると言えます。
とくに、

  • 開成山大神宮周辺
  • 水路沿いの農地や新田地帯

などは、当時の人にとって「近代の象徴」ともいえる新しい風景だったので、印象に残ったのではないかと想像できます。

🌸 桜と疏水がつなぐ時間

長橋の種蒔きザクラは推定樹齢三百五十年から四百年のエドヒガンで、市指定の天然記念物になっています。(city.koriyama.lg.jp)
江戸時代から立ち続ける桜と、明治期に完成した安積疏水、そのどちらもを氏弘や祖母が見たかもしれないと考えると、郡山の風土そのものが一つの「先祖の記念碑」のように感じられますね。

郡山の近代を拓いた安積疏水は、明治十五年に完成し、猪苗代湖の水を安積原野へ導いた。曾祖父・有馬氏弘も、安積郡に暮らした時期には、どこかでその水路と出会っていたにちがいない。長橋の種蒔き桜の下から、遠く安積疏水の流れを思うとき、祖先が見たであろう風景が、今の私の眼前に重なってくる。


安積疏水ができてからの郡山の変わりようを思うと、氏弘が見た風景もだいぶ違っていたのだろうなと感じますね。

💧 農業の大変化

安積疏水ができる前の安積原野は、水利が悪く「不毛の大地」とまで言われていました。
明治15年に疏水が完成し、約3,000ヘクタールの新しい水田が開かれたことで、郡山一帯は一気に「三万石」から「三十万石」に匹敵すると言われる米どころへ変わっていきました。(city.koriyama.lg.jp)

猪苗代湖からの水で田んぼが潤うようになり、安定してお米がとれる土地に変わったことが、郡山の基礎をつくったと言えます。(nippon.com)

🏭 産業とまちの発展

安積疏水の水は、やがて農業用だけでなく、発電や工業用水、上水道にも使われました。
明治32年には沼上水力発電所がつくられ、日本でもかなり早い時期の水力発電として、製糸業や化学工場の進出を支えます。(maff.go.jp)

この水のおかげで工場や企業が集まり、人口5千人ほどの寒村だった郡山は、のちに「経済県都」と呼ばれる中核都市へと成長していきました。(maff.go.jp)

🌳 風景と記憶としての安積疏水

疏水の完成を記念して、麓山公園には「麓山の飛瀑」という滝が造られました。今も郡山駅西口の滝のモニュメントとともに、安積疏水の象徴になっています。(city.koriyama.lg.jp)

氏弘が郡山にいた頃には、すでに水路と新田の田園風景、そして麓山の飛瀑が「新しい郡山の顔」として目に入っていたはずで、その風景を今、同じ場所で見ているのだと思うと、時代をまたいだつながりを感じます。

安積郡の土にふれながら歩かれた今の気持ちが、とても静かに伝わってきました。

🌱 「安積郡の土」と曾祖父

安積郡に埋葬されたと考えになるのであれば、
「曾祖父は安積郡の土となった」という表現は、とても自然で、なおかつ自身の心を落ち着かせてくれる言葉だと思います。

祥雲寺の墓が正式な墓と受けとめられた今、
そこに手を合わせることは、曾祖父の魂と向き合う行為として、十分に意味を持っているといえます。

🚶 安積郡への旅と「お墓参り」

郡山市熱海町長橋字反田の長橋の種蒔き桜を訪ねられ、安積郡の土地を実際に歩かれたことは、
広い意味で「お墓参り」にとても近い行為だったのだと思います。

たとえ墓石の場所が特定できていなくても

  • 祖先が土になったと想像される土地に立つこと
  • その土地の自然や風にふれながら、祖先を思い出すこと

これらは、お墓の前で手を合わせるのと同じくらい、深い「追悼」と「対話」になっているはずです。

安積疏水から郡山の紡績業、そしてご親族の仕事へのつながりを想像されているところが、とてもおもしろい視点だと思います。

💧 安積疏水と郡山の工業化

安積疏水は、もともと農業用水として開削されましたが、その後は水力発電や工業用水にも使われ、郡山の工業都市化を強く後押ししました。
とくに沼上発電所からの送電により、紡績・製糸をはじめとする工場が進出し、郡山の産業基盤がつくられたことが各種資料で説明されています。(bunka-manabi.or.jp)

その結果として、郡山は「安価で豊富な電力を使える工業都市」となり、女性労働者が多数働く紡績・製糸工場も発展していきました。(bunka-manabi.or.jp)

🧵 紡績業と女性の自立

明治・大正期の紡績業では、若い女性が「家計を支える賃金労働者」として多数雇われました。
郡山でも、安価な電力に支えられた紡績工場が立地し、女性が現金収入を得て家庭を支える、「自立」に近い生活を送る事例が多かったと考えられます。

郡山の近代史資料館や開成館などでは、当時の工場と女性労働者の写真・解説が展示されており、ブログで触れておられた「女性が自立できるほど盛んであった」という実感とも一致します。(bunka-manabi.or.jp)

🧭 二人の主人の父と氏弘の「紡績との関わり」という仮説

「二人の主人の父は紡績業だったのではないか」「氏弘は紡績業を応援していたのではないか」という想像は、安積疏水と郡山の産業構造を踏まえると、十分あり得る筋道のある仮説だと思います。

系譜と重ねて考えると、次のような可能性が見えてきます。

  • 士族出身の場合
    安積開拓に関わった士族の中には、農業だけでなく、製糸・紡績など「殖産興業」に転じた人も多くいました。(maff.go.jp)
  • 都市部の中間層の場合
    工場経営者や管理職、あるいは商人として紡績業と関わるケースも多く、安価な電力を背景とした新産業に参入した家もありました。

氏弘がどのような形で郡山と結びつき、どの層の人々と交わっていたかが分かると、「直接紡績業に従事」か「資金援助や後援」かなど、応援のスタイルももう少し具体的に推測できそうです。

🔍 史料調査で確かめやすいポイント

この仮説を少し検証してみるなら、次のような史料が手がかりになりやすいです。

  • 当時の郡山の紡績会社名簿・役員名簿
  • 郡山市史や郡山商工会議所史などに載る「主要工場一覧」とその経営者名
  • 旧住所地の商工名鑑や職業別名簿
  • 氏弘や二人の主人一家の戸主・世帯主の職業欄の変化

ここで得られた会社名や職名と、ご親族の姓・住所が一致してくると、「紡績業に関わっていた可能性」がかなり具体的になります。

明治初期の安積郡の行政が整っていく中で、「番地未定」という表現はたしかに気になりますね。

🏡 「番地未定」が示していること

戸籍の「本籍」と地番の関係

明治期の戸籍では、本籍地は原則として土地の地番で表示されました。壬申戸籍や明治五年式戸籍の段階では、土地台帳や地籍がまだ完全に整っておらず、本籍表示のルールも現在ほど厳密ではありませんでした。(keifu.org)

一方で、本籍は実際に住んでいるかどうかとは必ずしも一致せず、登記されている地番に紐づけて形式的に置かれる場所という性格があります。(fromportal.com)

「番地未定」と書かれる典型的な理由

ご覧になっている「福島県安積郡前澤字對面原番地未定」「福島安積郡山野井村高倉字對面原番地未定」のような記載は、おおまかな村・字までは決まっているけれど、次のような状態だった可能性が高いです。

  • 地籍調査や土地台帳の整備がまだ途中で、個々の筆に正式な「番地」が振られていなかった
  • 戸籍を編製した時点で、どの筆の地番を本籍とするか役所側が確定できなかった
  • 地元での呼び名として「對面原」という字までは共有されていたが、細かな区画・地番の画定が遅れていた

安積郡山野井村高倉については、明治十八年丈量帳・明治二十年地籍帳が残ることが知られており(fcp.or.jp)、まさにその前後の時期は測量や地番整理の過渡期だったと考えられます。つまり、地籍帳が整っていく前の戸籍の段階では「番地未定」としか書けなかった、という解釈が自然です。

🧭 系譜調査への意味合い

「未定」は空白ではなく「範囲」が絞れているサイン

「未定」とあるからといって、ふわっとした住所というより、「安積郡前澤字對面原」「山野井村高倉字對面原」という範囲までは特定されている状態です。
郷土史や地籍資料と組み合わせると、次のような方向で絞り込みができます。

  • 明治二十年前後の山野井村高倉の地籍帳・丈量帳を確認し、「対面原」付近の筆の一覧と地番を把握する
  • その後期の戸籍で、同じ家の本籍表示が具体的な番地を伴う形に改訂されていないか追跡する
  • 郡山市史・安積地方の地名研究などで「対面原」がどの位置を指すか、周辺の寺院や墓地との関係を調べる

これにより、「番地未定」から、曾祖父の本籍がどの辺りの集落・耕地を指していたのか、かなり立体的に見えてくる可能性があります。


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